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 新任の頃の先輩でN先生という方がいた。

 その頃まだ、若さと勢いだけの教え方をしていた僕にとって、N先生は授業においても生徒との触れ合い方においても、常に僕の目標であり、よきアドバイザーだった。

 中学一・二年と一緒に担任をやってきたが、あいにく三年生をやらずに小学校に転勤されてしまった。

 しかしそれからも電話や年賀状などでつきあいは続けさせてもらってきた。


 その先生が「癌」だと知ったのは、卒業生からの電話でだった。

 半年前の年賀状では元気そうだったのに、と驚きながら、今、僕にできることは何だろうと必死に考えてみたが、結局何も思いつかなかった・・・。

 それからしばらくして、思いがけずN先生から電話をいただいた。

 比較的元気そうなその声に、僕は少し安心をして、ぜひお見舞いをしたいと、翌週、N先生のお宅におじゃますることになった。

 

 当日、直前に電話した先生の声はいつもと変わりなく元気そうだったので、以前と同じ姿を想像していた僕は、会ってみてその変わりように驚いた。

 頬はこけ体はガリガリに痩せ、頭には野球帽をかぶっていた。薬のせいで毛が抜けてしまっているということだった。

 

 それでも久しぶりに会えたことに笑顔を見せ、家に招き入れてくれた。

 庭では小学生になる女の子と男の子が仲良くボールで遊んでいた…。


 N先生の話では、癌がわかったのは八ケ月前。

 小さなしこりを体の一部に感じ二日後の検査で癌だと判明した。

 すぐ摘出手術をしたが、その後の検査で別の場所に転移しているのを発見。

 今度のは手術できない場所にあり、これがわかったとき、N先生は死を覚悟したという。

 

 遺書を書き、奥さんと二人の幼い子供たちの身のふり方を懸念し、身辺整理もした。

 その間の心の苦しみは想像以上のものだったろう。自分が死ぬことの恐ろしさと悲しみと、同時にあとに残された者の悲しみと苦しみをも背負い、やはり生への執着をあきらめきれるものではなかったとも言われた。

 

 治療は投薬で行なわれ点滴を繰り返したがこれが強い薬で、30分ごとに嘔吐を引き起こしたり毛が抜けてしまったりの副作用を持っており、毎日投薬時間が迫ってくるとそれだけで吐いてしまうほど、まさに投薬治療中は死ぬほどの苦しみだったという。

 痛みは違うけれど、その間の奥さんの苦しみも相当なもので、もうすでにその頃涙は枯れ切ってしまっていたそうだ。

 会った時は検査の結果を来週にひかえた不安ではあるが少し安定した時期だそうで、疲れやすいので激しい仕事はできないが、庭の畑に手を入れながら徐々に体を慣らしてるということだった。


 その後、今度はN先生を僕の新築の家へ招待する機会を得た。

 先回の検査では癌の黒い影はまだあるが進行は止まっているらしいということで、少し前から仕事に復帰したということ。


「不安はまだまだあるけれど心配してもしかたないことだから、今は力いっぱいやれることをやるだけさ!」

 現在、もとの職場で小学6年生の子供たちに囲まれ楽しくやっているという。校長先生が身体を心配して授業は半分でいいと言ってくれたらしいが、それを断わりフルタイムで働いているそうだ。

 

 先生は言っていた。
「健康って一言で言うけど、本当にすばらしいことだぞ」
 

 またこうも言っていた。
「一度きりの人生を力いっぱい生きたいなあ」


 死に一度直面し、それを一時は受け入れ、そして乗り越えたN先生の顔は、僕には、前よりいっそうやさしく輝いて見えた。<終>

 

 N先生は、現在も元気に暮らしておられます。本帰国したら、久しぶりにお会いしてまた元気をいただきたいなと思っております。

 

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