ユトリロ展 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

京セラ美術館の後は、美術館「えき」に移動。「生誕140周年 ユトリロ展」を見に行きました。

 

 

フォトスポットの作品は《モンマルトルのノルヴァン通り(1910頃)》です。白壁の描写で有名なユトリロですが、今回の展覧会で3つの時代があった事を知りました。

 

 

それでは、エコール・ド・パリの孤高の天才画家、モーリス・ユトリロ(1883~1955)の生涯と画業を見て行きましょう。

 

 

モンマニーの時代(1904~1908)

 

ユトリロは、パリモンマルトルのポトー街にシュザンヌ・ヴァラドン(1865~1938)の私生児として生まれました。17歳でアルコール中毒となり入院。その治療のために絵を描き始めたそうです。

 

 

画家だった母から助言は受けたものの、基本的に独学で絵を描きました。当時の技法は、小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くもの。その頃の作品に《パリのサン・ミッシェル橋(1905頃)》があります。

 

 

また、同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合。ふたりはモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり、飲みに行ったりしていました。


 

白の時代(1908~1914)

 

一時は実業家と結婚していたヴァラドンですが、44歳の時に息子の友人・ユッテルと恋に落ち、後に結婚します。一方のユトリロは母の再婚により、義父の金銭的援助・母の愛情・ユッテルとの友情を同時に失い、ますますアルコール依存へ。

 

 

ただ、その作品は次第に評価を集めるようになり、義父になったユッテルのマネージメントにより、白い漆喰のモンマルトルの風景を数多く描きました。どの作品も哀愁を帯びていて、真っ白な壁面は閉ざされた精神状態を表しているように思えます。

 

《パリのサン=セヴラン教会》1910~12年頃

 

《ラパン・アジル、モンマルトルのサン=ヴァンサン通り》1910~12年頃

 

《クリニャンクールのノートル=ダム教会》1911年頃

 

《可愛い聖体拝受者、トルシー=アン=ヴァロワの教会(エヌ県)》1912年頃

 

 

色彩の時代(1915年以降)

 

ユトリロはアルコール依存症の治療のためにフランス東部へ。療養しているうちに作風も変容し、塗りが薄くなる一方で色彩は豊かになりました。

 

《オーモン近郊の学校(ノール県)》1926年

 

《雪のサン=リュスティック通り、モンマルトル》1933年

 

 

作品にユトリロらしさがなくなったものの人気は相変わらず高く、1928年にはレジオン・ドヌール勲章を受章するまでに至ります。

 

 

しかし1938年、ヴァラドンがアトリエで倒れ、病院へ搬送される途中で死去。ユトリロは母の死に大きなショックを受け、絵を描く事よりも祈る事が多くなりました。

 

 

1935年、52歳で初めて結婚。妻のリュシー・ヴァロールは美術愛好家で、ユトリロの絵にいろいろ注文をつけたと言われています。晩年は高級住宅地に住み、妻好みの絵を描き続けました。

 

 

71歳のときに静養先で急逝。葬儀には数万人が集まったとされ、パリの人気作家として名声のうちに亡くなりました。約半世紀に及ぶユトリロの画業の中でも、特に「白の時代」に描かれた作品は、美術史的に高く評価されています。

 

 

そんなわけで、ミュージアムショップでは《可愛い聖体拝受者》をモチーフにしたクリアファイルを購入。最もユトリロらしい作品で、ポスターの絵にも採用されています。

 

 

毒親ヴァラドンを恨まず、そのエネルギーを絵に昇華させたユトリロ。晩年アルコール依存症を克服できたか分かりませんが、ユトリロにとって、愛してくれる人の存在が何よりも大事だったのかもしれません。