堺アルフォンス・ミュシャ館の後は、京橋の山王美術館へ移動。
「~渡仏から110年~藤田嗣治展」を見ました。藤田嗣治(1886~1968)は、エコール・ド・パリを代表する画家です。パリで活躍した日本人という事で以前から興味があり、この展覧会は楽しみにしていました。
以下、展覧会の内容です。本文は山王美術館のHPから引用しました。
第1章 1905~1913年|東京美術学校時代
『14歳の頃より画家を志し、中学校在学中よりパリ留学を夢見ていた藤田ですが、陸軍軍医であった父の上官・森鴎外の助言もあり、1905年に東京美術学校(現・東京芸大)に入学します。』
『黒田清輝をはじめとする教授陣に師事しますが、その成績は30人中16番目位と決して高いものではありませんでした。』こちらは在学中に描いた《自画像(1910)》です。
『卒業後は、白馬会や光風会などへ出品し入選するものの、文展には3年続けて落選。画家としての道のりは険しいものでした。そんな藤田に父・嗣章はパリ留学を勧めます。』《花(1913)》は、26歳の藤田が、パリ留学の費用を得るために描いた作品です。
『1913年6月、藤田は憧れのパリを目指して、横浜を出港しました。』
第2章 1913~1917年|憧れのパリ
『1913年8月、念願のパリに到着した藤田。1910年代前半のパリは、19世紀に始まる印象主義による絵画の近代化を経て、マティス、ヴラマンクらフォーヴィスムによる色彩の解放、ピカソ、ブラックらキュビスムによる形態の革新など、従来のアカデミスムの範疇にとどまらず、新たな絵画表現を目指した作品が生み出された時代でした。』
《口づけ(1914)》は留学して間もない頃の作品。ブランクーシの彫刻《接吻(1910)》に影響を受けたものと思われます。
『こうした機運のなか、世界各国から若き芸術家たちがパリへと集い、あらたな芸術活動を推進していたのです。』
『渡仏初期より、「世界的な画家」としての成功を求めていた藤田は、ルーヴル美術館で古代エジプト、ギリシア時代の作品の模写に励むなど、積極的に古代美術を研究しています。その一方、ピカソを始めとする前衛的な画家たちとの交流の中で、自らの表現を目指して模索を続けました。』
『1914年には「私の最初の自分の画」と呼んだ写生画を手がけ、1917年から18年にかけてパリ周縁部をモノトーンを思わせる色彩で描いた作品に集中的に取り組み始めました。』その頃の作品に《パリのカフェ(1916年頃)》が挙げられます。
第3章 1917~1921年|初個展の成功、サロン・ドートンヌ初入選
『1917年6月、パリ・シェロン画廊で開催された藤田初の個展では、美術評論家のアンドレ・サルモンが展覧会の序文を書き、110点の水彩画が展示されました。開催前にほぼすべての作品が売り切れるほどであったと言います。』
『さらに、1919年11月のサロン・ドートンヌでは、初出品した油彩画2点、水彩画4点の全てが入選。会員へと推挙され、パリ画壇での地位を確立していくこととなりました。』
サロン・ドートンヌの入選作ではありませんが、この頃描いた作品に《幼な子イエスの礼拝(1918頃)》があります。
第4章 1921~1931年|「乳白色」の時代
『パリ留学以来、日本人画家として独自の絵画技法を模索する藤田は、やがてカンヴァスそのものが肌の質感をもつ画布を目指して研究を重ねていきます。』
『さまざまな試行錯誤を経て、なめらかな白さを持つカンヴァスに、日本の筆と墨による細くしなやかな線描を生かした、裸婦像を完成させました。』裸婦像も色々ありますが、今回の展覧会では《横たわる裸婦(1927)》を見ました。
『この藤田独自の「乳白色の下地」を用いた、自画像、裸婦像、静物画の3点が1921年のサロン・ドートンヌに出品されると、たちまち大きな評判を得ることとなります。』こちらは《椅子に座る婦人像 マルト・バデール(1925頃)》。今回の展覧会のポスターに採用された作品です。
『独自の画風によりエコール・ド・パリの寵児となった藤田は、画家としての名声が高まるとともに、次第に注文画も増え、上流階級の女性たちの肖像画を多く手がけるようになりました。』
第5章 1931~1938年|中南米への旅立ち
『作品そのものの魅力はもちろんのこと、黒髪におかっぱ頭、丸メガネ、ちょび髭、ピアスと印象的な藤田の風貌がパリの人々の関心を呼ぶ存在となりました。』
『当時、裸婦像とともに数多く描かれたのが自画像です。独特の風貌を自画像として描き、自らを作品化することで、自身と作品がより広く世間に認知されていきました。』こちらは1931年に描いた《自画像》。首筋にすり寄る猫が気になります。
『乳白色の裸婦像と自画像により、パリ美術界において名声を博しますが、1929年10月にアメリカ・ウォール街大暴落をきっかけとした世界大恐慌に伴う不況が重なり、藤田は経済的な苦境に立たされます。』
『家庭生活でも破綻をきたした藤田は、1931年10月、パリを離れブラジルへと旅立ち、その後約2年にわたって南米各地を訪問。1933年に帰国し東京に定住した後も、日本各地またアジアへと旅を重ねました。』
長くなりました。第6章以降は次にします。