⏹️✨【11月17日(日)】9時00分より、西宮市にて聴聞
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【1️⃣質問】

善をするには、どうしたらいいのか、善の心がけについて教えて下さい。

【1️⃣回答】

善を実践していく時に、一番は聴聞を心がけることが大事になってきます。

なぜかというと、私達は迷っているので、迷った心で善をしようとすると、動機が不純になるのです。動機が不純になると、それによって求めているものが変わります。

たとえば、本来ならば、相手に喜んでもらいたい、幸せになってもらいたいから、という気持ちでやっていくのが善として大事なのです。
それがいつの間にか、自分が価値のある人間に認めて貰いたいという気持ちで善をしてしまう。

何かをプレゼントをする時にも相手が喜んでくれたら、それで良い筈なのです。
なのに御礼がなかったとか、そうすると自分は馬鹿にされているとか、軽く見られているんじゃないかとか、そういうふうに思ってしまう。

一番は正しい動機で行うことが善なのです。その正しい動機というのは真実が知らされてこないと、正しい動機にはならない。

その真実がどう知らされるか、人間の力では無理です。だから、仏の力で変えて頂くのが一番だと思います。

🟨自分の真心というのは、どこを探してもないということですか?

人間には真心というのはない。
人間というのは、どうしても価値が問題なのです。価値のある人間として、見て貰うためにやってしまう。
相手の方を見ていなくて、自分ばかりを見てしまう。

自分の気持ちが寂しいならば、寂しいといえばいい。それをプレゼントをするとか、姑息な手段を使うのでなく、寂しいなら、寂しいと言って、自分が相手に近づいていけばいい。

でも私達が善をするのは、善をしたことによって、自分は価値のある人間として見てもらって、人に私の方へ近づいてもらいたいと思う。
そうではなくて、自分が頭を下げて近づけばいい。

🟨頭を下げて近づくのは善ですか?

善です。善とは大きく二つあって、苦しみを抜くための善と、幸せになるための善とあります。

自分が寂しいから行動するのは、苦しみを抜くための善なのです。
これを自利の善といいます。
【戒福・小乗善】

それに対して、人が幸せになるための善は、人を幸せにするために動く。これを利他の善といいます。【行福・大乗善】

先ずは自利の善が出来ないと利他の善は出来ない。

大事なのは、素直な心になることが大事です。
例えば、赤ちゃんならば、なぜ上から目線になるのか?
上から目線になることによって、自分が価値のあるところに立てるからです。

自分は価値のある人間だから、みんなは、言うことを聞いてくれる、となってしまう。
だから横柄になる。横柄になるのは、私って価値があるんだよ!と示して価値のある人間と認めさせようとする行為。それは素直でない。素直な心から見れば、価値があるとか、ないとか、どうだっていい。
ただ側に居て欲しいとか、構って欲しいとか、という気持ちが素直な気持ちなのです。

素直に出せるようにすることが大事な訳です。赤ちゃんでも上から目線になる。素直な自分を受け入れてもらえないんでないか、というのがある。

そうすると自分は価値のあるところに立とうとして、上から目線にになる。命令口調になる。

大人なら、聴聞をして勇気を出して、向き合っていく。子供であれば、癇癪をして、それでも付き合ってくれるから、疑情が取れて。癇癪がどうしても必要になる。

🟨これが疑情というのが分かれば、乗り越えられますけど?分かるのですか?

なかなか疑情が分からないからこそ、聴聞に励むのです。励むことによって、自分を客観的に観る目が出来てくる。そうすると、自分は、こういう感情を起こした。
これは疑情だなあ、ということが分かってくる。

それが聴聞をこころがけていないと、自分で起こした心が、この心がどんな心かが分からない。その心のまま、突き進んでしまう。

🟨電車などで、席を譲ってあげたい心については?最善の行動は?

自分が疲れてなかったら、席を譲ることが、一番心が明るくなる行動です。

🟨そうなりたいと思います。でも出来なかったら、嫌な気持ちになります。

出来なかったら、嫌な気持ちになるのは、出来ない人を責めているからです。

🟨優先席に、電車で席を譲らずに足をでんと組んでスマホを見ている若者を見るとムカッとくるのですが?

そういう人がいても、仕方ないなあ。それは悪ですよ。これみよがしに、若者がやっているのは悪ですが、それを許す。

🟨許そうとは思うのですけど、穢れを作っているような気がする。

穢れを作るのは、自分を責めているからです。責めなくていいんです。そういう人がいても、そこに居ても仕方ないなあ、と思う。

🟨責め口調はよくないのですね?

自分の中で上に立とうとしている。上に立たなくては思いを通せないことはない。
こんな赤ちゃんでも、上から目線になろうとしているのだなあ、と思っている。

悪はダメではなく、人間というのは、悪だと分かっていても、やれないことは一杯あるんです。

仏教でいう善は、自利の善と利他の善があります。普通の世の中の善といえば、利他の善だけを善と呼ぶ。
真心をもって、相手のことを思ってやることだけを善と言っていますから。

本当に自分は相手のことだけを考えてやっているのか?
自分の自己満足のためにやっているのか?

仏教的には、自利の善も善なのです。
だから、善は自己満足でやっても良い筈なのです。
それは相手のことを思う真心では、ないけれども、自分としては、こういうことをしてあげたい、やりたい、そういう自分になりたいという気持ちでやるのは、立派な善だと思ったら、いいと思います。

自分が赤ちゃんと接する時に素直に接するか、赤ちゃんは真似をしていくのです。
      【終了】