昨年末、大阪中之島美術館。
テート美術館展の後、「決定版!女性画家たちの大阪」を見ました。
ナビゲーターは大阪豊中市出身の俳優、木南晴夏さん。聞いてからだいぶ時間が経っているので、あまり印象に残っていません。会期終了も近いことですし、ネットをパトロールして思い出すことにしました。
女絵師女うたびとなど多く 浪華は春も早く来るらし
大正元年(1912)に島成園が20歳で文展に入選すると、その成功に触発された木谷千種や生田花朝なども官展に入選を重ねます。
また、美人画や歴史風俗画に加えて、江戸時代から大阪に興隆した南画(文人画)の分野においても、河邊青蘭(1868~1931)や融紅鸞(1906~1982)などが実力を発揮しました。
成功を収めた女性画家は、自らの画業を追求するにとどまらず、後進の女性を育成するため画塾を開きます。門下生たちも師に続いて公募展や塾展に挑み、大阪の女性画家の裾野はさらに広がりました。
当時の美術界は、東京と京都がその中枢を担い、制作者は男性が大多数を占めていましたが、女性日本画家の活躍において大阪は他都市と遜色なく、その存在は近代大阪の文化における大きな特色のひとつとなりました。
「女絵師女うたびとなど多く 浪華は春も早く来るらし」は、吉井勇(1886~1960)という東京の詩人が大阪に来た印象を詠んだ歌です。彼の目で見ても、やはり大正9年(1920)頃は大阪の女性画家の活躍がピークだった時期でした。
第1章 先駆者、島成園
島成園(1892~1970)は、大阪・堺に生まれ、画工の父や図案家の兄の仕事を手伝いながら独学によって絵を描くようになった女性画家です。第6回文展に《宗右衛門町の夕》を出品し、若干20歳で入選。一躍全国的に知られるようになります。
やがて、京都の上村松園(1875~1949)、東京の池田蕉園(1886~1917)とともに、「三都の三園」と称され、さらには「美人画」の領域を越えた衝撃的な作品を発表するようになりました。
《祭りのよそおい》 大正2年
《無題》 大正7年
《影絵之図》大正8年頃
《桜花美人》 大正12年頃
第2章 女四人の会ー島成園、岡本更園、木谷千種、松本華羊
島成園と同時期に活躍した岡本更園(1895~不詳)、木谷千種(1895~1947)、松本華羊(1893~1961)は、成園と同じく20歳前後で文展に入選。大正5年(1916)に成園とともに井原西鶴『好色五人女』を主題とした「女四人の会」展を開催しました。
岡本更園《西鶴のお夏》 大正5年
木谷千種《をんごく》大正7年
木谷千種《浄瑠璃船》大正15年
松本華羊《殉教(伴天連お春)》大正7年頃
第3章 伝統的な絵画―南画、花鳥画など
文人画とも呼ばれる南画は中国の南宗画に由来するが、水墨画・山水画に漢詩などの賛を加えた絵画として、職人画家ではなく、文人の余技的な絵画として江戸時代中期以降に発達しました。
南画は画壇がなく、男女のヒエラルキーもないため、さまざまな背景を持つ画家を集い、地域のサロン的な役割を果たしていたといいます。
橋本青江《山水図》明治34年
河邊青蘭《武陵桃源図》明治41年
川本月香《木蓮図》大正7年
融紅鸞《草花図》昭和17年頃
第4章 生田花朝と郷土芸術
大阪の歴史や風俗を描いた女性日本画家として筆頭に挙げられるのは生田花朝(1889~1978)です。父は文人の生田南水(1860~1934)であり、幼少期から俳句・漢学・国学を学び、菅楯彦(1878~1963)に師事して大和絵・万葉集・国学・有職故実、さらに北野恒富(1880~1947)に人物画を学びました。
《だいがく》昭和時代
《四天王寺聖霊会図》昭和2年
《天神祭》昭和10年頃
第5章 新たな時代を拓く女性たち
島成園の画塾、木谷千種の八千草会、北野恒富の白耀社など多くの女性画家を輩出しました。なかでも木谷千種は、外部講師を招聘したり、塾展を開催したり、現在の専門学校に近い事もしています。
ただし、多くの女性画家は、島成園のように、結婚を機に創作する機会が減ったり、やめてしまうことも多かったようです。現在もですが、女性の社会進出はなかなか難しいですね。
高橋成薇 《秋立つ》 昭和3年
三露千鈴《化粧》大正後期
三露千鈴《殉教者の娘》大正15年
次に続きます。