【質問】

「教行信証化身土巻にこそ、教行信証の本論であり、親鸞聖人が一番言われたかった事が書かれている!」とお聞きしたことがありますが、
真宗の学者で、どなたが言われているのですか?
清森さんは、どう思いますか?

【回答】

私も「教行信証化身土巻にこそ、教行信証の本論であり、親鸞聖人が一番言われたかった事が書かれている!」と言われるのは、全く同感です。

私は20歳から、40数年、少しずつ教行信証を拝読するようになり、教行信証は私の一番の愛読書であります。

教行信証は大変難しく難解な御著書ですが、とても深い内容が収まっていると感じています。

私の意見をまるで代弁するかのように、藤場俊基先生が以下のように教えて下さっているので、そのまま皆さんに紹介させて頂きます。

💫親鸞の教行信証を読み解く【IⅤ】💫
🔷化身土巻(前)🔷
🔶似て非なる「仏教」 一願われて在る逸脱🔶
🌃藤場俊基=著🌃

1️⃣一、化身土巻を見る視点
【p.10】
今日から化身土巻に入ります。まず化身土巻全体を包括的に見て、それから引文を見ていきたいと思います。

従来の『教行信証」の見方の枠組で勉強されてこられた方は、化身土巻を重要視している話を聞く機会はあまりなかったのではないかと思います。

近年、化身土巻の意義を再評価する気運が高まってきたのですが、まだ充分に深められているとは言いがたい状況ではないかと思います。

その中で私が注目してきたのは、安田理深先生の東海聞法学習会の「化身土巻」という講義録と、真宗大谷派・大阪教区教化センターの「生命の足音」に掲載されている平野修先生の『教行信証化身土巻』という講義録の二つです。

どちらも、それ以前の講義とは、ひと味もふた味も違い、教えられる点が多くあります。
しかし、残念ながら、安田先生の講義は最初の問答のあたりで終わっていますし、平野先生も若くして亡くなられてしまいました。

まだ掲載は続いていますが、講義はおそらく途中で終わっているのではないかと思います。

私自身『教行信証』を最初に読み始めた頃は、化身土巻は、付録あるいは方便、悪く言えば、踏み台程度にしか考えていませんでした。

真宗の学問としては、ずっとそのように考えられてきたために、その影響を受けていたのです。

今日の教学状況を見ても、その意識は、それほど大きく変わっていないように思います。

最近になって私は、むしろ化身土巻にこそ、親鸞が一番言いたかったことが書かれているのではないかと思うようになってきました。

化身土巻の内容を誤解されないように明らかにするためには、教・ 行・信・証の四巻と真仏土巻まで確かめた上で、ようやく筆を進めることができたのではないか、という思いが強くなっているのです。

親鸞が法然から聞いた浄土真宗、専修念仏の教えとは、どういう内容の教えであるか、どういう具合に、それを理解しているのか、ということを体系的に明らかにしているのが証巻までの四巻です。

そして、そこで明らかにされた専修念仏の教えとは仏教であるのか否か、こういう問題を確認しているのが真仏土巻です。
そこまではっきりしてくると、次は、当然のことながら「仏教ではないものとは何か」という問題が浮上してきます。

自他ともに仏教であると認め、見た目は仏教のような装いを持っているけれども、 実は仏教ではない。

そういう似て非なる仏教というのは、一体どんな様相で現われてくるのかをはっきりさせるのが化身土巻の役割ではないかと思います。

どれだけ「真実の教え」とか「正しい理解」を力説しても、逸脱がはっきりしなければ、何も言っていないに等しいと言えます。

逸脱をはっきりさせるためには、どうしても、その前に自分が受けとめた仏教の全容を明らかにする必要があります。

「教行信証」では、それが証巻までの内容です。

ですから、今の私の見方からすれば、化身土巻は、付録や踏み台どころか、真仏土巻までが、いわば前置きで、化身土巻こそが『教行信証」の本論であるということになるのです。

これから、私の化身士巻の領解を聞いていただく上では、今までお持ちになっている化身土巻に対する予備知識や予断は一度、全部、白紙に戻していただきたいと思います。

そして私の考えをお聞きいただいた上で、もう一度、一人ひとりが自分自身で考えてみて下さい。
    【終了】