道徳は題材によるところが大きい。道徳の授業だけでなく、朝の会や給食時の会話でだって道徳について考えさせる場面は生める。まさしく「議論する道徳」教材が、そこらじゅうに転がっているからだ。
先週、アカデミー賞の授賞式での一コマ。
僕の大好きなウィル・スミスが、奥さんの病気の症状を侮辱した司会者に対して手をあげた。その場面は衝撃的だった。最初、親しさからジョークをしたんだと思ったら、そうじゃなかった。
これへの反応は、アメリカと日本では大きく分かれたようだ。
アメリカではウィルの行動への非難が強く、彼は泣いて謝罪をし、後に責任を取ってアカデミーを退会した。
日本では、ウィルの行動に寄り添う意見のが多いようだ。
以前も書いたが、僕は道徳で、“正解を考える”というより、“いろいろな立場の人に共感をしながら自らの答えを模索していく子ども”をつくりたいと思ってる。
だから、こういう事件は、全て道徳教材となりうる。そこで気を付けなければならないのは、まず教師自身が両方の立場に寄り添う考え方ができるかが大前提だ。
授業では、二つの立場に分かれて議論をするというのもいいだろう。順にそれぞれの立場になって考えを出し合うのもいいだろう。
とにかく、子どもたちが、他の人の意見(特に自分が気が付かなかった視点からの意見)にしっかりと耳を傾け、最初に感じた自分の気持ちをさらに深く見つめなおすという作業ができればいい。
いわゆる「価値意識を更新」させられるかが大事なのだ。
※もちろん、教材化するにあたって教師は、この詳しい状況やウィルの奥さんの病状と当時の表情(気持ち)、そして会場の聴衆の様子など、資料作りをしっかりとしておかなくてはいけない。要は教材研究である。
他にも身近なところに題材はいっぱいある。
スーパーに行くといろいろ考えさせられる場面に遭遇する。
子供を靴のままカートに乗せている母親、身障者用駐車スペースに駐車する人など見かけるが、これをそのまま提示したら、全員が「それはいけないこと」で終わってしまうので、ここに一工夫入れてやるのだ。
子供の靴をしっかりと拭いてからカートに乗せている・・・とか、他の駐車スペースがすべていっぱいでどこも空いていないのに、身障者用スペースだけが5台分全て空いている・・・とか、子どもたちに迷いを生じさせる要素を加えてやることにより、それは立派な題材へと変身する。
<以下へつづく>