大名茶人 織田有楽斎 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

今回は、京都文化博物館で見た特別展「大名茶人 織田有楽斎うらくさい」を振り返ります。

 

 

織田有楽斎(1547~1622)の名は知っていますが、予備知識が全くないので音声ガイドを借りました。声優の鳥海とりうみ浩輔こうすけ(1973~)さん。3ヶ月前の事であまり印象に残っていないのですが、可もなく不可もなかったのでしょう。以下の文章は、博物館のHPから引用しました。

 

 

  信長の弟にして大茶人

 

有楽斎は織田信秀の子で、信長の実弟として天文16年(1547)尾張に生まれ、通称源五郎、名を長益ながますといい、剃髪して有楽斎如庵と号しました。

 

 

本能寺の変で信長が倒れた後は、豊臣秀吉の配下となります。また、関ヶ原の戦いの後、その功により家康から禄を与えられ、豊臣秀頼の補佐役として大坂城にて、東西対立の和平に奔走しますが不調に終わり、夏の陣を前にして大坂を退き、京都・二条に隠棲します。

 

 

元和3年(1617)12月には正伝院の借用を打診、翌年秋には優美な林泉と典雅な茶亭「如庵じょあん」ならびに客殿、庫裏を完成したようです。そうして75年の生涯を閉じるまで、茶道三昧の生活をこの寺で送りました。如庵は現在は愛知県犬山市に移築されており、現存する国宝茶席3名席の1つとなっています。

 

 

  第1章 織田長益の活躍と逸話ー"逃げた男"と呼んだのは誰か

 

本能寺の変で、織田有楽斎こと長益は脱出し生き延びたことから、江戸時代の歴史書で長益を"逃げた男"と評価を下すものがあります。本章では、"逃げた男"というのは正しい評価なのか、武将・織田長益の実像を、歴史資料を通して見つめ直し、その真の姿に迫りました。歴史資料も著者の主観が入るので、それだけで白黒をはっきりさせるのは難しいですね。

 

 

主な展示物は、文化庁所蔵の国宝《短刀 無銘 貞宗》。相模の刀工「貞宗」が作った短刀で、名の由来は、豊臣秀吉の家臣で後に家康に仕えた唐津藩の初代藩主となる「寺沢広高」が所持したことによります。後に、寺沢広高から豊臣秀吉に献上され、織田有楽斎を経て徳川秀忠の所有になり、秀忠の形見分けとして紀州徳川家に贈られました。

 

 

  第2章 有楽斎の交友関係

 

本能寺の変後、長益は豊臣秀吉に仕えたのち徳川家康との関わりを深くしました。大坂夏の陣を前に京都・二条へ移って、建仁寺の塔頭・正伝院を再興、出家して有楽斎と号しました。その後も茶の湯に邁進し、名僧や武将らと茶会を開きます。本章では、有楽斎が遺した書状を通して、茶人や文化人として活躍した有楽斎の姿を追いました。

 

《織田有楽斎書状 石川玄蕃げんば宛》正伝永源院蔵

 

《千道安書状 織田有楽斎宛》正伝永源院蔵

 

 

  第3章 数寄者としての有楽斎

 

有楽斎は茶の湯を介して大名や町衆との交わりを深め、当時の茶の湯に重要な役割を果たすようになっていました。正伝院に茶室「如庵」を造営し、茶の湯三昧の日々を送り、多くの茶道具を有したと伝わります。本章では、現代に伝わるかつて有楽斎が所持した、あるいは好んだとされる茶道具の名品を見ました。

 

《大井戸茶碗 有楽井戸》東京国立博物館蔵

 

《青磁輪花茶碗 銘 かすがい》マスプロ美術館蔵

 

《肩衝茶入 銘 残月》文化庁蔵

 

織田有楽斎作《茶杓 銘 落葉》正伝永源院蔵

 

 

  第4章 正伝永源院の寺宝

 

有楽斎の菩提寺である正伝しょうでん院と、大名の細川家の菩提寺である永源えいげん院の2つの由緒を持つ正伝永源院には、貴重な絵画、墨蹟類、そして寺内にのこる狩野山楽の襖絵など、桃山時代にさかのぼる寺宝が現在も脈々と継承されています。本章では、正伝永源院の寺宝から、有楽斎没後の歴史を辿りました。

 

徽宗きそう筆《架鷹図かようず(8幅のうち)》正伝永源院蔵

 

長谷川等伯《旧正伝院書院障壁画のうち山水図(部分)》名古屋鉄道株式会社蔵

 

扁額「如庵」正伝永源院蔵

 

富岡鉄斎《如庵図》正伝永源院蔵

 

織田頼長筆《波に卯図》正伝永源院蔵

 

 

  第5章 有楽斎と正伝永源院ーいま、そしてこれからー

 

戦国の世に生を受け、織田家の血筋として時の政治に利用されながらも、武将として、文化人として生き抜き、新たな文化創造をなした有楽斎。現在に伝わるその茶風は武家らしくない柔らかな点前といい、有楽斎の格式張らずにそのままの姿で客をもてなす心を、今に体現していると言われています。

 

 

本章では、有楽流茶道や、有楽が茶道の師として敬愛した武野紹鴎の供養塔設置時の動画など、正伝永源院の今の姿を見ました。

 

《武野紹鷗供養塔》正伝永源院

 

伝 仁阿弥道八《黒楽「正傳院」字茶碗》正伝永源院蔵

 

 

武士の世界では"逃げた男"と評されてしまった有楽斎ですが、書状から誠実な人柄が伝わってきました。享年75歳と当時にしては大往生。穏やかで無理をしない性格だったのでしょう。

 

 

特設ショップで、和三盆メレンゲとつじりの里を買いました。和三盆とメレンゲ、抹茶と小麦粉、どちらも相性が悪いようです。今回の買い物は失敗でした。