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 あれは忘れもしない小学4年の12月2日夜、とても寒い日だった。


 その日父は残業で遅く、私は母と一つ年下の弟と一緒に遊んでいた。何の遊びだか忘れたがとても楽しかったのを覚えている。

 途中で私は風呂の湯をわかす仕事を言いつかい、水を入れガスのスイッチを入れた。そしてまた遊びに熱中しそのまま風呂のことを忘れてしまった。

 思い出したときは遅く、沸き過ぎで手も入れられないほどの熱湯になっていた。しかしもうすでに入るために裸になってしまっていた私は、水を入れながら待つ間、寒いので風呂のフタを閉めその上に寝転がっていた。


 その時それは起こった。少しずれていたフタが私が動いたひょうしに落ちたのだ。
 当然上にいた私も落ちた。


「あつっっ!」


 とっさに左足で底を蹴り跳び出したが、全身に焼けるような痛みを感じ、大声で泣き声をあげた。泣きながら自分の体を見ると、右手と右足、頭以外の全身の皮がズルッとむけて皮が下に垂れている。直径10㎝以上の水ぶくれも所々にできていた。


 泣き声に驚きすぐに母が駈けつけてきた。
 

「・・・・!!」


 声にならない叫び声をあげながらも、母はすぐに冷たい水をかけ始めた。何杯も何杯も。その勢いに水ぶくれはつぶれ、皮がズルリと下に垂れた。今まで感じたことのない痛みの大きさにふらつきながらも、その痛みのために気を失うこともできず、私はただただ母のされるままになっていた。

 母は泣きながら水をかけた後、浴衣に私を包み、すぐに近所のおじさんを呼びにいった。おじさんの車に乗せられながら、私はようやく気を失ったようだった。耳元での母の

「ごめんねごめんね」という言葉を聞きながら‥‥。

 気がついたのは病院の治療室だった。看護婦さんが
「こりゃひどい。すぐに手術です」
と言うのを聞きながら、私はまた気を失った。

 人間は身体の3分の1を火傷すると死に至るという。私は3分の2を火傷した。助かったのは奇跡だそうだ。すぐに水をかけたことがその奇跡を起こしたという。現在は腕に2ヶ所あとが残っているが体はほとんどわからなくなっている。それらも全てはあの水かけのおかげだ。あのとき泣きながら何杯も何杯も水をかけてくれた母。私以上に子供の焼けただれた姿に驚きながらもかけてくれた水が、私を救ってくれたのだ。

 

 だが、毎日の治療は地獄のようだった。

 朝10時のガーゼ交換の時間が来ると自然と体がふるえ泣けてきた。一日たって、全身にピッタリくっついてしまっているガーゼをビリッとはがし、血がにじむ皮膚にまた薬のついたガーゼを張り付けるのだ。10才の子供には恐怖の時間だった。点滴は足から常時入れていたし、火傷していない右腕にも太い注射を何本も打たれ続けた。

 しかしその治療のおかげで、その後一ヶ月もたたずに退院でき、正月は家で過ごすことができた。

 ところが冬休みが終わる頃に風邪をひき、少し寝込んでしまった。風邪はたいしたことがなかったが、直りかけてきた頃に顔がむくんできた。おたふく風邪は終わっているはずなのにどうもおかしい。

 医者に行くとこう言われた。
「お母さん、すぐに入院ですので、家から着替えの服を持ってきてください」

 急性腎炎―ということだった。
 死ぬほどの火傷を負ったため、外傷は治ったが身体が弱っていて併発したらしい。

 今度は外科病棟でなく内科病棟での長い治療が始まった。外科なら直る様子が日に日にわかるのだが内科はそれもわからない。退屈な毎日だった。安静と食事療法という、小学4年の遊び盛りにはとてもきつい治療であった。
 それでも3月になって快方に向かい、いよいよ明日退院だというとき、前の週に行なった検査の結果が出た。


 急性肝炎―今度はそう言われた。
 また前にもまして長く退屈な時間が始まった。退院のめどはつかない。火傷のときからずっと付き添ってくれていた母は昼間はつとめて明るく振舞っていたが、夜になると隣の付き添い用のベッドで声をころして泣いていた。6人部屋だったのでその泣き声は部屋に響き恥ずかしかったが、しかしそれ以上に心配をかけていることがすまなくて幼心に胸が痛んだ。

 結局5月にやっと退院でき、体育や林間学校は欠席したものの、あとはじょじょに普通の生活に戻れ、一年もすると健康そのものになった。もちろんそれを一番喜んだのは母であった。

 今思うとすごく貴重な体験をした。あの半年間の病院生活で出会った人たちとのふれあいやそこで得た知識は何にもかえがたいものであった。
 そしてなにより、私の命を救い、その後も毎日看病し続けてくれた母の愛を間近に感じながらの日々があったからこそ、今の私があるのだと思っている。