直指庵 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

大覚寺から北へ15分ほど歩き、直指(じきし)庵に着きました。

 臨済禅を学んだ独照性円(どくしょうしょうえん)が、南禅寺栖雲庵から1646年に北嵯峨に草庵を結んだのが始まりです。枯れた松の枝が地に落ちるのを見て悟り、直指人心の旨を守って庵を「直指庵」と号しました。

 

竹やぶの道を通りました。

 

知る人ぞ知る青もみじの名所です。

 

 津崎村岡局(つざきむらおかのつぼね)は、1786年に大覚寺宮の家来、津崎左京の娘として生まれました。13歳から近衛家に仕え、「近衛家の清少納言」と呼ばれるほど利発な子供だったそうです。

 村岡局は、尊王攘夷派の志士の申し出を、主人である左大臣近衛忠熙に取り次ぎ、便宜を図ったとの罪で江戸に投獄されました。安政の大獄です。

 禁固30日に処された後、嵯峨に帰り、直指庵を再興。浄土宗の寺とし、土地の子女の訓育に尽くしました。

 

 本堂の阿弥陀如来を拝み、参拝者がさまざまな感情を綴る「想い出草ノート」をぱらぱらとめくりました。文章の数だけ人生を垣間見ました。5000冊ほど保存されているそうです。

 

 階段を上り続け、開山堂を目指しました。途中、蜘蛛の巣が張られていたので、中腰で階段を上りました。

 直指庵を開いた独照性円の墓と、「出でて吾が塔を護る」と序した亀石があります。

 

与謝野晶子もここを訪れたそうで、開山堂の隣に歌碑がありました。

 

 津崎村岡局(1786-1873)は、死後、明治天皇から従四位の称号を贈られました。生前に位の無い女性に対する贈位では最高の地位で、生前の行いが立派だった事を示しています。

 

 水子地蔵尊。水子を救うだけでなく、生まれた子供の健康と成長を守ってくれるそうです。

 また、夫婦でお参りすると、子供を授かることから、「子授け地蔵」と呼ばれています。若いカップルが拝んでいました。

 

 竹林を背に、想い出草観音像が建っていました。想い出ノートに綴った苦しみや悲しみを救い、その後の成長も守ってくださるそうです。優しく穏やかな表情で、顔を見るだけで救われそうです。

 想い出草ノートに何かを綴る人は相当思い詰めているのでしょう。何も綴る事が無かっただけでも幸せかもしれません。

 

阿弥陀堂を通りすぎ、直指庵を出ました。