「~渡仏から110年~藤田嗣治展」の続きです。本文は山王美術館のHPから引用しました。
第6章 1938~1949年|戦時下のなかで
『1938年10月、海軍嘱託となり中国・漢口攻撃戦に従軍し最初の戦争画に取り組みます。翌1939年4月にフランスへと渡りますが、やがて第二次世界大戦が勃発。戦況の悪化により1940年5月に帰国を余儀なくされます。戦時下においては、陸軍・海軍の依頼により、戦線に取材した多くの作戦記録画を手がける事となりました。』
《サイパン島 同胞巨節 全うす》は、1945年に藤田嗣治が制作した、サイパンの戦いでバンザイクリフにおけるサイパン島民、傷痍軍人らの集団自決の光景を描いた戦争画です。今回の展示に無かったので、画像は拝借しました。
『一方、日本の美術界においては、1941年7月に帝国芸術院会員となり、10月には文化使節としてフランス領インドシナに派遣されるなど関係性が変化していきます。』
『しかしながら、終戦後は戦争協力への責任が問われ、その後戦犯の疑いが正式に晴れるものの、1949年3月にはニューヨークへと旅立ち、その後二度と日本の地を踏むことはありませんでした。』
第7章 1949~1959年|パリ永住
『戦後間もなくより再渡仏を試みた藤田ですが、ようやくフランスへ渡ることが叶ったのは、ほぼ1年間にわたるアメリカ滞在を経た1950年1月のことでした。1940年の日本帰国から10年ぶりのパリ帰還でした。』
『パリに戻り、モンパルナスのアトリエに居を構え、再びパリの街並みや風俗を描くようになり、やがて子どもを主題とした数多くの作品に取り組み始めます。1955年2月には妻の君代とともに、フランス国籍を取得し帰化しました。』
《室内(アトリエ)》1950年
《パンを持つ少女》1954年
藤田が描く子どもたちは、実在のモデルがいるものではなく、画家自身の創作によるものだったそうです。
第8章 1959~1968年|レオナール・フジタとして
『フランス国籍を取得した藤田は、1959年10月、シャンパーニュ地方のランス大聖堂にて、妻とともにカトリックの洗礼を受けます。洗礼名はレオナルド・ダ・ヴィンチにちなみ、「レオナール」と授けられました。以降、作品へのサインも洗礼名によるものとなります。』
『1961年11月にはパリ郊外のヴィリエ=ル=バクルの農家を改装し、アトリエ兼住居とし、キリスト教を主題とする作品を数多く描くようになりました。』
『1966年8月には、念願であった礼拝堂をランスの地に完成させ、「ノートル=ダム・ド・ラ・ぺ(平和の聖母 礼拝堂)」と命名。』
『しかしながら、制作中に身体の不調を感じており、12月にパリの病院で手術を受けますが、1968年1月にスイスのチューリッヒ州立病院にて死去します。享年81歳でした。』
初期の《花(1913)》が暗い色調なのに対し、晩年の《花(1963)》は明るい色調。このテーマだけでは判断できませんが、生きた時代からして右肩上がりの人生を歩んできたのではと思います。
絵を鑑賞した後は、休憩スペースでティータイム。
ドリンクバーが充実しています。
ビルに囲まれているので、窓からの景観はもうひとつ。
最後にミュージアムショップで《家馬車の前のジプシー娘(1956)》をモチーフにしたクリアファイルを購入。
次の展覧会は「横山大観と梅原龍三郎」展です。日本画家と洋画家をどう絡めてくるのでしょうか?
山王美術館を出て、7月20日(木)の美術館巡りはおしまい。
大阪ビジネスパークを散策する気力もなく、早々帰路につきました。
おわり