清涼寺 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

直指庵から15分ほど歩き、清凉寺に着きました。立派な仁王門です。

 

 法然上人像が建っています。ここは浄土宗の寺です。

 

 清涼寺の前身は、棲霞観(せいかかん)跡で、嵯峨天皇の第12皇子、源融(みなもとのとおる。822-895)が嵯峨に営んだ山荘が始まりだとされています。

 源融は光源氏のモデルになった人物で、阿弥陀堂は「光源氏別荘跡」と呼ばれています。

 

境内に源融の墓があります。

 

 源融の死後、中国に渡った奈良東大寺の僧、奝然(ちょうねん)上人が、釈迦如来像を模刻して日本に持ち帰り、棲霞観跡に安置しました。この釈迦如来像は、体内に内臓を形どった納入物が入っていたため、生身如来と言われています。

 

 奝然上人は、愛宕山を中国の五台山に模し、大清凉寺を建立しようとしましたが、志半ばで亡くなり、弟子がその遺志を引き継ぎました。

 

 お釈迦さまが説いた一切の経典が納められている経蔵。法輪を一回転することで、一切経を読んだのと同じ功徳があるそうですが、どうでしょう?

 

 本堂はたび重なる焼失の後、1701年に再建。堂内の宮殿は、5代将軍徳川綱吉と生母桂昌院(けいしょういん)により寄進されました。本尊の釈迦如来像は国宝で、お釈迦さまの生き姿を刻んでいます。このため、清涼寺は棲霞観跡の頃から「嵯峨釈迦堂」とも呼ばれています。

堂内と中庭を見ました。

 

本堂の一室に写経道場があります。

 

池のほとりの弁天堂。水の神、弁天さんが祀られています。

 

中庭の盛り上がった部分は、川中島と呼ばれています。

 

 本堂の隣には、豊臣秀頼の首塚があります。豊臣秀頼は、清凉寺の再興に努めた人物で、1615年の大坂夏の陣で自刃したそうです。

 

 清涼寺を出ました。次に続きます。