仕事を終えてアパートへと帰ってくると
階段の下にボロボロの手袋が落ちていた。

誰かに踏まれたであろうその手袋は
泥まみれで、もう使い物にはならないだろう。
たとえ使えたとしても
俺なら捨てる。

そんなボロボロの手袋を横目に
俺は階段を上がり、部屋の鍵を開けると
隣の部屋から一人の男が顔を出した。

「あ...あの、手袋見ませんでした?」
男はやけにあわてていた。

「手袋?あ...それなら階段の下にありましたけど」

「本当ですか!?」

男はそう言って笑うと、急いで階段を降りていった。

しかし、あんなボロボロになった手袋なんかいくらなんでも、もう使わないだろ。

俺はそう思いながらも
なんとなく男のことが気になって
男が階段を上ってくるのを待った。


男は手にボロボロになった手袋を持っていた。
「ありました。」
男はそう言って笑った。

「でも、ボロボロになっちゃいましたね。もう使えないんじゃないですか?」

男はにこやかに首をふった。

「いいえ。いいんです。もともとボロボロだったし、洗えばまた使えます。」

「でも、新しいの買ったほうが...」

我ながらお節介だったと思う。
だが、男は怒りもせずただ微笑んで

「俺もそう思うんですけどね。就職祝いに母親から貰ったもので、なんとなく捨てられないんですよ。」

男はボロボロの手袋を大事そうに手に持ち、部屋へと帰って行った。

部屋に入ると、壁の薄いアパートの隣部屋から、布のこすれるような音と水の音が交互に何度も聞こえた。


手袋。きれいになったのかな?


僕は今、人生最大のピンチを迎えている。



大人はみんな僕の悩みを笑う。

「そんなの今だけさ」
とか
「大人になったらもっと大変だぞ~」
とか。
もっとひどい時は
「お前は悩みなんてなくていいよなぁ」
なんて言うんだ。

僕にだって悩みはある。
例えば…
「今日のテストの点数が悪かったら、どうしよう」
とか
「同じクラスのミキちゃんと隣の席になれなかった」
とか。
僕だって悩んだり、考えたりしているんだ。


現にいま、僕はすごく困って悩んでいる。


僕は今トイレに行きたいんだ。
だけど、今は算数の授業中。
手をあげて、先生にトイレに行きたい。と言いたいのだけど
そんなことしたら、クラスのみんなにからかわれるに決まってる。
それに戻ってくるのが遅かったら僕にはきっと、とんでもないあだ名がつけられる。



考えた結果、僕は具合が悪いということにした。
クラスのみんなは心配そうに僕を見てた。
僕は保健室より先にトイレにかけこんだ。
僕はピンチを乗り越えたんだ!
誰も僕がトイレに行っただなんて知らない。変なあだ名をつけられる心配もない。


具合は全然悪くないけど、僕は一応保健室に行った。
「なんか、少しだけ気持ち悪い」
なんてウソまでついた。

一時間だけベッドで休んで、僕は教室に戻った。
みんな心配そうに駆け寄ってくる。
僕はなんだか嬉しくなって、みんなに何度も「大丈夫。大丈夫。」と笑って言った。


僕は最初から具合なんて悪くなかったし、本当はすごく元気なのに
午後の体育は見学になってしまったのは今日一番の失敗だ。






大人になったら僕も今日の日のことを笑うのかな?
くだらないことだと言うのかな?

そんなこといくら考えてもわからないけど、今日の僕にとってはこのトイレ事件は一大事だった。てことはたしかさ。

僕は 貴方に出逢い

生まれてはじめて愛を知った。

僕は貴方に触れて
生まれてはじめて温もりを知った。

僕は貴方が笑い
生まれてはじめて幸せを知った。

僕は貴方が死んで
生まれてはじめて悲しみを知った。


母が死んだ。
それは突然だった。
買い物から帰る途中で事故にあい、そのまま…
親孝行らしいことを一つもすることなく
僕は母の遺影に手を合わせた。


ろくでもない息子だったと思う。

勉強ができたわけでも、スポーツが得意なわけでもなかった。
それでも一丁前に反抗期を迎え
母にはきつくあたったこともある。


母は僕のことをどう思っていたのだろうか。

今になって聞きたいことが山ほどある。
言いたいことが山ほどある。

「親孝行したいときには親はなし…」
ポツリと呟いて僕は泣いた。


泣いてもよかったのだろうか?
こんなろくでなしな息子が、母を想い泣くことが許されるのだろうか。

もっと母に何かしてやれたはずなのだ。
わかっていたのに、しなかったのは僕だ。


「パパー!」
幼い娘が僕を呼ぶ。
自然と僕は笑顔になる。

できることなら母に娘を見せたかったなぁ。と思う。


娘の小さな手を僕は包む。
娘は嬉しそうに笑う。
それがなによりも嬉しくて、幸せで僕はたまらず抱きしめる。


見ているだろうか。今の僕を。
貴方からもらった愛情を娘にそそぐ姿が見えているだろうか。

母の想いを紡いでいくように、僕は娘の手をとった。


僕は産まれて はじめて 母に出逢う