テート美術館展 光① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

昨年末は「テート美術館展 光 ターナー、印象派から現代へ」を見に、大阪中之島美術館へ行きました。

 

 

英国・テート美術館のコレクションより「光」をテーマにした作品に絞り、18世紀末から現代までの約200年間におよぶアーティストたちの創作の軌跡を追う展覧会。

 

 

俳優の板垣李光人りひと(2002~)さんは、ドイツ語で「光」を意味するLichtが名前の由来である事から、この展覧会のナビゲーターに選ばれたよう。

 

 

まず始めにテート美術館について。以下の文章は展示室のパネルから引用しました。

 

TATEテートは、英国政府が所有する美術コレクションを収蔵・管理する組織で、ロンドンのテート・ブリテン、テート・モダンと、テート・リバプール、テート・セント・アイヴスの4つの国立美術館を運営しています。

 

 

砂糖の精製で財を成したヘンリー・テート卿(1819~1899)が、自身のコレクションをナショナル・ギャラリーに寄贈しようとしたことが発端となり、1897年にロンドン南部・ミルバンク地区のテムズ河畔にナショナル・ギャラリーの分館として開館、のちに独自組織テート・ギャラリーとなりました。

 

 

2000年にテート・モダンが開館したことを機に、テート・ギャラリーおよびその分館は、テートの名を冠する4つの国立美術館の連合体である「テート」へと改組されました。7万7千点を超えるコレクションを有しています。

 

 

テート・ギャラリーの本館であったミルバンク地区のテート・ブリテンは、16世紀から現代までの英国美術を中心に所蔵。ロンドンのサウスバンク地区に位置するテート・モダンは近現代美術を展示しています。

 

 

それでは、作品を見て行きましょう。

 

  光と闇によって宗教的主題を表現した、18世紀末のイギリスの画家たち

 

ユダヤ教とキリスト教の信仰では、神が最初に光を創造したと伝えられています。旧約聖書と新約聖書のなかで、光は善と純粋を表わし、暗闇は破壊と悪を意味しています。

 

 

18世紀末から19世紀初めにかけて、イギリスでは宗教を主題とする作品が再び人気を博しました。芸術家たちは深い精神性を帯びる場面を表現するために光と闇を描き、しばしば直接的な光と比喩的な光の間の相互関係を追究したのです。闇の中できらめく光は希望と苦しみを示しています。

 

 

ジェイコブ・モーア(1740~1793)

《大洪水》1787年

 

 

ウィリアム・ブレイク(1757~1827)

《アダムを裁く神》1795年

 

 

ウィリアム・ブレイク(1757~1827)

《善の天使と悪の天使》1795~1805年頃

 

 

ジョージ・リッチモンド(1809~1896)

《光の創造》1826年

 

 

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775~1851)

《陽光の中に立つ天使》1846年

 

 

  「光の画家」ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
自然現象を捉える新しい手法を展開し、光の強さと儚さを表現する

 

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775~1851)

 

 

若くして風景画家としての地位を確立したターナーは、画業の後半には徐々に抽象的な表現へと作風を変化させました。表面に透明で艶の出る塗料を施し、また淡いトーンの色を使うなど、光を表現する独自の技法を深めていったのです。

 

《湖に沈む夕日》1840年頃

 

 

ターナーの作品は直感的であると同時に科学的でもありました。彼は、「色彩はすべて光と闇の組み合わせである」としたドイツの作家ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの色彩論から影響を受けて制作しました。ゲーテの理論はターナーの絵画だけでなく、彼の教育にも影響を及ぼしました。

 

《講義のための図解63:影のついた様々な形「Ⅰ.通し番号がつけられた遠近法の図」の一葉》1810年頃

 

《講義のための図解66:(ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージに倣って)「Ⅰ.通し番号がつけられた遠近法の図」の一葉》1810年頃

 

《講義のための図解:水で半分満たされた透明な球における反射と屈折「Ⅱ.多様な遠近法の図」の一葉》1810年頃

 

 

ターナーは寒色と暖色、光と闇を対比することで、つかの間の大気の効果を捉えると共に、対照的な感情を連想させる表現を探求しています。

 

《陰と闇ー大洪水の夕べ》1843年

 

《光と色彩(ゲーテの理論)》1843年

 

 

  17世紀から18世紀のヨーロッパにおける哲学と科学の隆盛
啓蒙主義に呼応した芸術家たちは科学技術を主題とした制作に取り組むが、のちにこうした合理的理想を否定する

 

ジョゼフ・ライト・オブ・ダービー(1734~1797)は、技術の進歩を牽引したイギリスの実業家たちに影響を受けています。ダービーは日常生活の風景も、自然を描く時と同様の大胆でドラマティックな手法で描き、光と陰の強いコントラストによって画面を構成しました。

 

 

18世紀に数回噴火したイタリアのヴェスヴィオ山に惹かれ、実際に噴火を目撃することはなかったものの、この火山を主題に何度も取り組んでいます。

 

《噴火するヴェスヴィオ山とナポリ湾の島々を臨む眺め》1776~80年

 

《トスカーナの海岸の灯台と月光》1789年

 

 

啓蒙主義者たちは理性と秩序を理想として掲げ、普及させようとしましたが、18世紀末から19世紀にかけて、ヨーロッパと北米の芸術家たちはこうした考えに異議を唱えるようになりました。自然と人間のつながりを表現し、世界を理解し経験することにおいて、理性や秩序だけではなく、感情が果たす役割を重視したのです。

 

 

ジョン・マーティン(1789~1854)は、こうしたロマン主義を代表する画家の一人です。マーティンは自然の偉大な力と予測不可性を主題とし、鑑賞者の崇高の感覚、つまり恐怖と入り混じった畏怖の念を呼び起こそうとしたのです。

 

《ポンペイとヘルクラネウムの崩壊》1822年

 

ジョン・マーティン《パンデモ二ウムへ入る堕天使「失楽園」第1巻より》1841年

 

 

  自然を見つめ、移り変わる空の様子を捉えたジョン・コンスタブル
ターナーと共にイギリスの風景画に革新をもたらす

 

ジョン・コンスタブル(1776~1837)は画業後期の大作により、イギリスにおける最も重要な風景画家の一人としての名声を築きました。

 

 

晩年の10年間には、過去の作品を元にした版画の連作に力を注ぎ、版画に添えた言葉の中で自分自身を「これまで知られていなかった自然の特質」を加えることで視覚芸術を一変させた「革新者」であると述べています。

 

《ハリッジ灯台》1820年

 

《ハムステッド・ヒースのブランチ・ヒル・ポンド、土手に腰掛ける少年》1825年頃

 

《イングランドの風景より「春」》1830年

 

 

コンスタブルのライバルとして名を馳せたのは、若き画家ジョン・リネル(1792~1882)です。

 

 

彼は、光の効果に細心の注意を払いながら、周囲の世界をできるだけ正確に記録することをめざしました。牧歌的な風景を避けた主題選びは、当時としては珍しいものでした。

 

《風景(風車)》1844~45年

 

 

イギリスの画家の作品をここまで系統立てて見るのも初めてでした。お国柄なのか、色調の暗い作品が多かったように思えます。

 

 

つづく