相国寺林光院 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 塔頭(たっちゅう)とは、禅宗において、祖師や大寺の高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って建てた小院のことです。それが日本では、高僧が隠退後に住む、寺院の敷地内にある小院を指すようになりました。

 

 相国寺の境内には12の塔頭があります。そのうちの1つ、林光院(りんこういん)に入りました。普段は非公開寺院ですが、特別に公開されていました。藤井湧泉(ゆうせん)氏が4年がかりで描いた襖絵の完成を記念し、公開に至ったそうです。

 

 これが完成した襖絵です。猫ではありません。虎です。眠っているように見えますが、よく見ると左目が開いています。向かいにある龍の姿に気付き、片目をうっすら開けている様子を描いたそうです。

 

 

 初公開という珍しさから客足も多く、20人ほどが一室に集められ、現地ガイドの話を聞きました。林光院は西郷隆盛と関係があるだけでなく、田辺三菱製薬新興の地であると知りました。細かい話は下記のとおりです。

 

 林光院は、3代将軍足利義満の第2子で、4代将軍義持の弟、足利義嗣(林光院殿亜相考山大居士)が、1418年(応永25年)に25歳で他界し、その菩提を弔うため、夢窓国師を勧請開山として京都二条西ノ京にある紀貫之の屋敷の旧地に開創されました。

 

 応仁の乱の後、林光院は等持寺付近に移り、毎年住職を順番に務める輪番住職制になります。1570年代、雲叔周悦和尚の時、豊臣秀吉の命により明・韓通行使となって功を奏しました。秀吉はこれに報いるため、林光院を独住地とし、相国寺山内に移設。雲叔和尚は「中興の祖」とされています。

 

 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い。島津義弘が両陣営の中央を突破し、伊賀に隠れました。かつてより島津義弘と親交の厚かった大阪の豪商、田辺屋今井道與が潜伏先に急行し、堺港より乗船させ、海路護送して薩摩に帰国させます。この功により、田辺屋今井道與は薩摩藩秘伝の調薬方の伝授を許されました。これが田辺三菱製薬の始まりです。

 

 道與が高齢のため、薩摩まで義弘に会いに行けなくなると、義弘は自ら僧形の像を造り、道與に贈ります。道與は住吉神社内に松齢院を建築し、その像を祀りました。

 義弘の没後、道與の嫡孫である乾崖梵竺が林光院5世住職となり、義弘の像と位牌が林光院に移され、島津家により遷座供養が修行されました。以降、薩摩藩と関係ができ、薩摩藩士の墓を管理しています。

 

 林光院の見どころは、庭に咲く鶯宿梅(おうしゅくばい)。平安時代後期に書かれた歴史物語「大鏡」に以下のような記述があります。

 村上天皇の天暦年間(947-956)、御所清涼殿前の梅の木が枯れ、代わる木を求めたところ、紀貫之の娘の屋敷の梅が選ばれ、勅命により御所に移植されました。

 ところが、その梅の枝に「勅なれば いともかしこし鶯の 宿はととはば いかがこたえん」と書かれた短冊を見て、村上天皇はその詩情を憐れみ、この梅を元に返したといいます。その後の記述で、この梅は「鶯宿梅」と称されるようになりました。

 

 残念ながら鶯宿梅の開花はまだでした。近いうちにどこかで梅の花を見ようと思います。