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 大学を出てから38年間、教師一筋で勤め上げてきた。

 それだけ聞くと、まじめなお話になりそうだが、実は、大学を出てからは教職だけだが、学生時代には少し変わったアルバイトをいろいろ経験してきた。これらの経験が、教師としての僕の下地をつくった?とも思っている。今回は、そんなお話。

 普通の方は、バイトというと、コンビニかファーストフード店が多いんじゃないかな? 僕はそれらはやったことがない。どうせやるなら変わったことをやりたいと考えていたからだ。


 僕のはじめてのバイトは「年賀状配達」。高校時代はもちろんバイト禁止だったが、一度だけ体験した。バイクの免許を取ったばかりでそれを使いたいという気持ちからだった。

 大学時代は、教育大学ってこともあり、基本は「家庭教師」を生業(なりわい)としていた。やはりこれが一番収入がいいし、自分の得意分野でもある。

 当時の大学の友人は、音楽科70名のうち7名が男で、変わった人が多く、うち2名がときどき臨時のバイトの話を持ってきた。

 これにより、僕の見分は大いに広がったのだった。

 まず、友人H君に何度か連れられて行ったバイト。
 お祭りやイベントの際の「的屋(てきや)

 ハッピを着て金魚すくいヨーヨー釣り綿菓子づくり射的、ひもを引っ張る千本釣りなど、毎回、様々なものをやらせてもらった。


 次にデパートの屋上などのイベントで行う「ウルトラマンと怪獣のショー」

 僕はウルトラマン希望だったが、ヒーローは背が高くないとかっこつかないと言われ、僕はいつも怪獣役。やられた時の転がり方がうまいとほめられ、けっこう転がり方を研究したこともある。ただ、着ぐるみの中は暑くて臭いのが玉にキズ。2度目の出番に、もう一度着るときの苦しみといったら…。


 「交通量調査」もやった。交差点でどちら向きの車が何台通るか、手に持ったカウンターでひたすらカウントし続けるやつ。二人一組で行い、1時間ごとに交代するのだが、同じことをし続けるのが苦手な僕には、これはとても苦しい仕事だった。

 友人Ⅰ君は、音楽科なのに筋肉自慢。彼の得意のバイトは力仕事の「土方」。暇があるといろいろな地域の道路を作っていた。そのバイトにも何度か、同行させてもらった。


 早朝、親方の家に集合し、そこからワゴンで現場へ。夏の暑い日差しの中、ツルハシやシャベルで道路を掘ったりアスファルトを引いたりする仕事はさすがにきつかったが、その中でも一番印象深く、今思い出しても身震いするほどの恐怖体験が“マンホール掃除”だった。
 先輩に「暑い日射しを浴びずに済むぞ」と言われて命じられ、初めて入るマンホールにちょっとワクワクしながら穴を降りていくと…。
 外の明るさと比べて、中はすぐに真っ暗になった。しかし、降りるにしたがって、それは真っ暗なのではなく“真っ黒”だということに気が付いた

 なんと、マンホールの縦穴の壁面にぎっしりと“G”が密集しているのである。気が付いた時はすでに遅く、先輩が上から掃除道具をどんどん降ろしてきて、引き返すことができなかった。
「ちょ、ちょっと、先輩。Gが…Gが…!」と叫んでみたが、案の定、先輩は動じずに、
「いるに決まっとるだろ!」と無情な声。その手を止めてはくれなかった。
 でもさすが先輩、Gにはいっさい触れずに掃除道具を渡す手さばきは熟練の技?だった…。
 そこからの時間は苦痛以外の何ものでもなかったが、マンホール内の記憶だけはなぜかすっぽり抜けている。どうやって掃除をしてどうやって縦穴を登ってきたかも全く覚えがない。

(僕の人格保護のため、脳が勝手に消去したようだ?)

 また、Ⅰ君とは、卒業旅行の費用を貯めようと、夏休みに40日間だけ、工場の夜勤のバイトを一緒にした。夜勤だけあって日当はよく、土方が一日働いて5000円だったのが、こちらは9000円だった。夜10時から朝まで、主に金属の焼付作業で、Ⅰ君は黙々とこなしていたが、僕にはきつくて仕方のない仕事だった。ひたすら単純作業の繰り返しだったし、家庭教師をこなしてからの仕事だったのですぐ眠くなるのだ。
 あるとき、ついうとうとして、焼付の終わった金属の棒を交換するのが遅れた。しかし、機械は自動で動き始め、大きな音と火花を出して機械は動かなくなってしまった。寝ていたとは言えないので、「取り出そうとしたらちょっとひっかかって…」とごまかしてしまった。周りの本職の方たちは、怒りもせずすぐに処理をしてくれたが、「修理に10万円はかかるなあ」とぼやいているのを聞いて、もう絶対に寝ないぞと一人誓ったのだった。

 その後、伝票計算の事務仕事に回され、これは得意分野だったので先ほどの失敗のお詫びにすごい勢いでがんばったら、「2日分の仕事をしてくれたね」とほめられた。複雑な気持ちであった。

 大学4年生の時、まだメジャーではなかったビデオカメラに興味を持ち、新聞に載っていた結婚式のビデオ撮影カメラマン募集の記事を見て、都市部の撮影会社を訪ねた。
 その会社でビデオカメラとビデオデッキを買って、その機材を使って撮影指導をしてくれ、研修期間を終えた後は、結婚式のビデオ撮影の仕事をくれるという。
 当時のビデオは、VHSを直接入れたデッキを肩に担ぎ、そのデッキにコードをつないだカメラで撮るというもの。カメラも現在のテレビ局が使うような、どでかいタイプだった。それぞれが20万円超で、揃えると45万円した(それ以外に撮影指導料が20万円かかった)。

 撮影技術だけではなく、テロップ入れやBGM編集も教えてくれ、2か月ほどたつと、先輩の撮影について行ってコード持ちを経験。10~20mのコードを先輩やお客がつまずかないよう束ねたり寄せたりしながら、先輩の撮り方や立ち位置を直に学ぶことができた。時には、花嫁の自宅を近所の人たちに祝福されながら出発するところから撮ったりもした。

 無給ではあるがここでいろいろなことを学び、さらに2ヶ月ほどたつと、一人で仕事を任されるまでになった。
 最初のタイトル入れから撮影、編集、BGM入れとすべて一人でこなし、会社には“作品”としてVHSテープを納品。会社はそれにケース包装を施し10万円で契約者へ。僕らには3万円弱が報酬として入る。そうやって、なんとか出資分を取り返すだけの仕事はこなすことができた。
 教師として働き始めてからは、これらの技術はとても役に立った。

 最後に、日本人学校に派遣されていたときのタイ語学校での日本語教師ってのもあるのだが、これは公務員としてはあまり公言できない行為なので、ここでは割愛する。あしからず。(→参照:ここをクリック)

 以上のどのバイト体験からも、僕が得たものは大きかった。

 土方の親方の道路を平らに仕上げるプロ意識と技術、夜勤で働くおじさんたちの単調な仕事を完ぺきにこなす集中力。

 これらは僕の仕事への見方をかなり変えた。

 結婚式の感動を、さらに編集で本番以上の感動に再現することは、音楽教師としてのその後に少なからず影響している。(Gの話も、何度、授業で披露してきたことか…。)


 これらのアルバイトでは、貴重な経験をずいぶんさせてもらったし、教師として大切な“幅広い価値観”の形成に役立ったように思う。