3️⃣👥🫵🍁【2025年4月13日 (日)芦屋仏教会館・日曜仏教講座】10時より
🙏講題:七高僧の教え―曇鸞大師(5)
🙏講師:大阪大谷大学名誉教授
梯 信暁 先生
💫【講義の走り書きメモ3️⃣⃣】💫
🔷曇鸞大師の譬え話の二つ目は、
🟨また、この不思議の宝珠を芥子(からし)色の布に包んで水に浸けると、
🟨水がすぐに芥子色に染まってしまうようなものである。
🟨彼の極楽の清らかな国土には、阿弥陀如来という最高の宝珠がまします。
🟨その宝珠を、修行の成果としての清らかな世界という布で包み、
🔷お浄土のことを布に喩えています。
🟨これを往生人の心という水に浸けると、往生を実体的な生として捉えていた誤りに気づき、 生死を超える智慧を生ずることができるに違いない。
🔷南無阿弥陀仏を頂くことは如来様のお智慧を頂戴することなんだ、と教えて下さっている。
🔶具体的には、芥子(からし)色の布に包んで水に浸けると水がすぐに芥子色に染まってしまうようなものである。
🔷辛子色とは、黄色のくすんだような色です。
🟨インドのお坊さんがつけている御袈裟は辛子色の衣です。
🔶日本でも真言宗のお坊さんも辛子色の御袈裟をつけている。
🔷真宗の僧侶も黄袈裟をつけています。
🟨あれが一番粗末な布なのです。あれがガンジス河で拾ってくる布で、その布を拾って御袈裟にする。
🔶捨てるものを拾って着物にするのが出家者。
🔷この間、色衣がボロボロになって京都にいって、新しいものを一つあつらえようと値段を聞いてビックリしました。
🔶どうも日本のお坊さんがつけていらっしゃるご袈裟は高すぎると思います。
🔷本来のご袈裟の意味をなさなくなっている気がします。🟨そんなことをいうと営業妨害になるので、ここだけの話にしておきますが。
🔶御袈裟の色が辛子色なのです。辛子色の布に水が染まっていく。
🟨南無阿弥陀仏の息のかかった布でございます。
🔷南無阿弥陀仏のお浄土で、如来様の願いの色に私自身が変えられていく。
🔶浄土に往生すると真実の清らかな身に変えて頂ける。
🔷三つ目の喩えは、氷上燃火の喩えです。
🟨氷の上で火を焚く。中々、面白い譬え話で、大智度論にあります。
🔶ところが曇鸞大師は全然、違う譬えとして、お使いになっています。
🔷源信僧都も、往生要集に使っておられます。
🔶論註の喩えは、
🟨また、氷の上でたき火をすると、火の勢いが強いと、氷が解け、氷が解けると火が消えるようなものである。
🔷やってみると面白いと思いますが、
🟨極悪人は生死を超えた真実の生を理解できないけれども、ただ仏の名を称えたおかげで往生を願う心を起こすことができるようになり、
🟨極楽に生まれたいと願うならば、極楽は生死を超えたさとりの世界であるから、
🟨その世界の力によって、煩悩の火は自然に消えるのである。
🔷極楽からの働きかけがあると言われる。
🔶水は覚りの喩えなのです。
🟨大智度論に譬え話がありまして、曇鸞大師は大智度論の研究者ですから、隅から隅まで分かっていらっしゃいます。
🔷大智度論は百巻で膨大でありまして、とても覚えられるものではありません。
🔶氷の煩悩と水の覚りを出して来られたのは、煩悩と覚りの譬えとして、出して来られた。
🔷氷に火をつけて、氷の勢いで火を消す。氷と水は元来、別のものである。
🔶気を抜いたら、氷はもっと大きな氷になってしまう。
🔷少しずつ氷は溶けていくという、譬え話であります。
🔶曇鸞大師の話を深く理解された道綽禅師は、ハッキリと言われている。
🔷煩悩の火は、浄土に往生すると消える。穢土では煩悩は消えない。
🔶娑婆にいるうちに氷が水に変わるところを、少し味わわせて頂ける、という譬え話です。
🔷私達は、南無阿弥陀仏を称えて実感させて頂かなければならない。
🟨少しずつでも如来様の御心に従って、影響を受けている。
🔶今まで、恥ずかしいとも思っていなかった自分が恥ずかしいと思うような経験をすることがあります。
🔷アジャセ太子は、罪の意識がなかった時は強い意志を持って、国を指導していた。
🔶ある時、自分が大変なことをしてしまったと気がついた。
🔷これは慚愧が起こったと涅槃経に書かれています。
🟨慚愧とは恥ずかしいという心です。
🔶慚愧によって、心の病から身体を病むようになっていく。
🔷心が病むと身体に変調を来たすようになります。
🟨その慚愧の心を起こしたために心身に病を得た、その姿を見たギバは評価をします。
🔶今、王様は罪にお気づきになって、そして病になられた。
🟨病で苦しむ姿を褒められたのです。
🔷そんな教えを誰から聞いたのか、と聞くと、ギバはお釈迦様です、とお答えになります。
🔶罪に気づかないうちは何ともない。
🟨でも罪に気づいたら、心身に変調をきたす。
🔷それが、おみのりに触れるキッカケになる。
🟨とても恥ずかしいことだと気づかせて頂くことになる。
🔶曇鸞大師がこの譬え話でおっしゃりたかったことは、南無阿弥陀仏を聴かせて頂くことによって、
🔷私の心は少しずつ仏様のおこころに従っていけるようになっていくんですよ。
🔶南無阿弥陀仏が、あなたを変えて下さるんですよ。
🔷親鸞聖人はこの譬え話を教行信証には引用なさっていないのですけど、親鸞聖人は論註から得られたものが沢山あります。
🔶親鸞聖人は氷上燃火の譬え話を受けて、おっしゃったことが御手紙の中にあるので紹介します。
🔷御消息集にありますので紹介します。
🟥 「先ず各々の、昔は弥陀の誓いをも知らず、阿弥陀仏をも申さず、おわしまし候いしが、
🟥釈迦・弥陀の御方便に催されて、今、弥陀の誓いをも聞き始めて、おわします身にて候なり。
🟥元は無明の酒に酔いて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ、好み召しあうて候つるに
🟥仏の誓いを聞き始めしより、無明の酔いも、やうやう少しずつ覚め、三毒をも少しずつ好まずして、
🟥阿弥陀仏の薬を常に好み召す身となりて、おわしましあうて候ぞかし。
というお言葉です。
🔷昔は阿弥陀仏のことも、ご本願のことも、南無阿弥陀仏のことも知りませんでした。
🔶でも、お釈迦様や阿弥陀様の、あの手この手のお手立てによって、今、始めて阿弥陀様の願いを聴かせて頂く身に育てて頂きました。
🔷それで私の心が少し変わってきたことに気づきます。
🔶昔は無明、煩悩の酒に酔って三毒の煩悩を好み召して、煩悩が大好きだった。
🔷煩悩を垂れ流して少しも恥ずかしいとは思わなかった。この煩悩が大好きだった。
🔶定年退職して、昔は好きだったのに、今は脂っこいものが食べられなくなった。
🔷最近、酒が飲めなくなったという友達がいました。
🔶段々、天ぷらよりもサラダの方が美味しくなってきた。
🔷朝の散歩が楽しくなってきた。
🟥仏の誓いを聞き始めしより、無明の酔いも、やうやう少しずつ覚め、三毒をも少しずつ好まずして、阿弥陀仏の薬を常に好み召す身となりておわしましあうて候ぞかし。
🔷南無阿弥陀仏を頂戴しているのは事実であります。
🔶自分の心に少しずつ変化をもたらして下さっているんだと実感して下さい!と親鸞聖人はおっしゃっているのです。
🔷今まで煩悩を垂れ流していて、恥ずかしいとも思わなかったことが、これは恥ずかしいことなんだ!
🔶自分の欲望のままに自己主張をすることが正しいことなんだ!と思っていた。
🔷自分の利益のために沢山の人を傷つけて、それを恥ずかしいとも想わずに暮らしていた。
🔶それを少しずつ、気づかせて頂くようになった。損得感情で毎日を暮らし、利益を主張する、恥ずかしいことだと気づかせて頂けたならば、如来様の御心が少し我が身に届いていることの証拠なのです。
🔷こんなふうにして生きていきましょう!と親鸞聖人は私達を見てくださっているのです。
🔶凡夫だから、そのままでいいんだ!とは言われていないのです。
🔷凡夫だからこそ、その恥ずかしさに気づいて、出来るだけ、如来様の御心に添うような生き方をしていきましょうね、とおっしゃってくださっています。
🔶大人の仏法を親鸞聖人は語ってくださっているのでございます。
🔷親鸞聖人は、心を変化させる可能性のある生き物だと期待を持って語ってくださっている。
🔶どうか、その期待に応えられるようにお聞かせ頂いた、曇鸞大師の御心。
🔷それを受けた親鸞聖人のお心を味わわせて頂きました。
【終了】
✡️【配布資料】✡️
芦屋仏教会館日曜公開講座資料(梯)
七高僧の教え -曇鸞大師(5)-
【6】、曇鸞『論註』卷下
🟨問う。先ほどは、極楽への往生は、我らが普通に生と死として認識しているような実体的な生ではないと知ると言われたが、それを知ることができるのは程度の高い上級の往生者だろう。
🟨十遍の称名によって往生する極悪人などは、生と死の繰り返しの中での実体的な生と捉えているにちかいない。
🟨しかし実体的な生としてしか捉えられないならば、 二つの誤りに陥るだろう。
🟨第一には、私は往生できないのではないかという誤った考えを起こすこと、
🟨第二には、実体的な生への執着を生ずるということである。
🟨答え。たとえば美しい不思議の宝珠を濁った水に入れると、その水が浄化されるようなものである。
🟨もし限りない生死を繰り返さなければならないような重罪人でも、阿弥陀如来の生死を超えた限りなく清らかな宝珠のような名を聞き、穢れた心にその名を届ければ、一声ごとに罪が消えて心が清らかになり、やがて往生することができるのである。
🟨また、この不思議の宝珠を芥子色の布に包んで水に浸けると、水がすぐに芥子色に染まってしまうようなものである。
🟨かの極楽の清らかな国土には、阿弥陀如来という最高の宝珠がまします。
🟨その宝珠を、修行の成果としての清らかな世界という布で包み、これを往生人の心という水に浸けると、往生を実体的な生として捉えていた誤りに気づき、 生死を超える智慧を生ずることができるにちがいない。
🟨また、氷の上でたき火をすると、火の勢いが強いと、氷が解け、氷が解けると火が消えるようなものである。
🟨極悪人は生死を超えた真実の生を理解できないけれども、ただ仏の名を称えたおかげで往生を願う心を起こすことができるようになり、極楽に生まれたいと願うならば、極楽は生死を超えたさとりの世界であるから、その世界の力によって、 煩悩の火は自然に消えるのである。
【7】.曇鸞『論註』卷下
🟨王舍城で説かれた『無量寿経』によると、三輩往生人の修行には優劣があるが、すべてに共通するのは、無上菩提心を発すということである。
🟨無上菩提心とは、自分が仏になろうと願う心であり、それはそのまま衆生を済度しようとする心である。
🟨衆生を済度しようとする心とは、衆生を摂め取って仏の浄土に生まれさせる心である。
🟨だから、安楽浄土に往生しようとする人は、必ず無上菩提心を発さねばならないと説かれるのである。
🟨菩提心を発さず、ただ浄土が楽の絶えない世界だと聞いて、楽を求めて往生を願うような者は往生できない。
🟨だから『論』には、「自分のための楽を求めず、一切衆生の苦を取り除こうとするからである」と説かれる。
🟨「住持の楽」とは、安楽浄土は阿弥陀如来の本願力によって住持され、楽を受けることが絶え間がないことを言う。
🟨「回向」という言葉を解釈するならば、菩薩が自ら集めたすべての功徳を他のすべての衆生に施して、みなと共に悟りに向かうことである。
🟨「巧方便」とは、菩薩が自らおこした智慧の火によって一切衆生の煩悩の草木を焼こうとして、もし一人でも成仏しなかったならば、自分は仏になるまいと願うことである。
🟨ところが衆生のすべてがまだ成仏しないのに、菩薩が先に成仏してしまうのである。
🟨たとえば木の火箸で草木を摘まんで焼き尽くそうとして、草木が焼け尽きないうちに、火箸が先に焼け切ってしまうようなものである。
🟨わが身を後にして、しかもわが身が他の衆生よりも先に成仏するから「巧方便」と名づけるのである。
🟨「方便」とは、一切衆生を摂め取って、共に弥陀の浄土に往生しようと願うことである。
🟨阿弥陀仏の浄土は、必ず成仏することを約束された世界であり、そこに至ることが、我らが成仏するためには最もふさわしい方法だからである。
【終了】











🙏講題:七高僧の教え―曇鸞大師(5)
🙏講師:大阪大谷大学名誉教授
梯 信暁 先生
💫【講義の走り書きメモ3️⃣⃣】💫
🔷曇鸞大師の譬え話の二つ目は、
🟨また、この不思議の宝珠を芥子(からし)色の布に包んで水に浸けると、
🟨水がすぐに芥子色に染まってしまうようなものである。
🟨彼の極楽の清らかな国土には、阿弥陀如来という最高の宝珠がまします。
🟨その宝珠を、修行の成果としての清らかな世界という布で包み、
🔷お浄土のことを布に喩えています。
🟨これを往生人の心という水に浸けると、往生を実体的な生として捉えていた誤りに気づき、 生死を超える智慧を生ずることができるに違いない。
🔷南無阿弥陀仏を頂くことは如来様のお智慧を頂戴することなんだ、と教えて下さっている。
🔶具体的には、芥子(からし)色の布に包んで水に浸けると水がすぐに芥子色に染まってしまうようなものである。
🔷辛子色とは、黄色のくすんだような色です。
🟨インドのお坊さんがつけている御袈裟は辛子色の衣です。
🔶日本でも真言宗のお坊さんも辛子色の御袈裟をつけている。
🔷真宗の僧侶も黄袈裟をつけています。
🟨あれが一番粗末な布なのです。あれがガンジス河で拾ってくる布で、その布を拾って御袈裟にする。
🔶捨てるものを拾って着物にするのが出家者。
🔷この間、色衣がボロボロになって京都にいって、新しいものを一つあつらえようと値段を聞いてビックリしました。
🔶どうも日本のお坊さんがつけていらっしゃるご袈裟は高すぎると思います。
🔷本来のご袈裟の意味をなさなくなっている気がします。🟨そんなことをいうと営業妨害になるので、ここだけの話にしておきますが。
🔶御袈裟の色が辛子色なのです。辛子色の布に水が染まっていく。
🟨南無阿弥陀仏の息のかかった布でございます。
🔷南無阿弥陀仏のお浄土で、如来様の願いの色に私自身が変えられていく。
🔶浄土に往生すると真実の清らかな身に変えて頂ける。
🔷三つ目の喩えは、氷上燃火の喩えです。
🟨氷の上で火を焚く。中々、面白い譬え話で、大智度論にあります。
🔶ところが曇鸞大師は全然、違う譬えとして、お使いになっています。
🔷源信僧都も、往生要集に使っておられます。
🔶論註の喩えは、
🟨また、氷の上でたき火をすると、火の勢いが強いと、氷が解け、氷が解けると火が消えるようなものである。
🔷やってみると面白いと思いますが、
🟨極悪人は生死を超えた真実の生を理解できないけれども、ただ仏の名を称えたおかげで往生を願う心を起こすことができるようになり、
🟨極楽に生まれたいと願うならば、極楽は生死を超えたさとりの世界であるから、
🟨その世界の力によって、煩悩の火は自然に消えるのである。
🔷極楽からの働きかけがあると言われる。
🔶水は覚りの喩えなのです。
🟨大智度論に譬え話がありまして、曇鸞大師は大智度論の研究者ですから、隅から隅まで分かっていらっしゃいます。
🔷大智度論は百巻で膨大でありまして、とても覚えられるものではありません。
🔶氷の煩悩と水の覚りを出して来られたのは、煩悩と覚りの譬えとして、出して来られた。
🔷氷に火をつけて、氷の勢いで火を消す。氷と水は元来、別のものである。
🔶気を抜いたら、氷はもっと大きな氷になってしまう。
🔷少しずつ氷は溶けていくという、譬え話であります。
🔶曇鸞大師の話を深く理解された道綽禅師は、ハッキリと言われている。
🔷煩悩の火は、浄土に往生すると消える。穢土では煩悩は消えない。
🔶娑婆にいるうちに氷が水に変わるところを、少し味わわせて頂ける、という譬え話です。
🔷私達は、南無阿弥陀仏を称えて実感させて頂かなければならない。
🟨少しずつでも如来様の御心に従って、影響を受けている。
🔶今まで、恥ずかしいとも思っていなかった自分が恥ずかしいと思うような経験をすることがあります。
🔷アジャセ太子は、罪の意識がなかった時は強い意志を持って、国を指導していた。
🔶ある時、自分が大変なことをしてしまったと気がついた。
🔷これは慚愧が起こったと涅槃経に書かれています。
🟨慚愧とは恥ずかしいという心です。
🔶慚愧によって、心の病から身体を病むようになっていく。
🔷心が病むと身体に変調を来たすようになります。
🟨その慚愧の心を起こしたために心身に病を得た、その姿を見たギバは評価をします。
🔶今、王様は罪にお気づきになって、そして病になられた。
🟨病で苦しむ姿を褒められたのです。
🔷そんな教えを誰から聞いたのか、と聞くと、ギバはお釈迦様です、とお答えになります。
🔶罪に気づかないうちは何ともない。
🟨でも罪に気づいたら、心身に変調をきたす。
🔷それが、おみのりに触れるキッカケになる。
🟨とても恥ずかしいことだと気づかせて頂くことになる。
🔶曇鸞大師がこの譬え話でおっしゃりたかったことは、南無阿弥陀仏を聴かせて頂くことによって、
🔷私の心は少しずつ仏様のおこころに従っていけるようになっていくんですよ。
🔶南無阿弥陀仏が、あなたを変えて下さるんですよ。
🔷親鸞聖人はこの譬え話を教行信証には引用なさっていないのですけど、親鸞聖人は論註から得られたものが沢山あります。
🔶親鸞聖人は氷上燃火の譬え話を受けて、おっしゃったことが御手紙の中にあるので紹介します。
🔷御消息集にありますので紹介します。
🟥 「先ず各々の、昔は弥陀の誓いをも知らず、阿弥陀仏をも申さず、おわしまし候いしが、
🟥釈迦・弥陀の御方便に催されて、今、弥陀の誓いをも聞き始めて、おわします身にて候なり。
🟥元は無明の酒に酔いて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ、好み召しあうて候つるに
🟥仏の誓いを聞き始めしより、無明の酔いも、やうやう少しずつ覚め、三毒をも少しずつ好まずして、
🟥阿弥陀仏の薬を常に好み召す身となりて、おわしましあうて候ぞかし。
というお言葉です。
🔷昔は阿弥陀仏のことも、ご本願のことも、南無阿弥陀仏のことも知りませんでした。
🔶でも、お釈迦様や阿弥陀様の、あの手この手のお手立てによって、今、始めて阿弥陀様の願いを聴かせて頂く身に育てて頂きました。
🔷それで私の心が少し変わってきたことに気づきます。
🔶昔は無明、煩悩の酒に酔って三毒の煩悩を好み召して、煩悩が大好きだった。
🔷煩悩を垂れ流して少しも恥ずかしいとは思わなかった。この煩悩が大好きだった。
🔶定年退職して、昔は好きだったのに、今は脂っこいものが食べられなくなった。
🔷最近、酒が飲めなくなったという友達がいました。
🔶段々、天ぷらよりもサラダの方が美味しくなってきた。
🔷朝の散歩が楽しくなってきた。
🟥仏の誓いを聞き始めしより、無明の酔いも、やうやう少しずつ覚め、三毒をも少しずつ好まずして、阿弥陀仏の薬を常に好み召す身となりておわしましあうて候ぞかし。
🔷南無阿弥陀仏を頂戴しているのは事実であります。
🔶自分の心に少しずつ変化をもたらして下さっているんだと実感して下さい!と親鸞聖人はおっしゃっているのです。
🔷今まで煩悩を垂れ流していて、恥ずかしいとも思わなかったことが、これは恥ずかしいことなんだ!
🔶自分の欲望のままに自己主張をすることが正しいことなんだ!と思っていた。
🔷自分の利益のために沢山の人を傷つけて、それを恥ずかしいとも想わずに暮らしていた。
🔶それを少しずつ、気づかせて頂くようになった。損得感情で毎日を暮らし、利益を主張する、恥ずかしいことだと気づかせて頂けたならば、如来様の御心が少し我が身に届いていることの証拠なのです。
🔷こんなふうにして生きていきましょう!と親鸞聖人は私達を見てくださっているのです。
🔶凡夫だから、そのままでいいんだ!とは言われていないのです。
🔷凡夫だからこそ、その恥ずかしさに気づいて、出来るだけ、如来様の御心に添うような生き方をしていきましょうね、とおっしゃってくださっています。
🔶大人の仏法を親鸞聖人は語ってくださっているのでございます。
🔷親鸞聖人は、心を変化させる可能性のある生き物だと期待を持って語ってくださっている。
🔶どうか、その期待に応えられるようにお聞かせ頂いた、曇鸞大師の御心。
🔷それを受けた親鸞聖人のお心を味わわせて頂きました。
【終了】
✡️【配布資料】✡️
芦屋仏教会館日曜公開講座資料(梯)
七高僧の教え -曇鸞大師(5)-
【6】、曇鸞『論註』卷下
🟨問う。先ほどは、極楽への往生は、我らが普通に生と死として認識しているような実体的な生ではないと知ると言われたが、それを知ることができるのは程度の高い上級の往生者だろう。
🟨十遍の称名によって往生する極悪人などは、生と死の繰り返しの中での実体的な生と捉えているにちかいない。
🟨しかし実体的な生としてしか捉えられないならば、 二つの誤りに陥るだろう。
🟨第一には、私は往生できないのではないかという誤った考えを起こすこと、
🟨第二には、実体的な生への執着を生ずるということである。
🟨答え。たとえば美しい不思議の宝珠を濁った水に入れると、その水が浄化されるようなものである。
🟨もし限りない生死を繰り返さなければならないような重罪人でも、阿弥陀如来の生死を超えた限りなく清らかな宝珠のような名を聞き、穢れた心にその名を届ければ、一声ごとに罪が消えて心が清らかになり、やがて往生することができるのである。
🟨また、この不思議の宝珠を芥子色の布に包んで水に浸けると、水がすぐに芥子色に染まってしまうようなものである。
🟨かの極楽の清らかな国土には、阿弥陀如来という最高の宝珠がまします。
🟨その宝珠を、修行の成果としての清らかな世界という布で包み、これを往生人の心という水に浸けると、往生を実体的な生として捉えていた誤りに気づき、 生死を超える智慧を生ずることができるにちがいない。
🟨また、氷の上でたき火をすると、火の勢いが強いと、氷が解け、氷が解けると火が消えるようなものである。
🟨極悪人は生死を超えた真実の生を理解できないけれども、ただ仏の名を称えたおかげで往生を願う心を起こすことができるようになり、極楽に生まれたいと願うならば、極楽は生死を超えたさとりの世界であるから、その世界の力によって、 煩悩の火は自然に消えるのである。
【7】.曇鸞『論註』卷下
🟨王舍城で説かれた『無量寿経』によると、三輩往生人の修行には優劣があるが、すべてに共通するのは、無上菩提心を発すということである。
🟨無上菩提心とは、自分が仏になろうと願う心であり、それはそのまま衆生を済度しようとする心である。
🟨衆生を済度しようとする心とは、衆生を摂め取って仏の浄土に生まれさせる心である。
🟨だから、安楽浄土に往生しようとする人は、必ず無上菩提心を発さねばならないと説かれるのである。
🟨菩提心を発さず、ただ浄土が楽の絶えない世界だと聞いて、楽を求めて往生を願うような者は往生できない。
🟨だから『論』には、「自分のための楽を求めず、一切衆生の苦を取り除こうとするからである」と説かれる。
🟨「住持の楽」とは、安楽浄土は阿弥陀如来の本願力によって住持され、楽を受けることが絶え間がないことを言う。
🟨「回向」という言葉を解釈するならば、菩薩が自ら集めたすべての功徳を他のすべての衆生に施して、みなと共に悟りに向かうことである。
🟨「巧方便」とは、菩薩が自らおこした智慧の火によって一切衆生の煩悩の草木を焼こうとして、もし一人でも成仏しなかったならば、自分は仏になるまいと願うことである。
🟨ところが衆生のすべてがまだ成仏しないのに、菩薩が先に成仏してしまうのである。
🟨たとえば木の火箸で草木を摘まんで焼き尽くそうとして、草木が焼け尽きないうちに、火箸が先に焼け切ってしまうようなものである。
🟨わが身を後にして、しかもわが身が他の衆生よりも先に成仏するから「巧方便」と名づけるのである。
🟨「方便」とは、一切衆生を摂め取って、共に弥陀の浄土に往生しようと願うことである。
🟨阿弥陀仏の浄土は、必ず成仏することを約束された世界であり、そこに至ることが、我らが成仏するためには最もふさわしい方法だからである。
【終了】










