2️⃣🌟🌍️【2024年7月14日 (日)】
芦屋仏教会館【公開仏教基礎講座】午後1時30分~3時
講題:『観無量寿経』を読む(7)
講師:浄土真宗本願寺派総合研究所研究員・京都女子大学講師
     那須 公昭 先生
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🌟【配布資料】続き🌟

2️⃣2. 真身観
🔷定善の観法の中で、一番要の観察。仏身の高さ「六十万億那由他恒河沙由旬」。
🔶光明は十方世界をあまねく照らし、念仏の衆生を修め取って捨てることがない。

➡ この観法ができるものは、一切の諸仏を見ることができる

🟥【摂取不捨】
🟨無量寿仏に八万四千の相まします。
🟨一々の相に、おのおの八万四千の随形好あり。
🟨一々の好に、また八万四千の光明あり。
🟨一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。(註釈版102頁)

⭕「摂」➡: 多くのものを散り乱れないよう、手の中にあわせ持つこと
⭕「取」➡:しっかりと手にとって離さない
⭕「不捨」➡:「摂取」を強調している表現

⇒ 阿弥陀仏は念仏する者を大悲の光明の中に摂め取って、決して見放さない、という救いの確かさを告げている

🌟摂取の三縁 (善導による摂取不捨のいわれ)
⭕親縁➡:口に念仏を称え、身に仏を礼拝し、意に仏を憶念すれば、仏もそれぞれに相応し、瞬時も離れることがない
⇒ 念仏者の心と、仏の心との親密さをあらわす

⭕近縁➡:阿弥陀仏は常に念仏する人を片時も離れず、間近にいる
⇒ 念仏者と仏との身体的な距離をあらわす

⭕増上縁➡:本願を信じ念仏するものは、即時に罪障が消滅し、往生すべき身に定められ、臨終にどんな亡くなり方をしても、何事もさまたげられることなく、救いにあずかることができる
⇒ 障り多き凡夫が無碍光如来の計らいにつつまれて、障りなく救われる。

【梯実円(2003)】
🟨親縁、近縁、増上縁という摂取の三縁は、第八像観のはじめの法界身の意味を釈して示された、心遍、身遍、無障碍遍の三義と対応している。
🟨阿弥陀仏の大智大悲のみ心は、苦悩する一切の衆生の心に遍満して(心遍)、
🟨苦悩を共感、同受し、衆生を救おうと念じたもうている。
🟨そのみ心によびさまされて、仏を念ずるようになったのが念仏の衆生ですから、
🟨仏と衆生の心が通う親縁の利益が与えられる。
🟨また身心一如の如来は、そのみ心が遍満しているように、
🟨その御身も、また一切衆生の上に遍満し(身遍)、
🟨念仏の衆生を片時も離れず、
🟨見まもりたもうから、念仏者は近縁の利益に預かっている。
🟨また如来の救済の本願力は、一切衆生のうえに、障りなく遍満して(無障碍遍)、
🟨さわりなく救いたもうから、念仏の衆生は、増上縁という無碍の救いにあずかることができるわけです。(梯(2003) 207頁要約)

*️⃣※親鸞聖人の摂取の解釈【逃ぐるものを追はへとるなり】
🟨十方微塵世界の
🟨念仏の衆生をみそなはし
🟨摂取してすてざれば
🟨阿弥陀となづけたてまつる
      (註釈版571頁)
⭕宗祖はこの「摂取」に
🟨「摂めとる。ひとたび、とりて永く捨てぬなり。
🟨摂は、ものの逃ぐるを追はへ取るなり。
🟨摂は、をさめとる、取は迎へとる」と左訓している

⇒ 状況次第によって、人間は念仏さえ忘れてしまう。
🔷それでも阿弥陀仏は私を忘れることなく、必ず救い出してくださる

⇒ 煩悩から離れ、善い功徳を積み、真実を求めることが大事だといくら聞いても、背を向けて逃げ惑っている私。
🔶そんな私を見捨てることなく、追い求めて育てつづけ、浄土へ往生させようと、はたらき続けるダイナミックな大悲の計らいであることをいわれている

⬛仏身とは、大慈悲これなり
🟨この観をなすをば、一切の仏身を観ずと名づく。
🟨仏身を観ずるを以ての故に、ま た仏心を見たてまつる。
🟨仏心とは、大慈悲これなり。
🟨無縁の慈を以て、もろもろの衆 生を摂したまふ。(註釈版102頁)

⭕仏のすがたを観じる = 仏の心を見る = その心は大慈悲である
⇒「慈悲」とは古来より「抜苦与楽」と示される。
🔷「慈」はマイトリー(平等の友情)、
🔷 「悲」はカルナ(原意は呻き)。
🔷人の痛み・苦悩を自分の痛み・苦悩として同感し、共感して、人々のしあわせを我がこととして願い求めていく心

⇒ 無縁の慈悲とは、
🔶我にも、法にも、どのような縁にもとらわれず、
🔶わけへだてなく、すべてのものを救おうとする心。
🔶怨憎や親愛を超えて、わけへだてなく慈愛することから、怨親平等の心ともいわれる

*️⃣※曇鸞『往生論註』の大慈悲
🟨慈悲に三縁あり。
🟨一には衆生縁、これ小悲なり。
🟨二には法縁、これ中悲なり。
🟨三には無縁、これ大悲なり。
🟨大悲は、即ち出世の善なり。
🟨安楽浄土は、この大悲より生ぜるが故なり。
🟨故にこの大悲をいいて浄土の根となす。(註釈版七祖62頁)

⭕衆生縁の慈悲➡: 凡夫が衆生に対しておこす慈悲
ex) 親子の愛情、友情など人間関係に限定
⭕法縁の慈悲➡: 阿羅漢や菩薩が一切のものが無我であることをさとって起す慈悲
⭕無縁の慈悲➡:仏が対象を選ばず、一切の衆生に向けておこす絶対平等の慈悲

⇒『往生論註』では、阿弥陀仏の浄土が大悲によって建立されたという文脈のなかで語られており、浄土が一切衆生を平等に迎え入れる世界であることがわかる

【霊山(1994)よしやま】
🟩かわいいから、知っているから、あるいは仲間だから、そういう一切の区別がない。
🟩一切の衆生を見ること、自己を見るが如く見る。
🟨『大無量寿経』に菩薩の徳を 述べて、
🟨「もろもろの衆生において、観そなわすこと、自己のごとし」と、こういうのが無縁の慈悲なのです。 (霊山(1994)201頁要約)

3️⃣3. 聖衆の観察

🔟観音観➡:阿弥陀仏の左に坐す観世音菩薩を観察する。

⏹️善導大師「日中讃」
🟨観音菩薩の大慈悲、すでに菩提を得るも、捨てて証せず(七祖702頁)
⭕すでに仏のさとりを得ていながら、仏の位につかずに菩薩という姿をとって、迷える人々と共にいる

【親鸞聖人の見た観音観】
🟨救世観音大菩薩
🟨聖徳皇と示現して
🟨多々のごとく捨てずして
🟨阿摩のごとくに添いたまふ
       (註釈版615頁)
⇒ 観音菩薩が聖徳太子となって日本に示現された。
🔷宗祖自身は六角堂での夢告によ って、自分を法然聖人に導いてくださったことが味わわれている

*️⃣※六角堂
🔶聖徳太子が、用明天皇2年(587)に、京都盆地を訪れた際、念持仏である如意輪観音像を安置するために建立した六角形の御堂。
🔷正式な寺号は頂法寺といい、御堂の形から「六角堂」「六角さん」と呼ばれている。

🔟1️⃣勢至観➡:阿弥陀仏の右に坐す大勢至菩薩を観察する。
🟨この菩薩行きたまふ時、十方世界は一切震動す。(註釈版105頁)

⇒ 勢至菩薩が智慧の行動をおこすと、凡夫の煩悩によって構築されている世界は、その根源から、ゆり動かされ、その虚構性がはっきりとあばかれる

【親鸞聖人の勢至観】
🟨源空勢至と示現し
🟨あるいは弥陀と顕現す
🟨上皇・群臣、尊敬し
🟨京夷庶民、欽仰す
       (註釈版、597頁)
⇒ 宗祖は、法然聖人の本地を大勢至菩薩と信じて疑われなかった

⇒ 恵信尼さまのお手紙にも、恵信尼さまが「法然聖人が大勢至菩薩としてあらわれた」というと、宗祖は「それは正夢」だと返答したことが述べられている

*️⃣※勢至菩薩の評価
【宇野一九八七】
⭕『観経』勢至観に説かれる宝瓶についての言及
🟨勢至の宝瓶が何であるかを確かめる根拠はない。
🟨『首楞厳経』の勢至円通の文から転じて、
🟨日本仏教では、勢至の宝瓶には、父母の遺骨を納めるという孝親説を立てているが、後世の意味づけである。
🟨その起源は、観音が阿弥陀仏の化仏を戴くようになるに対し、
🟨その観音の持瓶を勢至が戴くというように、
🟨弥陀→観音→勢至の順に、その働きを継承するという思想のもとに、それが象徴化したという考え方が至当である

⭕勢至の存在
🔶十三世紀前半には、密教化と共に、観音の中に吸収されてしまうというのが、中国浄土教における勢至菩薩の位置である。
(以上、印仏1987・96頁)

🔟2️⃣普観➡:自らが往生し、極楽の蓮華の中に生まれる想いをなし、閉じた蓮華が開き、 仏・菩薩を見て、妙法を聞くありさまを観想する

⭕浄土の依正を観じ終えたので、それが阿弥陀仏の極楽世界としてまさにはたらいているすがたを観想する
⇒ 諸師は自往生観とみるが、大師は定善と散善をわけて考えるので、普観と名づけた

🔟3️⃣雑想観➡:阿弥陀仏、観音・勢至が十方世界において衆生を摂化することを観じる。
🔷願生者が如来の宿願力によって観想を成就することが説かれている

⭕他の観想にはみられない特色。
衆生摂化に関するものであり、また定善の観想全体も、如来の誓願のはたらきにおいて成就することを意味する

🟥【定善 まとめ】🟥

🌟定善の観法は、水鏡のように、こころをしずめ、阿弥陀仏の極楽荘厳を観察する修行
🌟第七華座観で、釈尊の「苦悩を除く法」に応じ、阿弥陀仏が登場する。
🔷これにより、阿弥陀仏は「苦悩を除く法」そのものであることがわかる
🌟第八像観の前に、法界身の解釈の中で、善導大師は指方立相を示された。
🔷それは、愚かな凡夫のために方角を指し示して、相を立て、如来・浄土を知らせ、願わせるところに『観経』に説かれた浄土教の特色がある
🌟第九真身観で「摂取不捨」
🟨「仏身をみることは仏心をみる。仏心とは大慈悲これなり」と示された。
🔷この経文により、七高僧や親鸞聖人が念仏に救われていることの喜びをかみしめられ、本願に立脚した浄土教を説き明かされていく。
     【終了】