京都文化博物館の春季特別展「大名茶人 織田有楽斎」に関連して。
4月28日(金)有楽斎の菩提寺である正伝永源院を拝観しました。まず始めに概要から。以下の文章は「京都のいろは」というサイトからの引用です。
正伝永源院の概要
正伝永源院は、かつて正伝院と永源庵という別々の寺院でした。
正伝院は、文永年間(1264~75)に中国から来日した僧・義翁紹仁(1217~1281)を開山として創建。天文年間(1532~55)以降に荒廃していましたが、元和4年(1618)に織田信長の実弟・織田有楽斎(1547~1622)によって再興されました。有楽斎は茶室「如庵」を建立するなど、正伝院を隠居所として生涯を過ごしたといいます。
一方、永源庵は正平年間(1346~70)に建仁寺39世・無涯仁浩(1294~1359)が清水坂の辺りに創建した寺院であり、熊本細川家の始祖である細川頼有(1332~1391)の帰依を受けて繁栄しました。
後に明治維新が始まると建仁寺の寺領は大幅に削減され、無住の寺となっていた永源庵の境内に正伝院が移転。永源庵が細川家の菩提寺であることから「永源」の名を紡ぐため現在の「正伝永源院」と改称し現在に至ります。
国宝の指定も受けている有楽斎の茶室「如庵」は明治維新の際に売却されており、東京の三井本邸、神奈川の大磯別荘などを転々とし、現在は愛知県犬山市の有楽苑にあります。
正伝永源院拝観
入口から方丈へ向かう途中、正伝永源院に関わった人物のお墓がありました。
正伝院を再興した織田有楽斎(1547~1622)の墓
有楽斎夫人(雲仙院)の墓
有楽斎の孫、織田長好(1617~1651)の墓
有楽斎の孫、一條関白室(一条昭良正室)の墓
永源庵を支援した細川家歴代の墓
賤ヶ岳の七本槍の一人で永源庵に住んでいたと言われる福島正則(1561~1624)と家臣の墓
唐門をくぐりました。
靴を脱いで階段を昇ります。
まっすぐ歩いて突き当りに杉戸。
杉戸絵の題名と作者は不明です。
方丈の襖絵は《渓聲》。川のせせらぎの音が聞こえてきそうで涼しげ。第79代内閣総理大臣・細川護熙(1938~)の奉納作です。
縁側に座り、お庭を眺めました。
お庭の奥に、千利休の師匠・武野紹鷗(1502〜1555)の供養塔があります。
霧島ツツジは散り始めで、平戸ツツジは咲き始め。中途半端な時期に来てしまいました。
松と紅葉のコントラストが綺麗。
有楽苑に移築された国宝茶室「如庵」の写し。扁額は旧肥後熊本藩藩主 細川家第17代当主・細川護貞(1912~2005)の揮毫によるもの。「鱗板」「有楽窓」など有楽斎好みの特徴があります。
ちなみに、この「如庵」という名称は、有楽斎のクリスチャンネーム「Joan」または「Johan」から付けられたという説もあるそう。
奥に狩野山楽(1559〜1635)が描いた有楽斎の肖像画がありました。
茶室に蜂が来たので早々退散。
方丈に戻り、杉戸の奥に進みました。
「正眼瞎驢滅」の扁額が掛かった部屋。「物事をよく見て、一生修行のつもりで生きなさい。」若い修行僧に向けた言葉だそうです。
火打窓の上部には、中央に織田木瓜紋、その両脇に立沢瀉紋が施されています。
方丈手前の部屋に入りました。
襖絵は《知音》。細川護熙の奉納作です。点在する桜の木。親友や知人と花見へ行った時の風景でしょうか。
杉戸の前に、福島正則が寄進したと言われる朝鮮鐘がありました。
それにしても、ツツジの無いお庭は寂しいですね。
正伝永源院を出た後は、四条大橋を渡り、京都河原町駅に向かいました。