兵庫県立美術館で見た「安井仲治 僕の大切な写真」の続きです。以下の文章は展示パネルから引用しました。
Ⅲ 1930s-2 静物のある風景
日本の写真史におけるひとつのピークである1930年代は、安井仲治という写真家にとっても様々な手法やスタイルを試み、代表作の数々を生んだ充実した時代であった。
1930年代の中頃には、趣味として写真を楽しむ愛好家向けの新雑誌が相次いで創刊され、それらは全国の写真愛好家たちのネットワークの礎ともなった。
安井も全国誌への寄稿を重ね、写真展などの審査員をたびたび務めている。こうして日本写真界における安井の存在は確固たるものとなっていく。
第3章では、1930年代の作品の中でも新興写真やシュルレアリスムといった特定のジャンルや傾向には区分しがたい作品を取り上げる。
とはいえ、それ故にと言うべきか、ここには自邸の窓ガラスに止まった蛾を写した作品や医療実験の検体を写した《犬》のように、安井の代表作が並ぶ。
1930年代には、安井は4人の子供たちを授かるとともに弟妹を、さらに次男を相次いで亡くしている。こうした私生活における出来事がカメラを小さな生き物たちへと向けさせたのだろう。
安井はすでに昭和7年(1932)に「半静物」の語をもって、撮影場所で静物を即興的に組み合わせて現実と超現実とのあわいを現出させる方法を語っている。《公園》や《帽子》といった作品はこの「半静物」の手法が作品としての完成をみた例である。
卑近な日常を崇高な光景へと結晶化してみせる鮮やかなスナップ、あるいは当時を倣うなら「スケッチ」の諸作は、この写真家の作画態度が現代にも通用するものであることを証している。
朝鮮半島に出自を持つ人々の集落を舞台にした一群の写真はシリーズをなすように目を引く。
ネギの花を用いた「半静物」は中判フィルム、人々の姿とその暮らしを捉えた作品は35mmフィルムによる撮影で、後者は昭和12年(1937)頃から使い始めたとされるライカによる撮影であろう。
他、第3章で見た作品です。着眼点が独特で、私なら選ばないであろう被写体が続出でした。
窓ガラスに止まった蛾
《蛾(一)》1934年
《蛾(二)》1934年
半静物1
《花》1932~34年
《秋風》1933年
《椅子》1935年
《陽光(1)》1932~39年
《窓外》1935年
《ばせを》1931~34年
人物
《夏の妻》1930年代
《子供Ver.》1933年
《子供》1935年
海
《子供》1934年
《少年裸身》1935年
《海女》1936年頃
《女》1936年
《波》1935年
《海辺》1934年
スケッチ
《看板》1937~40年
《看板》1932~37年
《街頭》1932~37年
《窓外(2)》1938年
《街頭》1932~37年
生き物
《浅春》1937年
《少女と犬》1930年代後半
《微風》1937年
《微笑》1937年
作業所
《壺と花》1930年代
《甕工》1936年
《秩序》1935年
棄てられたトタン板の切れっぱしが、ある秩序を成して陽光の下にあったのに刺激され、撮影した。
《製材所にて》1937年
半静物2
《公園》1936年
公園の水道に草花を加えて撮影した一枚。
《海浜》1936年
愛知県知多半島にある野間埼灯台を撮影した作品。空を背景とした開放的な風景写真にもかかわらず、斜めに傾いた灯台、草上に打ち捨てられた藤製の籠、シルエットのみの人物が崩壊の兆しを示す。
《晩秋風景》1936年
《構成》1930年代
どん底
昭和12年(1937)、村山和義が主宰する新協劇団の舞台「どん底」が大阪の朝日会館で上演された際、関西写真家団体を招いた撮影会が催された。安井のほか、芦屋カメラクラブのハナヤ勘兵衛や紅谷吉之助らも参加し作品を残している。
《アクター》1937年
《男》1937年
《どん底》1937年
《「どん底」楽屋》1937年
朝鮮集落
安井は20歳になる前に、朝鮮半島出身の労働者に「ほんとうの人間らしい顔を見た」と書き残している。その後も断続的に朝鮮集落に足を運び、昭和3年(1928)の第1回銀鈴社展に《朝鮮童女》を出品した。
《山羊と半島婦人》1937~40年
《「ネギの花」関連作品(1)》1937年
《「ネギの花」関連作品(2)》1937年
つづく