安井仲治 僕の大切な写真⑤ | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

兵庫県立美術館で見た「安井仲治 僕の大切な写真」の続きです。以下の文章は展示パネルから引用しました。

 

 

  Ⅴ Late1930s-1942:不易と流行

 

昭和12年(1937)の日中戦争開戦以降、写真家たちの活動は徐々に制限されていった。安井が購入した洋雑誌も事前に一部が切り取られるなど検閲を受けるようになる。

 

 

安井が丹平倶楽部の有志とともに「奉仕」として白衣勇士(療養中の傷痍軍人)たちを撮影したのは、こうした時勢に対する応答であった。

 

 

戦時社会を生きる人々を捉える安井は、被写体との距離感をその都度微妙に変えている。あたかも画角の広狭によって、戦時社会の悲哀と全体主義の滑稽さを巧みに描き出しているかのようである。

 

 

流氓るぼう>シリーズは、安井および丹平倶楽部の代表的な仕事として高く評価されている。杉原千畝ちうねの「命のビザ」によってホロコーストを逃れたユダヤ人たちは、極東の神戸にたどり着いた。

 

 

安井は彼らの相貌を捉えるだけでなく、大胆な構図や明暗、フレーミングによって印象深い画面を構作している。

 

 

また、巡業中のサーカスに取材した<山根曲馬図>シリーズも、この時期の白眉と言える。

 

 

各地を渡り歩くサーカス団にカメラを向けたという点では<流氓ユダヤ>に通じるところもあり、人物の内に潜む哀愁やしたたかさを抉り出すように描写している一方、サーカスの虚構性を赤裸々にさらすような諧謔的な写真もある。

 

 

<上賀茂にて>と<雪月花せつげっか>のシリーズは、一見枯淡な趣をたたえている。

 

 

しかし、当時の安井が芭蕉の「不易ふえき流行」という言葉に触れながら、淡く穏やかな自然描写のうちに激しい心持を込めることも、その逆も、芸術においては可能であると記していることを踏まえると、これらの作品には戦時下の社会に対する感慨と静かな抵抗が込められていると見ることもできよう。

 

 

安井は芭蕉の語った「不易」と「流行」、すなわち不変の本質(不易)と絶えざる変化(流行)を等しく重視した。

 

 

昭和17年(1942)3月、安井は腎不全のため38歳という若さでこの世を去った。本章の作品群は、その生前における最後の輝きである。

 

 

他、第5章で見た作品です。

 

戦時中の作品(1)

 

《孤影》1940年

 

《犬》1939年

愛知県渥美半島への撮影旅行時に撮られた作品。所在なげな犬の姿と、その背景の掲示板に目を引かれる。向かって左側には全国中等学校優勝野球大会の速報が貼られているが、右側の掲示板では、国外の戦況が報じられている。

 

《風景》1940年

夏の夕方、晴れ。名古屋市熱田駅付近。《犬》と同じ撮影会中に撮られた一枚。

 

《浜辺に横たわる青年》1930年代後半以降

 

《顔》1940年頃

 

《顔》1940年頃

 

《惜別》 1939~40年

国全体が戦争へと傾斜する中、出征兵士を見送る女性を撮った作品。

 

《肩(1)》1941年頃

 

《肩(2)》1941年頃

 

 

白衣勇士


昭和15年(1940)、日本は「紀元2600年」という節目の年を迎えた。「文化協力」や「報国」が従来にも増して叫ばれる中、丹平写真倶楽部も紀伊白浜の大阪陸軍病院を傷病兵の慰問に訪れ、撮影した。

 

 

流氓ユダヤ

 

昭和16年(1941)3月、安井は丹平写真倶楽部の有志と共に、ナチスによる迫害を逃れ神戸に辿り着いたポーランド系ユダヤ人を撮影した。

 

《母》

 

《子供》

 

《横顔》

 

《門》

 

《顔》

 

《対話》


《顔》

 

《中庭》

 

《顔》

 

 

メンバー6名による連作として昭和16年(1941)の第23回丹平展で発表され、その一部が『アサヒカメラ』『写真文化』『アルス写真年鑑2601版』に掲載された。

 

『アサヒカメラ』第32巻第1号(1941年7月号)

 

『写真文化』第23巻第4号(1941年10月号)

 

『アルス写真年鑑』1941年

 

 

山根曲馬団

 

昭和15年(1940)頃、安井は子供たちを連れて何度か山根曲馬団の公演を訪れた。丹平写真倶楽部のメンバーも同行したことが、ネガや河野徹の作品などからも確認できるが、生前の発表歴は不明である。

 

 

 

 

写真の発達とその芸術的諸相

 

昭和16年(1941)、安井は「写真の発達とその芸術的諸相」と題し、大阪朝日新聞社講堂で講演。この講演会は、同社主催「新体制国民講座」のひとつであった。

 

《自筆原稿》

 

 

作品紹介に使った資料

 

《講演用スライド》

 

参考資料『U.S.カメラ vol.1』 1941年

 

参考資料『フォトグラフィ』1930年

 

 

写真が日本に伝来した歴史の調査のために入手した資料

 

ルネ・ダグロン(柳川春三訳)『写真鏡図説』1867年

 

箕作阮甫『改正増補蛮語箋』1848年

 

 

戦時中の作品(2)

 

《絣》1940年

 

《夜》1940年

 

《優美な魚》1940年

 

《繭》1940年頃

 

《熊谷守一もりかず氏像》1939~42年

熊谷守一(1880~1977)はフォービズムの画家と位置付けられているが、作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。

 

 

雪月花と上賀茂三部作

 

<流氓ユダヤ>が発表された第23回丹平展は、安井にとってまとまった作品発表の最後の機会となった。この時に出品されたのが、<上賀茂><雪月花>の風景三部作2篇であった。『写真文化』昭和16年(1941)11月号でも紹介されている。

 

<上賀茂にて>より《林》

 

<上賀茂にて>より《池》

 

<上賀茂にて>より《塀》

 

<雪月花>より《月》

 

 

同じ頃、安井は『丹平写真倶楽部会報』に「雪月花」と題した文章を寄せ、信頼を寄せる友人たちに写真の未来を託すようにして、それから一年を待たずにこの世を去った。

 

 

安井仲治写真作品集

 

安井の没後、丹平倶楽部の上田備山が中心になって編集、刊行。代表作50点が収録されている。

 

 

 

アマチュア=下手という固定観念からノーマークだった展覧会。芸術的な作品と写実的な作品、両方見れて満足でした。兵庫県立美術館の展示は終了しましたが、4月14日(日)まで東京ステーションギャラリーを巡回しています。

 

 

おわり