少し確認したいことがあって、昔の記事を確認していたら、ちょっとピン!とくる記事を見つけた!
なんていうか、今あたしは、心で感じることが、あまり強くなくて、自分のほんとのHeart Beatを探してる、みたいな、termに入ってる気がします。
(書いてみて思ったけど、別に『探してる』とかではなくって、本当はず~~~っとそこにあったし、『今』もあるけど、単に『聞こえてない』だけかも。)
なんか頭だけで動こうとするような、少~~し硬質?な感覚がする。
だからちょっと、自分が今、どこに向かおうとしているのか、もとい、向かいたいのかが、あまり反応、感じる感覚が強くなくて、わかりにくい感覚。
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そんな中で、2018年に書いてたこの↑記事が、すっごくいいヒントというか。
【自分の心の震える方向】について、ベクトルを当ててくれる気がして、リブログしました。
…少し、引用します。
何を『心地いい』と感じ、何に“心が踊って”
何に『好きだなぁ』って感じて、心が『ふわぁ〜〜』って,軽くなるのか.
(中略)
やる気恥ずかしさより、
やって自分のつくりたいものが出てこない悔しさの方がわたしは多い(………し,気になる)。
自分が、普段“何を感じてて、何を考えてるか”が、すごく出る.だから、“free style”が好き。すごい、“その人”が,見えるから.
“自由”さがないのが
本当に、ダメなんだと感じる(自分にとって)
“自分を表現”する、って
当たり前に溢れてて、もっと“日常”で、でも日本って、なんかすごく、“こういうのは、こう”っていう、“型”がすごくあって、見えない意識に、それぞれに、すごく暮らしてきた背景や、
その『集合(集団)』における、『常識(≒こうするのが当たり前、こういうのが当たり前)』が、滲んでる。一歩“(枠の)外”に出ると、
それって、全然『当たり前』じゃなくて、
特殊な事情、特殊な観念・感覚だったりするのに、
自分と違う人とは、あえて本質的に繋がろうとしない、みたいな
個性って、別に、
『奇抜』『奇をてらう』『他よりも派手(≒目立つ)』的な部分を、
いうんじゃなくてその、“ハートオープン”な『感覚』,『自分』としてそこにいて、
自分にも、他者にも世界にも、
“心を開いている感覚”、
(中略)
そういう、当たり前に“自分を生きて”たり、
“自分を生きようとしてる”人たち、
が好きなのかな.奇抜な、という意味でない
結果的に、『目立って』たり、個性が“際立って”たりは、するかもしれないけど。
当たり前に、『自分』として、そこにいる.
そんな感じのダンサーさんや、表現者の方たちが、『好き』なのかも、しれないです.
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…なんていうのか、「このころに戻りたい」とか「過去を参照したい」というのとは、違う気がする。
やっぱり『今』のEnergyとは違うから。
ただ、こういう時期に感じていた、正直さとか、表現への純粋さというか、
ものすごく、『本質』をみていた気がする。
(こっからさらに3年たって、今のダンスの先生のwsに初めて出たときに、『ダンスにはその人が全部出てる。踊りをみるだけで、僕はその人がどんな人かだいたいわかる』って言ってて、『本当にそれ』って感じた)
自分の言葉とか、感覚をみていったときに、いろんなレイヤーというか、層?みたいのがあるんだけど、
自分の感覚や感じたことに正直な瞬間って、ものすご~~~く、『本質』をついてる。
そして、『今』みると、それは
まさに『私の特性』だな、ってことや
わたしの『個性』や
自分にとっての『叶いやすい』特性だったりや
いろんなものをついてるな、って、すごく感じるの。
『今』めちゃくちゃ、ダンスがしたいかといえばそうではないし、舞台に立ちたい、とかでもない(とりあえず、今のところは)。
ただなんか、なんていうのか…なにか、求めてる『純度』みたいのが、ある気がしてるんだよね。
ハートオープンな時にだけ、つながれる「感覚」。
…ぶわっと溢れてくる『感覚』。
なんか、自分が自分でいられてる時の感覚。
…自分が、【これだ!!!】というLifeを生きたいのかな
自分でも、不思議だと思うけど、自分が当時、【難しい】と感じてたことは、その先の自分が、なんなく実現しちゃったりしてて、
おまけに、あんまりそれを実現した実感がないまま、『普通のこと』として、通り過ぎてたりして、なんかちょっと、自分でも意味がわからない
【わたしが本当に望んでいることってなんだろう】
【わたしが本当に生きたい人生ってなんだろう】
…そんな問いかけが、無意識に出続けてる。
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…本当に本当に、純度高く自分の『感覚』『好き』にまい進し続けている人たちがわたしは好きで、それはなんか、『特殊』なひかりというか、Energyを放っている気がする。
わたしの大好きな加茂谷真紀さんが、そういう『好き』という純度はものすごい力を放ってる、ということを教えてくれたとき、
『やっぱりそれでよかったんだ(あの感覚は間違えてなかったんだ)』っていう、不思議な確証がストッと来た。
真紀さんが、魂の大きさが体のサイズを飛び越えちゃってる人の話をしてくれた時、(※『好きを極めるws』)
わたしは以前、子供の頃に、『We are the World』で、レイ・チャールズがピアノを弾き語りして歌うのをみたときに、(当時、レイ・チャールズが何者かなんて知りもしないし、初見だったのに)、『この人とんでもない』『体から魂がはみ出しちゃってる、魂がとんでもなく大きくて』って、すっごく感じて、すごく大好きだったんだけど、
見るたびに涙が出てしまう、そのレイ・チャールズのEnergyを想った
『有名』だから、ということではなくて、街角にもとんでもないミュージシャンやダンサーがいたりするみたいに、(ミュージシャンは,最初の一音を鳴らした瞬間にもう「わかる」よね)
そのとんでもないEnergyに触れたいな~~って思ってきたし、叶ったものもある。
…それで、やっぱり自分が、その『好き』の純度で生きたいんだ、っていうか
自分、っていう『本質』で生きたい。『魂』のまんまで生きたい。
なんかもう、『言葉』にするのすら「違和感」がある気がして、先日のセッションで吉田ひろみさんが、
『Yukieさんは、わたしと似たタイプだと思うから、心がいっぱい震える(粒子がフルフルする)方に行けばいいよ』と言っていて、本当にそうだ、って思ったの。
自分のvibrationが震える方に素直に従ってきて、そうしたらとんでもない人に出会えたり、いろんなことを体験してきた。そこにあったのは、ただ自分の『震え』に対する正直さ、だった。
…誰も求めていなくても。
自分の心が震えたら、愛に行って、そのたびに見えない『扉』が開く。
自分に、本当に、『正直』に生きたとき、自分にしかわからないことだけど、『自分のためだけ』のチャンスの扉や、『経験』の扉が開く。
オーディションもそうやって経験してきたし、大好きな人と踊ったり、その【経験】から得るものの方が大きくて、
本当に本当に、そこから得難いものをいつも得てた。
自分が、本当に、本当に、心が震えるものがあった。
それに出会う旅、自分の運命が変わるの。
それを信じるのは自分だけだし、それが自分をどこに連れて行ってくれるかを、なんの目的も計算もなく、信頼しているのも【自分】だけ。
…だけどわたしは、自分の経験から、その【震え】だけが、正確に自分の行くべき(あえてべき、っていうけど)『未来』を指示してるのを知っている。
それが【指し示す】方角は、「飛び石」みたいに見えるけど、
一見根拠のないその【道】を、信頼して踏み出す時、まったく違った『人生』が、常識を超えて現れ出すのを知っている。
それが、本当に、それまで全くご縁のない世界だったり、まったく知らない人だったり、『なんでこんな人と出会うんだろう』みたいな情報やカルチャー、それまでの【世界線】になかったことだったり。
…うまく言えないけど
なんかわからんけど、その『飛び石』みたいのを勇気をもって飛び渡った時、『なんでそうなったのか』自分でも説明のつかないようなことが、『現れる』んだよな、って確信してる。
『宇宙は、ただの壁だった場所に扉を開くだろう』(by, ジョセフ・キャンベル)
本当にこれ。どう見てもさっきまで『扉』はなかったのに、なんでこの人とつながったんだろう、とか、通常だったら考えられない世界線の変化が起こる。
それを起こしてるのもわたしだし、その『魂の道―魂の震え―』みたいのに従ったときにおこる『ミラクル』を、わたしはもっと体験したいし、味わいたいし、観てみたい。
…だって、それが『自分』なんだもの。バシャールが言うみたいに、
その『震え』そのものが、『わたし』なんだもん。
それを知ってるんだもの。ず~~~~~っと、『知ってる』んだもん。
『自分』を生きるから、『自分』を辿るから、「理屈」じゃない『自分』を生きるから、
だからそのスケールの自分が姿を現すんであって、
いつも、映画『インディ・ジョーンズ―最後の聖戦』の、道がないのに空中に踏み出したインディを想うよ。まさにあれだな、って(タロットカードの『愚者』だよね)
あれって、「本当」だな、って感じるの
…もちろん、いつもいつも、そんな『リスク』をとれ、って話じゃなくても、
自分が本当にいきたい道が現れた時、それが『チャレンジ』だったとき、一見なんの関係もなかったのに、なんでか「これやんなきゃ」とか直観で感じた時。『宇宙』はそこに、見えない『扉』を開く。
そこになんの計算も結果の期待もないとき、最善のことが、そこには起きる。
…わたしたちは、正確に自分の『波動』を知ってるし、その『道』を辿る方法も知ってる。
他の人の中にはない。
ただ、自分の中だけ。…なんでこんな話になったのかわからないけど(想定外)
本当に、わたしたちが知っているのは、自分の真実。
そしてそれは、『本当に、間違えていない』ということ。