大覚寺 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

嵯峨嵐山駅から北西へ15分ほど歩き、大覚寺に着きました。

 

正式名は旧嵯峨御所大本山大覚寺。
 平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后と結婚し、新居として離宮嵯峨院を建立したため、「嵯峨御所」と呼ばれています。

 明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた門跡寺院です。

 

嵯峨天皇は空海を寵愛し、高野山で真言宗の開宗を認めました。

 嵯峨院が大覚寺になったのは、876年。皇孫の恒寂入道親王を開山として開創し、空海を宗祖と仰ぎ、真言宗大覚寺派の本山になりました。

 また、空海のすすめにより、嵯峨天皇が浄書した般若心経を奉安したため、般若心経写経の道場として知られています。

 

大玄関を通り、中を拝観しました。

 

 宸殿は重要な法要を行う所です。後水尾(ごすいび)天皇の中宮である東福門院和子(とうふくもんいんまさこ。2代将軍徳川秀忠の娘)のために建てられたそうです。

 

 宸殿の襖絵は、牡丹・紅白梅・松・鶴など、全て狩野山楽によって描かれた絵で、部屋の質も身分によって様々でした。一番立派な部屋は、牡丹の間です。

 

 諸堂を結ぶ廊下は、縦の柱を雨、直角に折れ曲がっている回廊を稲光にたとえ、「村雨の廊下」と呼ばれています。天井は刀や槍を振り上げられないように低く造られ、床は鴬張りで、歩くとキュッ、キュッ、と音がしました。これでは敵も部屋に侵入することが出来ません。

 

内庭がとても青々としていました。

 光の加減でしょうか。葉っぱが黄緑に見えたり、暗い緑に見えたりします。

  

 

 御影(みえ)堂には、嵯峨天皇、空海、後宇多天皇、恒寂入道親王など、大覚寺の歴史に大きな役割を果たした方々の像が安置されていました。

 

御影堂の階段から、広々とした砂の庭と勅使門を眺めました。

 

御霊(ごりょう)殿には、後水尾天皇の等身大の像が奉安されています。

 

御霊殿の天井には、牡丹など花の他、密教法具が描かれていました。

 

五大堂は大覚寺の本堂です。窓を覗くと、不動明王など五つの大明王が見えました。

 

 建物の東に大沢池(おおさわのいけ)という大きな池があります。嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたって、唐の洞庭湖をまねて造ったそうで、「庭湖」とも呼ばれています。

 

 御影堂の奥は、勅封心経(ちょくふうしんぎょう)殿で、嵯峨天皇をはじめ、歴代の天皇の60年に一度しか開封されない勅封心経と、薬師如来像が納められているそうです。

 

 霊明殿には、阿弥陀如来像と真言宗大覚寺派初代管長で、華道総裁である、草繁全宜(くさなぎぜんぎ)の像が安置されていました。

 大覚寺はいけばな発祥の花の寺であり、「いけばな嵯峨御流」の家元でもあります。

 

正寝(しょうしん)殿は、12の部屋をもつ書院造りで、南北に3列の部屋が配置されています。

 

 上段の間は、後宇多法皇が院政を行った部屋で、執務の際、御冠を傍らに置いたことから、「御冠の間」と呼ばれています。この部屋は、南北朝争乱を治めるための講和会議を開いた所だと伝えられています。

 

 安土桃山時代の権力者は、権力を誇示するために狩野派の絵師を雇い、障壁画を描かせました。障壁画は、伝統的な大和絵と、中国の宋元(そうげん)から伝わった唐絵(からえ)との和漢2つの折衷が一般的で、絵の手法は、金碧(こんぺき)濃彩画と水墨淡彩画の2つに大別できます。

 

館内を一周しました。見どころがたくさんあり、1時間半かかりました。

 

入口付近に、嵯峨御流の生け花が飾られていました。

 花の組み合わせと活け方、花器のデザイン、隅々まで行き届いていて、隙が無いですね。

  

 

大覚寺を出て、隣の大沢池に行きました。