おいしいミュシャ展① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

7月20日(木)堺アルフォンス・ミュシャ館、初訪問。

 

 

入館料510円とリーズナブル。音声ガイドが簡潔で、アルフォンス・ミュシャ(1860~1939)について、次のように紹介しています。

 

 

『1860年に現在のチェコ共和国で生まれたアルフォンス・ミュシャ。19世紀末から20世紀初頭にかけて花開いたアール・ヌーヴォーを代表する芸術家として知られています。』

 

 

『1895年にミュシャが発表した演劇ポスター(舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成したジスモンダ)は、世紀末のパリでセンセーションを巻き起こし、一躍有名なデザイナーとなりました。』

 

 

『パリで膨大な仕事をこなしながらも、祖国愛を忘れなかったミュシャ。アメリカに渡ったのち、後半生は活動の拠点をチェコに移し、芸術を通して祖国愛と人類愛を表現しました。』

 

 

今回見たのは、「おいしいミュシャ展ー5感であじわうアール・ヌーヴォー」。(既に会期は終わっています。)

 

 

まず始めに、若き日のミュシャが憧れていた画家、ハンス・マカルト(1840~1884)の《五感(1879)》を見ました。「感覚」という抽象的な概念を5人の女性像を通して描いた作品で、それぞれ「触覚・聴覚・視覚・嗅覚・味覚」を表しています。

 

 

第1章は味覚。この章が展示の大部分を占めていて、テーブルコーディネートが撮影OKでした。

 

 

壁に掛かっている《ウミロフ・ミラー(1903~04)》は、チェコ出身の音楽家、ボザ・ウミロフのために制作したもの。ウミロフは大層気に入り、自宅の暖炉の上にこの大きな絵を飾っていたそうです。

 

 

こちらはミュシャの彫刻作品《ラ・ナチュール(1899~1900)》。元々パリに新しく開店した宝石店の調度品として制作されたようですが、1900年に開催されたパリ万博のオーストリア館に展示され、冠の頂きに電球がはめ込まれました。

 

 

第2章は嗅覚。主要作品は《クオ・ヴァディス(1904)》。暴君ネロが統治するローマを舞台とした歴史小説ですが、ミュシャが描いたのは少女の恋心。青白い大理石像を主人に見立て、冷たい唇に口づけようとする行為はいじらしくもあります。

 

 

こちらは連作『四つの花(1897)』より、《カーネーション・ユリ・バラ・アイリス》。ただ花に囲まれているだけの女性像ではなく、花の擬人像を描いています。

 

 

香りを味わうということで、作品にそれぞれフレグランスが添えられていたのですが…。バラの香りはまだマシで、アイリスの香りに至っては吐き気がしました。

 

 

第3章は触覚。《黄昏(1899)》は、肉感的な表現から、布のほんのり温かい"肌ざわり"が伝わってくる不思議な作品です。

 

 

《『メディア』のためのポスター(1898)》は、ミュシャによって制作されたリトグラフ作品。この作品はサラ・ベルナール主演でルネサンス座で上演された『メディア』の宣伝のために制作されました。

 

 

サラ扮する王女メディアの左腕に描いた蛇の飾りをサラが気に入り、実際に彼女が身につけるために作られたのが、《蛇のブレスレットと指輪(1899)》です。ミュシャがデザインし、宝飾家ジョルジュ・フーケが制作しました。

 

 

第4章は視覚。美を味わうということで、《黄道十二宮(1896)》や《四芸術(1898)》など、おなじみの名作を見ました。画像は《四芸術》。それぞれ詩・ダンス・絵画・音楽を表しています。

 

 

大阪府立今宮工科高校寄贈のリトグラフ印刷機と石板が撮影可能でした。印刷機は小森印刷機械製作所(現:小森コーポレーション)により、大正末期から昭和初期にかけて製造されたものです。

 

 

併せてリトグラフの説明。水と油が反発する化学反応を応用した版画技法で、版を彫る必要が無く、石に描いた絵をそのまま転写できることに加え、多色刷りの技術も発達したことから、19世紀末にはひとつのアートジャンルになりました。

 

 

第5章は聴覚。ミュシャは幼少期から絵を描く一方、教会の聖歌隊の一員として音楽にも親しみながら育ちました。パリ時代の仕事にも、音楽に関するものは少なくありません。サラ・ベルナールが主演する演劇にとっても、音楽は重要な構成要素でした。

 

 

例えば、ミュシャがポスターを手がけた『ロレンザッチオ』が初演された時のこと。当時の雑誌はPRを兼ねて、劇中曲のピアノ譜を付録として掲載したほどです。

 

 

また、ミュシャはヤナーチェクやウミロフ、チェルニー一家など、チェコ人の音楽家たちとも交友を深めていました。後半生、祖国チェコへの芸術的貢献を誓ったのも、スメタナの連作交響詩『わが祖国』を聴いた事が大きなきっかけだったようです。

 

 

パリでのデザイナーとしての地位を捨て、大作《スラヴ抒情詩(1910~28)》の構想を胸に抱き、新世界・アメリカへと渡ったミュシャ。

 

 

ここでは、アメリカ時代の代表作《ハーモニー(1908)》を中心に、楽器を手にした女性や音楽を象徴的に描いた作品を鑑賞しました。

 

 

五感を研ぎ澄ませ、目から入ってきた情報を想像で補う展覧会。特に絵から味や匂い、肌ざわりを感じ取ったのは初めてで、ミュシャの作品って奥が深いなと思いました。


 

 

つづく