勝竜寺城公園 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 乙訓寺から歩いて40分。ようやく勝竜寺(しょうりゅうじ)城公園に着きました。

 

 ここのキリシマツツジも見頃でした。光の加減かもしれませんが、若干ピンクがかって見えます。

 

 勝龍寺城は、1339(暦応2)年に細川頼春が築城したと伝えられています。応仁の乱(1467-1477)では、西軍畠山義就(よしなり)の陣城となり、その後も要塞の役割を果たしました。

 

 戦国時代末期になると、勝龍寺城を中心に城下町が形成されます。1571(元亀2)年、織田信長の命により、細川藤孝(ふじたか)は勝龍寺城を修復し、長岡姓を名乗ってこの地の支配に乗り出しました。

 

 両家の結びつきを強くしようとする信長の指示により、1578(天正6)年、細川藤孝の嫡子、忠興(ただおき)と明智光秀の娘・玉(たま)の婚礼が行われました。2人は勝龍寺城で新婚時代を過ごし、1580(天正8)年に丹後の宮津に移りました。

 

 1582(天正10)年、光秀が本能寺で信長を討ちます。直後の山崎の合戦で、光秀は勝龍寺城の付近に陣を構えますが、羽柴(豊臣)秀吉に敗れて没しました。

 

 1988(昭和63)年、本丸と沼田丸の一部を発掘。細川藤孝が支配した頃の勝龍寺城を再現し、1992(平成4)年に勝竜寺城公園がオープンしました。

 

 光秀の娘・玉も飲んだと思われる、ガラシャおもかげの水。生前クリスチャンになったため、改名しています。ガラシャは、明智家没後の1600(慶長5)年、大坂で自害。享年38という短い人生でした。

 

 ガラシャの水の水源は、本丸で発掘された井戸跡。発掘調査中にも、水が湧いていたそうです。

 

 多門櫓への階段

 

 土塁と塀

 

 北門跡

 

 沼田丸への通路

 

 沼田丸跡

 

 沼田丸跡の近くに、勝竜寺の住職が住んでいると思われる民家はありましたが、お寺が見当たりませんでした。お寺の名前は勝龍寺。公園の名前は勝竜寺城公園。マップ検索で漢字を間違えたため、違う所が出たようです。