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糞車改革の困難--胡同トイレ物語⑨

辛亥革命後、京師警察庁が糞具の改革を呼びかけたことがあったが、業界の激しい反対に逢い、未遂に終わった。1918年、市政の公所が警察所とともに、イバラ蔓カゴにフタを命じる条例の可決を試みたが、またもや業界からの強い圧力を受け、実施が難航しているところに時局が変化し、政権が代わって再びうやむやに終わった。


悪評高かったイバラ蔓のぼたぼたカゴを廃止できたのは、実に1936年。当時の処理糞便事務所が、緑色の木の箱桶を製作した上、これを糞夫らに支給した時である。一輪車もほとんど安定性のある二輪車に変えた。カゴ一つの改革になんと30年の月日がかかっている。

ふたをつけましょう、というごく理にかなったことに思える提案に、なぜそこまで反対が強かったのか。おそらく経費を糞夫側に負担させようとしたことと社会的に蔑視されている彼らの反発心もある。普段は自分たちを「屎壳郎(シーコーラン、=フンコロガシ)」と陰口をたたいて忌み嫌っているくせに、へえそうかい、わしらに頼みごとがあるんかい、というわけだ。


しかし反対に遭って簡単に挫折してしまうのにも、3つの理由が考えられる。一つは糞業業界が暴力集団化しつつあり、命知らずの荒くれ集団を怒らせると、流血沙汰は避けられないため。2つ目には、糞取りという汚れ仕事をやりたい人はいくらでも代わりがいるわけではなく、彼らが一斉にストライキを起こした場合、すぐに代わりが見つかるというわけではないこと。


3つ目には、民国時代は群雄割拠の乱世。昨日は南方系軍閥が北伐に来たかと思えば、今日は東北軍閥がこれを追い出し、明日には日本軍が攻め入って政権を取ったかと思えば、今度は国民党がやってきた、という具合だ。糞具の改革を命じた当局が、次の日には政権もろとも夜逃げして影も形もなくなっていた、ということが日常的に起こる時代である。次第に命令される側も味をしめ、のらりくらりと時間を稼いでいるうちに、どうせこの政権だってまた夜逃げだい、とタカをくくるようになり、いうことを聞くもんじゃない。


   写真: 2003年。前門の南、楊竹梅胡同。胡同、老人のひなたぼっこ、鳥かごのアイテムをしつこく三連発。

   

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              写真: おしりに敷いた発泡スチロールが、かわいい


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糞の輸送--胡同トイレ物語⑧

民国時代になってから、居住制限がなくなり(旗人しか住めないという)、北京城内は空前の繁栄を経験する。人口の急激な増加に伴い、糞業も急成長を遂げ、糞夫を街かどで見かけることが多くなると、次第にその言動が人々の話題に上ることが増えた。


最も市民らを閉口させたのは、「あの糞車はどうにかならないか」ということである。


前述のとおり、糞夫らの標準スタイルは背負い桶に長い糞勺だが、これは個々の狭い路地に入ったり、四合院の中に入る際、移動に便利なようにするためであり、大通りには糞車を置き、桶の中身を入れて移動させていた。こくたまに車さえなく、背中に置けを背負ったまま城外の糞場まで運ぶ糞夫もいたが、その数はごくわずか、糞夫の中でも最下層にある人々のみである。

糞車は清代から変わらない一輪車の両側にイバラの蔓(つる)で編んだカゴをつるしたスタイル。蔓編みだから当然密封性はよろしくなく、蔓の間から糞尿がぽたぽたと落ちることになる。さらに伝統的にフタをつける習慣もなく、下からはぼたぼたこぼしまくり、上からは臭気を撒き散らすという極めて愉しくない移動物であった。


さらに一輪車のため、安定性が悪く、雨の日、厳寒の道が凍りつく冬の日、雪が降った日、少しでも足元がすべれば、かごの中身は道路に真っ逆さま。大事な飯の種なので、拾い集めることはもちろんだとしても、そうそうきれいにこそぎ取れるものでもなく、その残骸は何日も通行人に悪臭を散じ続けた。



城内の人通りが増え、並行的に糞車の通行の頻度も上がってくると、当然「どうにかしろ」という声が高くなってくる。


写真: トイレの話ながら、四合院の美しさに浸らん。2003年。東綿花胡同の石彫刻の美しい四合院。

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糞を背中に背負って--胡同トイレ物語⑦


商売道具は手に41.2m)余りの「糞勺」を持ち、背中に細長い桶を背負う。桶は長さ3尺(約1m、図参照)、直径1尺(約30cm)あり、中にはおおよそ80斤(約40kg)入れることができた。左肩に桶を背負い、右手に長い勺を持つのが、標準スタイルだ――。しかしこのスタイルは、桶の口が首と同じ高さになり、悪臭の直撃を受けるわ、少しでも足元がすべると、頭からもろに桶の中身をかぶるわ、という惨事が起きることになるため、ふさわしくないのでは、という議論がなされたことがあった。



天秤棒の両側に小さめの桶をかついではどうか、という提案が世論から出されたが、改革されることなく、最後までこのスタイルで終わった。



ひとつには、天秤棒は南方人の筋肉構造に適した道具であり、専門に発達した筋肉が必要だということがあるのではないか。アジアのどこかで、旅行中にでも天秤棒の両端に水を満タンにしたバケツを2つぶら下げ、運ぼうとした経験のある人ならわかるだろうが、素人が簡単に持ち上げれるものではない。腰におもりがぶら下がったが如く血液の鈍い充足感で骨盤あたりが熱湯で満たされる感覚を覚えるが、さらに力んでもおいそれとは持ち上がらない。



これと同様に北方人は天秤棒をうまく操作するスキルを持っていなかったことが考えられる。南方は船で移動することが多く、子供のころから下半身の筋肉が鍛えられ、安定感が強い。まさに「南船北馬」の俗語どおりだが、だからこそ天秤棒で桶の中身もこぼさず運ぶことができるのである。大人になってから初めて北方人が天秤棒を担いでも、そのための筋肉が発達していないために、そう簡単に安定感を出せるものではない。激しく揺らして、さらにあちこちに糞尿を撒き散らさずにはおられないだろう。加えて狭い路地を行き来するには、背負いスタイルの方がバランスがとりやすいのだと考えられる。


 図: 糞勺と糞桶

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