相国寺境内 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 久しぶりに京都ネタ。2月20日(火)何度か行きそびれた相国寺(しょうこくじ)と晴明神社を観光しました。相国寺は臨済宗相国寺派の大本山で、金閣寺と銀閣寺と真如寺を山外塔頭とする、京都五山第2位に格付けされる権威ある寺院です。

 

 三門の隣に勅使門。これは身分の高い人を通す門です。なので今ではほとんど開きません。

 

 実はここ、2回目です。去年の夏、京都御所や迎賓館の後に寄ったのですが、境内を歩いている時、突然激しい雨が降ってきて中断しました。写真は雨が降る直前の放生池。蓮が見頃で正に極楽浄土の世界でした。

 

 冬の庭はがっかりですね。でもこれはただの枯庭じゃありません。三門の礎石が残っています。1788年(天明8年)の大火で焼失する前、ここに三門がありました。門の外は下界。境内は霊界。やはり境内に修行僧が住んでいた時代は、放生池で心を清めてから三門をくぐったようです。

 

 相国寺の「相国(しょうこく)」は、中国からきた名称で、「国を助ける、治める」という意味があります。日本でも左大臣の位を「相国」と呼んでいました。創建者は3代将軍足利義満。義光は左大臣の位に就いていました。つまり、「相国寺」は「義満のお寺」という意味になります。

 相国寺は、義満は後小松天皇の勅命を受け、約10年の歳月を費やして1392年(明徳3年)に完成した禅寺です。夢窓疎石(むそうそせき)を勧請し、開山しました。写真は開山堂の庭です。

 

 中国明朝に「大相国寺」という五山制度の始まりのお寺があり、この大相国寺の寺号をもらって「相国寺」と名付けられたという説もあります。大相国寺との交流は長く、2010年(平成22年)には般若心経が刻まれた鐘が寄進されました。

 

 応仁の乱をはじめ、度重なる火災で境内の建物は焼失しました。しばらく衰退していましたが、豊臣秀頼が1605年(慶長10年)に現在の法堂(はっとう)を建立し、徳川家康も三門を寄進。時の天下人の保護により、他の堂塔も再建されました。

 

 ところが、1788年(天明8年)、天明の大火で法堂と浴室、塔頭9院以外の建物が焼失しました。写真の浴室は大火を逃れた貴重な建物で、毎年春に内部公開が行われるそうです。

 

 浴室の風呂は蒸し風呂で、修行僧は服を着て入浴していました。「浴衣」の語源はここから来ています。お風呂上り自然の風で体を乾かしている間、経典を読んでいました。その経典は、経蔵(きょうどう)と呼ばれる蔵に保管されています。

 

 1807年(文化4年)、桃園天皇の皇后、恭礼(きょうれい)門院旧殿の下賜を受けて開山堂が建立され、方丈や庫裏(くり)も完備され、開山当時の景観を取り戻しました。

 写真の庫裏は修行僧の台所として使われていましたが、今は社務所になっています。

 

 こちらは1843年(天保14年)に再建された鐘楼。中に1629年(寛永6年)に造られた鐘が吊るされていて、その鐘は京都市の有形文化財に指定されています。

 

 観光寺院になるまで、僧侶は境内で集団生活をし、日々修行に励みました。