🟨①仏教で賢い人とは智慧のある人【信心決定した人とは因果の道理を深く知らされた人・「善をしなければ幸せになれない」と知る人】【令和5年8月18日】
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【質問①】
 
仏教で賢い人とは、どんな人ですか?

【回答①】
 
仏教で賢い人とは、智慧のある人を言います。
では、智慧とは何か?
智とは、進を知りて退を守る。これを智という。どこに向かって進んでいったらいいか。

例えば、死んでいく時には、全てのものを置いていかなければならない。

置いていかなければならないものをかき集めて、生きる生き方は、というのは、人生の無駄です。
賢くない人です。

大きく賢い人というのは、トータル的に考えて、無駄なことをしない人が賢い人なのです。

例えば、生きるためには、お金が必要ですが、お金を得るためだけに、人生を終えたならば、それは賢い人でしょうか?

お金は死んで持っていけないから。持っていけないもののために人生を費やすことは、無駄なことなのです。

賢い人というのは、人生をトータル的に考えて、意味のあることを費やしていく人が、賢い人です。

例えば、ある団体が人を集めるために一生懸命に勧誘をする。活動する、目標を建てて勧誘する。
勧誘をして入会して、同じ分だけ退会をしていく人がいたとしたら、その行為は賢くない。

今いる人のために時間を費やした方が、いいですよね。

何が賢いか?何が賢くないか?

食材なら、スーパーで沢山の買い物をする。でもその多くを腐らすならば、賢くない。

賢いのは、全てを生かすように生きていく生き方なのです。

例えば、あるものを大事にするとか、多くのものを求めないとか、今、いる人を大事にしていくとか。それは、全部、繋がっていくことです。だから、賢い生き方です。

賢くない生き方とは、
最後は、置いていくもののために人生を費やしていく生き方です。

頭が良いとか、悪いとかは、関係ないです。脳が人よりもいいとかは関係ない。

どれだけ、真実を知っているか、どうかが、賢さのポイントです。

真実を大きく分けて二つあります。
1️⃣人は、死ぬ。
2️⃣心が、世界を生み出す。
それが真実なのです。

人が死ぬことが、どれだけ分かっているか、そして、この世界、現実世界でなく、生きている世界は心によって生み出された世界が、私の世界である。

心が生み出していく。だから、地獄という世界がある訳でない。

地獄という世界は、私の心が生み出していく。
人を見下したり、馬鹿にしたり、
責めたり、否定したり、無視したり、のけ者にしたりする心の種蒔きが、

生きている時には気づかないけど、死んで、私を苦しみの世界に変えていく。

勉強が出来るかどうかは関係ない。ただ人は、死ぬんだなあ、ということが分かるかどうか。
死ぬ時には、何一つ持っていくことは出来ないんだなあ、と思えるかどうか。

私達は、色んなものを手に入れて、自分の存在を証明しようとしている。

私というものは、生まれ変わり、死に変わりを繰り返している。
今の私には前世の私があるのです。
もしかしたら、前世の私は、ノーベル賞を取ったかも知れない。
今の私は関係ない。ノーベル賞を取ったことでさえも、覚えていない。

ということは、どんなにノーベル賞をとったものだということを存在を証明したとしても、私達にとって一番大事なことは、自分の存在を証明することなのです。

自分とは何かを定義づけることなのです。

自分を定義づけていることが、この世のものなのです。
私の名前とか、私が家を建てたとか、私のお金とか、私の財産とか、私がどんな賞を取ったかとこ、そういうことが私の存在を証明するものなのです。

だけど死んでいく時には、私の存在を証明するものは、何一つ持っていけない。

そうすると、今、私はいろんなものに囲まれて、証明しているから、安心している。

でも、その存在を証明しているものが、全部、死ぬ時には、消えてなくなる。

私達は、死んだら亡くなったおじいちゃんが、迎えにきてくれると思っている。

この世のつながりみたいなものが、そのまま、死んでからも続いていくと思っている。

今の私のものと思っているものが、死んでからも続いていくと思っている。
だから、死の本質が分かっていない。今、私だと思っているものの全てがなくなってしまう。

よく「今あるものを、俺が死んでから、整理しろ」という人がいる。死ぬまでは整理をするな!

なぜか?そのものが溢れていたら、自分は何かをやってきたと思える。
これだけのことをやった。でも整理をして分かることは、何も残らないことが分かる。

お金を手に入れても、家を建てても置いていかなければならない。
それが死ぬということなのです。

自分はあと何年生きられるか、分からない。十年も二十年も生きられないのに、それなのに自分が死んでいくとは、どういうことか、分からないのは、愚かなことです。

自分が死んでいくことが分かった時に、一切のものを置いていかなければならないことが分かる。そして、というのです。

整理をしたくない、執着しているものが、全て苦しみになる。何故か?

整理をしたくないものは、そのものが自分の存在を証明するものだから。

モノが、自分の存在を証明している。それが死んでいく時には、置いていく。では、自分とは、何者なのか?となる。

全てを置いていくとなって、初めて私の生きる意味は何か、となる。私の存在とは何か?となる。

そして、仏教では、私の存在は
泡のように消えていくものだと教えられる。この世に生きたというものが何もなくなる。
そういう存在になる。

そこで初めて、私はなぜ生きるのか、問題になる。生きる意味を真剣に考えた時に、何が残るか?それが分かる。

その意味が分かった人を、賢い人というのです。
何が残るか?何が続いていくか?
続いていくものは、私の業なのです。
心で良い種蒔きをしていこう、ということが人生の意味になる。
何をしていくか?
人生にとって、大事なのは相手だと、分かる。相手があるから、優しい気持ちを伝えていくことが出来る。
家族がいるから、その家族に対して、温かいものを相手に与えていくことが出来る。

この心から、温かいものを与えていくことが幸せになる唯一の方法であることが分かる。

だから、人生の意味は利他をすることになる。人を喜ばせたい、人を幸せにしたい。人の苦しみを抜きたい。

それが幸せだから、人のために尽くすこと、人の幸せのために行動することが、自分の心から、幸せな世界を生み出していく。

この答えに行き着いた人を賢い人というのです。

だから、人生の目的を果たしたら、信心決定したら、何もすることはないわ、という人がいる。
何もしなくても幸せだわ。違う。

信心決定するということは、この世の真理を知るということ。
この世の真理は、良い種蒔きをしなければ、善い結果はやってこないことを知るということ。
そこに対する疑いが一切なくなったのを、信心決定という。

だから、信心決定した人が、人を責めたり、人を否定したり、そんなことをやっていたら、
「それでも私は絶対の幸福だ」なんてことはない。

信心決定しようが、悪をすると、苦しみがやってくる。

信心決定しながら、悪をするのは、それは信心決定した人とは、言えない。
信心決定するとは、善をしなければ幸せになれないと知る人なのです。心から善をしていこうという気持ちになる人なのです。
相手に向けて、温かいものを送り続けていくということなのです。

この真理を悟った人を賢い人というふうに言うのです。

自分に対しても、相手に対しても、温かいものを送り続けていくことが、賢い人。
まず自分からです。自分に対して、温かいものを送り続けていくと、今度は相手に対しても、温かいものを送り続けていくようになる。

私の心から、どんな思いが起きているかが、私の幸せに直結するのだ。
人生とは、どれだけお金を稼いだことではない。どれだけ財産を築いたことではない。どれだけ名声や地位を得たことではない。

この心から、善の思いを起こし続けることが出来るかどうか。

信心決定とは、その善を起こしていくしか、幸せになれないことに疑いが晴れたことを信心決定という。これしか、幸せになる方法はないと、知らされたことをいう。

🟨なぜ頭のいい人が羨ましいと思うのか?

それは、頭のいい人は、上に立てるから。上に立てば、下を見下せるから。その優越感に浸りたいからです。

🟨それはショックです。

それがなくなるためには、自分を大事にすることです。
自分を大事にすれば、下に見られても、何とも思わない。上に立とうとも思わない。
      【終了】