千年の甍(瓦の歴史) | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 竹中大工道具館で特別展「千年の甍(いらか)-古代瓦を葺く-」を見ました。神戸会場は終了しましたが、名古屋会場は3月11日(日)まで開催中です。

 

 

~ 軒瓦 ~

 

 日本に瓦が伝わったのは588年、百済から4人の瓦博士が渡来し、国内で製作された瓦は飛鳥寺で初めて使われたと言われています。飛鳥寺は平城京遷都の際に元興寺として奈良に移されましたが、今でも元興寺の極楽堂と禅室の屋根の一部には、1400年前の瓦がそのまま使われています。

 

 写真の軒瓦は、法隆寺若草伽藍創建時(607年頃)の瓦です。紋様を施すようになった初期のもので、百済(くだら)の紋様と酷似していました。

 

 奈良時代は藤原宮、平城宮などの宮殿をはじめ、国分寺、大宰府など地方の寺院、宮庁が盛んに造営されました。しかし本瓦葺の雨漏りや瓦のはがれが問題になりました。そして平安時代。山岳寺院が隆盛し、檜皮葺(ひわだぶき)や杮葺(こけらぶき)が好まれ、瓦の需要が減りました。

 

 鎌倉時代、再び瓦の需要が増えて瓦が改良されます。そして室町時代にいぶしの工程が加わり、瓦の耐久性が向上しました。

 

 

 江戸時代になると、丸瓦と平瓦を組み合わせて一枚にした桟瓦(ざんがわら)が考案されました。本瓦に比べ軽く、「城下町の防火対策になる」という幕府の奨励もあって、18世紀以降一般民家にも瓦が普及しました。

 

 

~ 鬼瓦 ~

 

 鬼瓦は大棟や下り棟の先端に、雨水が入らないように据え付けた飾りの瓦です。

 

 初期のものは蓮華文と呼ばれる蓮の花の紋様で、鬼の面相が登場するのは奈良時代以降です。地獄にいる鬼ではなく、聖なる神獣をモチーフにし、その建物を災厄から守る願いが込められていました。

 

 一般的に連想する2本の角を生やし、大きな口を開けた立体的な鬼瓦は、室町時代以降のものです。江戸時代に入ると民家にも瓦が普及し、鬼面ではなく、商売繁盛を願った恵比寿を始め、鳳凰・龍・鶴亀・桃や蓮といった縁起物が家を守るシンボルとして屋根を飾るようになりました。

 

 

~ 鴟尾(しび) ~

 

 鴟尾とは大棟の両端に据え付けられた装飾瓦で、雨水が屋根に入るのを防ぎます。訓読みでは「とびのお」と読みます。中国唐の時代には魚の形、鯱(海に住み、よく雨を降らすインドの空想の魚)の形等へと変化していき、火除けのまじないにしていました。

 

 瓦の伝来に伴い、飛鳥時代に大陸から日本へ伝えられたと考えられています。貴族たちが履いた沓(くつ)を立てた形に似ていたことから「沓形(くつがた)」と呼ばれた時代もありました。

 写真の鴟尾は、唐招提寺金堂の平成大修理(1998-2009)の際、奈良時代の形を手本にして製作された物です。

 

 こちらの鴟尾は、興福寺中金堂再建(2010-2018完成予定)の際作られた試作品です。