コシノジュンコ 原点から現点① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

昨年末、あべのハルカス美術館。「コシノジュンコ 原点から現点」を見に行きました。

 

 

入口の序文は、コシノジュンコがこの展覧会に寄せた文章。84歳になった今でも、新たな挑戦が続いている事が伝わってくる文章です。

 

 

文章の最後に複製のサインが添えられていました。

 

 

今回は高校時代から1970年代までを振り返ります。以下の文章は展示パネルから引用しました。早熟でとても順風満帆なデザイナー人生を歩まれたようです。

 

 

  高校時代

 

昭和14年(1939)大阪・岸和田に生まれ、将来は画家になることを目指していたコシノジュンコ。展示された高校時代のデッサンや油彩画の作品群は、まさにコシノジュンコの「原点」である。

 

《高校時代に描いたヌードデッサン》1956~58年

 

 

 

《高校時代に描いた油彩画》1956~58年

 

 

 

しかし、高校2年生の時、姉の恩師で文化服装学院の顧問を務めていた原雅夫の助言により、コシノはファッションの道へ進むことを決意する。

 

 

岸和田という土地、家族の存在もコシノの「原点」である。母綾子は21歳の時に「コシノ洋装店」の看板を掲げ、女手一つで3人の娘を育て上げた。

 

 

三姉妹が進む道を笑顔で見守り続けた母の記憶が、今もなお新たな挑戦を続けるコシノの原動力になっている。

 

 

  文化服装学院 花の9期生

 

文化服装学院はコシノジュンコが入学する前年に男子生徒への門戸を開いた。

 

 

恩師である小池千枝は、イヴ・サンローランやカール・ラガーフェルドと同じパリのオートクチュール組合学校で服飾を学び、帰国後、立体裁断の技術を広めるなど日本のファッション界に影響を与えた人物である。

 

 

彼女の授業に刺激を受け、コシノだけでなく高田賢三(KENZO)、松田光弘(NICOLE)、金子いさお(PINK HOUSE)ら同級生も、ファッションデザイナーとして世界へ羽ばたいた。

 

 

コシノは「服飾を一生の仕事にするという目標を持った彼らと切磋琢磨したことが、自身の成長へと繋がった」と当時を振り返っている。

 

 

  装苑賞受賞作品

 

ゆったりとしたデザインとコバルトブルーの鮮やかな色が目を引くコートは、コシノジュンコが史上最年少で受賞を果たした「装苑賞」の作品である。

 

 

数多のデザイン画から候補作を演出し、洋服に仕立てた後に審査が行われるが、この時は縫製を頼める人が見つからず、全ての作業をはじめて一人で行った思い出の作品でもあるという。

 

 

「装苑賞」を競ったライバルには高田賢三や三宅一生いっせいなど、卒業後自身のブランドを立ち上げた錚々たるデザイナーが名を連ねる。人との出会いがクリエイティブの原点だと語るコシノ。

 

 

互いを認め合い切磋琢磨した学生時代の作品は、その後の輝かしいデザイナー人生の始まりを予感させる。

 

 

  1960sー'70s

 

前年に装苑賞を受賞したコシノジュンコは、1961年銀座小松ストアーに、さらに翌年には数奇屋橋ソニービルに出店を果たした。コシノのデザイナーとしての始まりである。

 

 

横尾忠則がデザインした店内の床一面には、コシノの顔、顔、顔…そのイラストが放つポップな雰囲気が人々の目を惹いた。

 

 

1960年代はポップカルチャーの時代。イギリスではのちに「スウィンギング・ロンドン」の代名詞となったブランド「BIBA」が誕生し、

 

 

フランスでは1966年にイヴ・サンローランがパリのセーヌ左岸にプレタポルテを専門に扱うブティックをオープンさせた。

 

 

日本でも同年、青山にコシノのブティック「COLETTE(コレット)」がオープン。新時代のファッションの到来を告げた。

 

 

「COLETTE」こそ、日本におけるブティックの第1号である。唇のシンボルマークはイラストレーターの宇野亜喜良がデザイン。家具のデザインは金子國義、内装はピンクと黒で統一した。

 

 

1970年、日本万国博覧会(大阪万博)の開催で世の中が熱気に包まれていた頃、コシノは店舗を南青山に移し、ブティック「JUNKO」をオープンさせた。

 

 

青山を通過する外苑西通りは青山霊園につながることから、通称「キラー通り」と呼ばれる。それを命名したのがコシノである。

 

 

ビートルズの「イエロー・サブマリン」をイメージしたブティック「JUNKO」の内部には、丸窓や黄色い螺旋階段があり、外壁は唇や矢印のネオンで装飾した。

 

 

20代後半から30代にかけては「サイケの女王」と呼ばれ、前衛ファッションのリーダー的存在として、週刊誌やテレビでも紹介された。

 

 

当時はザ・タイガースを始め多くのグループサウンズの衣装を手掛け、ブティックは音楽関係者や芸能人、文化人たちの溜まり場になっていた。

 

 

安井かずみ、加賀まりこ、かまやつひろし、布施明、宇野亜喜良、篠山紀信、金子剛義、四谷シモン、学生時代からの友人前田賢三らと、毎晩、伝説のディスコ「ムゲン」や「ビプロス」、レストラン「キャンティ」に繰り出し、賑やかなパーティーが朝方まで続けられた。

 

 

エネルギッシュな時代に、職種を超えた個性豊かな人達と影響し合った贅沢な経験が全て仕事につながっていった。まさに人が集まる所に文化あり。

 

 

  日本万国博覧会(大阪万博)ユニフォーム

 

日本万国博覧会(大阪万博)は、「人類の進歩と調和」をテーマに183日間開催され、のべ6400万人を超える人々が会場を訪れた。

 

 

大阪万博を彩ったのは、ファッショナブルなユニフォームに身を包んだガイドたち。大阪万博は春から秋にかけて開催されたため、合服、夏服、コートなど季節に合わせたユニフォームが一人ひとりに支給されたという。

 

 

森英恵や芦田淳らと共にデザイナーに選ばれたコシノは、当時の流行であったミニスカートだけでなくパンツスタイルも展開し、トレンドを意識しながらも実用的で清潔感のあるスタイルが話題となった。

 

 

  資生堂の仕事

 

コシノジュンコと資生堂との出会いは1968年、口紅「pink pop」の広告用衣装デザインの仕事であった。その当時のキュートでポップなイメージがのちの「花椿」につながることになる。

 

 

雑誌「花椿」は、資生堂の企業文化誌として1937年に創刊。その時代の先鋭的なライフスタイルや様々な分野で活躍する女性像を紹介するとともに、新しい美を提案。今もその魅力を発信し続けている。

 

 

1970年代には、アートディレクター仲條正義によるファッションとサブカルチャーをミックスしたアートスピリットを軸に、新しいビジュアル誌へと変わった。

 

 

コシノは1972~73年の期間、表紙の衣装デザインを手掛けた。その表紙からは、時代とともに変化する女性の姿が見えてくる。

 

 

さらにコシノは1974年、資生堂の主力ブランドであった「ベネフィーク」のシリーズ広告の衣装デザインにも携わる。

 

 

資生堂はデビュー間もない山口小夜子の個性を生かすため、コシノの衣装を起用。デザイン兼アートディレクター天野幾雄、カメラマン横須賀功光とともに2年にわたり毎月人々の記憶に残る雑誌広告を展開した。まさに山口小夜子の魅力が「ベネフィーク」の個性となったのだ。

 

 

化粧品の広告がファッションをリードしていた1970年代。カメラマン、モデル、グラフィックデザイナー、ファッションデザイナー、コピーライターそれぞれが、自身のエネルギーとセンスをつぎ込み、美しいストーリーを生み出していったのである。

 

 

つづく