昨年の説法です。
10月11日(月)は午後、尼崎市の私の実家の自宅で、
「善も欲しからず悪も恐れなし」『口伝抄』【善悪二業の事】〈4ヶ条〉について、前半の部分を説法させていただきました。

再生リスト、作成しました。
https://youtube.com/playlist?list=PLvGqBmmkKIT_Z1UWtYZCDKxpDTHzTyHGN

以下、意訳です。

親鸞聖人が仰せになりました。 「親鸞は全く善も欲しからず、 また悪も恐れなし。 

善が欲しくない理由は、 弥陀の本願を信受するに勝る善がないからである。
【『歎異抄』では念仏に勝るべき善なきが故に】

 悪を恐れない理由は、 弥陀の本願を妨げる悪がないからである。

ところが世の人が、皆が思うのは善根を具足しなければ、 たとえ念仏をしても、往生は出来ない。

 また、たとえ念仏するといっても、悪業深重ならば、往生は出来ない。

この思いは、 共に甚だ間違っている。 

もし悪業を心にまかせて止めて、 善根を思いのままに備えて、生死を出離して、浄土に往生することが出来るならば、 あえて本願を信知しなくても、 何の不足があるだろうか。 

しかし、これがいずれも意のままにならないために、
悪業を恐れながら、すなはち悪業を起こし、 
善根をあってほしいと思うけれども、得ることが出来ない凡夫なのである。 

こうした浅ましい三毒具足の悪機として、 自分の我の力では出離の途(みち)が絶えた機を摂い取って下さるための五劫思惟の本願であるから、 
ただ仰いで仏智を信受するより、他にない。

ところが、善機の念仏するのが決定往生と思い、悪人の念仏するのは往生不定と疑う。 

ここに、本願の面目は失われ、また 自身が悪機であることを知らないのである。

おおよそ凡夫を引き導いて、浄土に接待する絶対平等の慈悲をもって、修因の結果、その目的通りに成就することが出来た特別の願によって成就した報仏報土へ、
五乗【菩薩、縁覚、声聞、天人、人間】が等しく入ることが出来るのは、 諸仏が未だ起こされたことのない超世不思議の願である。

たとえ大乗経典を読誦できて、第一義の真実を理解できる善機であったとしても、 自分で修めた、生まれながらの生得の善ばかりをもって、浄土に往生することは、かなうことはないのである。

また、もともと仏の教えからは、悪業は捨てられるものであるから、罪悪を犯す素質だけしか持たないものが、悪をますます重ねることによって、その浄土へ行くというものでもない。

こうした訳だから、 生まれつきの素質として、備えた善と悪の二つは報土往生の得ともならず、失ともならないことは、勿論である。

だからこそ、この善、悪の素質を備えたままで、与えられるところの弥陀の仏智をつのりとする(たよりとする)より他に、 凡夫がどうして往生の得分(利益)があるであろうか?
ある筈はないのである。 

だからこそ、 悪を犯すことも恐ろしくない。 
善も欲しくない、とも言われるのである。

この4条目の最後に、アングリマーラの話が出てきますが、
お釈迦様は、
「謙虚でなければ、解脱に達することは出来ない」と教えられました。

アングリマーラに出会ったお釈迦様は、
「君は無智ゆえに、人生をあてもなく走り続けている。目的に達した私は、勝利を得て、心は止まっているのだ」という意味の言葉を告げました。

その一言で、アングリマーラの目が覚めました。

「知らないことは誰からでも教えてもらう」という謙虚さがあったからこそ、覚りが開けた、と言えます。

それから、仏弟子となり、ブッダの言葉を学び実践して、とても早いスピードで覚りに達しました。

人は罪を犯しても、「悪人」になってはいけないのです。

幸せになれない、覚りが開けない、助からない「悪人」とは、

自分の罪を認めない。
罪を正当化する。
言い訳をする。
自我を張る人のこと。

自分の罪を素直に認め、罪を正当化することを止めて、言い訳をすることもしない。

そういう人が浄土に往生出来るのです。

我を通す、我を張ることを止めて、
「謙虚な気持ちで私達も、求めさせて頂きましょう。