兵庫県立美術館で見た「安井仲治 僕の大切な写真」の続きです。以下の文章は展示パネルから引用しました。
Ⅳ 1930s-3:夢幻と不条理の沃野
1930年代半ばになると新興写真は退潮し、写真表現はまた新たな展開を迎えた。その中でシュルレアリスムの理論を積極的に取り入れた写真は「前衛」と形容され、報道写真と並び当時際立った存在感を見せた。安井もまた、前衛写真を主導した写真家の一人だった。
第3章で見たように、安井は昭和7年(1932)頃から「半静物」を標榜し、シュルレアリスムの手法デペイズマン(異化作用)にも通ずる新たな表現を既に試みていた。この独自の手法は、さらなる展開を見せる。(中略)
写真のみが達成し得る精緻な写実を、いわば逆用することで、「物体の中に潜む驚異」「存在する事自体の秘密」、詩情と美しさを具備した驚異の世界が現出することを安井は理解していた。多彩な解釈可能性をはらんだ豊沃な写真が生まれることを彼は望んでいたのである。
《夜》 1936~37年
《球のある構図》 1938~39年
《背広》1938年頃
《構成 振り子》 1938年頃
北野中学校撮影会
昭和13年(1938)春、北野中学校で丹平写真倶楽部の会員による撮影会が催され、教材用の模型や標本、実験器具などを素材にして、競うようにシュルレアリスティックな世界が生み出された。
垂れ幕を引いた影絵芝居を思わせるセットを組んで撮影されたもの
《風景装置》1938年
《水に生まれた華》1938~39年
《シルエットの構成》1938年頃
《シルエットの構成》1938~39年
蝶や蛾の標本を鉱物標本、イソギンチャクの模型と組み合わせたもの
《虫》1938年頃
《蝶》1938年
《蝶》1938年頃
《蝶(二)》 1938年
動物の骨格標本を用いたもの
《モニュメント》1938年
《構成 牛骨》1938年頃
関西の「前衛写真」の先進性を全国的に印象付け、『フォトタイムス』昭和13年(1938)9月号の「前衛写真座談会」で議論の的となった。
風景写真が制限された時代
昭和12年(1937)の蘆溝橋事件以後、社会の緊張感が高まり、国防のための「撮影禁止区域」が設けられるなど風景撮影が制限され始めた。
その一方、撮影会では静物やモデルを扱う機会が増えてゆき、やもそのような状況下で撮影されたものである。残されたネガからは、安井がモデルに様々なポーズを取らせて心理表現に腐心したことがうかがえる。
《女》1938年
《恐怖》1938年頃
《作品》1939年
《夕》1938年
《童子》1939年
《大空の下での相撲》 1930年代後半
《男》1940年頃
《無事》1937年
《海辺》1938年
《浅春》1939年
半静物
昭和12年(1937)の座談会で、安井は「調和ならぬものを調和するやうに組立」て、「現地でモンターヂュするのが新時代の静物写真である」と語った。
昭和7年(1932)年頃に始まる「半静物」の特徴を言い当てた内容だが、この直前には「心を空にして」「道を歩いて」いれば、というようにスナップ撮影や風景写真にふさわしい撮影態度を勧めていることも興味深い。
一方で、この頃から安井のシュルレアリスムへの接近は顕著となり、《生(1938)》のように「半静物」も世界の深淵を覗き見るようなものとなっていく。
《構成》1940年頃
《砂上》1938年
《クラゲと葉》1938年
《クレーンとクラゲ》1938年
《干物》1939年
《草と石》1930年代
《地上》1939~40年
《魚》1938年
《魚》1938年
《ひまわり》1940年頃
《種子と乾く泥》1940~41年
《湖畔》1940年
《草とびん》1940年頃
《静物》1940年
《勁い葉と枯れる草》1940年
磁力の表情
昭和14年(1939)の第19回丹平展に<磁力の表情>連作8展が出品された。これはガラス乾板に鉄粉を撒き、その下に磁石を置いて磁場を出現させ、この「乾板上のフォトグラム」をネガにして正像のプリントを得たものだ。
友人の手塚粲(1900~1986)が勤務する住友金属のためのポスターをつくる計画があったといい、その関連作とも考えられる。8点の詳細は不明だがヴィンテージプリント1点とガラス乾板21点が現存する。
つづく