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 現在、外国人子弟の入学が増えるに従い、各地で日本語適応クラスが増えてきている。僕の以前の勤務校もその例外ではなく、100人以上の外国人児童を抱えており、日本語適応指導については今までいろいろ考える機会があった。

 その中で、一番疑問に感じているのが、その指導法(指導形態)であった。

 

 日本語適応指導の専任教師は、取り出し指導を主とし、1人ずつ指導することが多かったが、その「家庭教師的」指導に疑問を感じ、僕が教務主任だったころは、取り出しはなるべく複数で取り出し(時間割調整がすごくたいへんではあるが)、グループでの指導をお願いしていた。

 学校という場は、家庭教師や塾とは違い、知識の詰め込みだけが目的ではなく、集団の中での人とのかかわりにおいて知識とともに様々な生きる力を得るところである。日本語適応だからといって、学校現場がその目的を変えるべきではない・・・と思っていたからだ。

 

 ところが、市での日適研修でその私見を述べると、市教委指導主事が教育課長もいる場で、「1対1の家庭教師でよい」と言い切られた。

 それ以来、僕は、学校現場における日本語適応指導というものがよくわからなくなってしまった。


 そりゃ僕だって、集団相手より個人相手のがずっと指導は楽である。集団を動かすには一つ二つの手だてではどうにもならないからいろいろ工夫をしなくてないけないが、目の前のたった一人の子に合わせてなら手だての数はその十分の一もいらない。

 でも、特に語学習得では、教師から学ぶより友達から学ぶことの方がずっと多いし、教師が日頃大切にして日々研鑽しているのってまさしくそこだろうって思っていたのだが・・・。

 その後、日本語適応指導がわからなくなっていたところ、ある研修会で、講師の先生がまさしくそこに触れられた。

「教師との1対1の対話でももちろん学べますが、1対多でのグループ活動で学びとるものにはとうていかないません。ぜひ学校現場では、グループレッスンで行うように。」

と言われたのだ。(あの指導主事に聞かせてやりたかったなあ。)

 その講師は、実際に多くの外国人児童生徒への指導に携わっており、その方法で実績もあげられておられる方。3ヶ月240時間で、文字に関して言えば、ひらがなカタカナはもちろん、漢字も2年生の6~7割まで教えてしまうそうだ。その方法は、実に明快でよく練られたものであった。

 たとえば、学校教師は、会話もままならない子にまずひらがなを書いて覚えさせようとしがちだが、講師はこう教えてくださった。
 「書く」のは一番最後。まずは「①聞く→リピート」。だから教師は授業では余分なことを話さずシンプルに短く。それから「②話す」。覚える単語は、生活に使うものから、が基本。いい×ダメ、ある×ない、いる×いらない、出す×入れる、トイレ行きたいどこ?、鉛筆消しゴムなど文具名から。 

 確かに、これなら子どもも真剣に学んでいくにちがいない。すぐに使える、いや、いつも使いたいと思っているものばかりなのだから。


 かって、僕がバンコク日本人学校派遣の際、現地のタイ語学校へ通ったが(タイ文部省による現地語習得必須の指示があったため)、語学の苦手な僕がどうやってそのモチベーションを維持したか? 実は毎回、タイ語学校でその日学んだ単語やセンテンスを、そのまま夜の街に使いに出かけたのだ。帰りは毎度深夜・・・。こうして2年目には、僕はそのタイ語学校で、日本語講師としてタイ人生徒に教える側になっていた。これこそが語学獲得の秘訣であろう。(えっ、教師は副業禁止って?いやいやこれはタイ語研修です!)
 

 そして、「話す」を終えてようやく「③文字」、そして「④読む」に入る。「読む」のも音読と読解は大きく異なり、読解では黙読を提唱。最後に「⑤書く」が来るとのこと。

 じつに理にかなった指導法であり、はじめボーッと受講していた僕が、いつの間にかメモをとっていた。
 もう一つ、大きく共感したのは、日本語適応指導での一番の目的とは、その子のアイデンティティの確立だってこと。要は母クラスの中で認められ、居場所を見いだし、存在に自信を持たせてやること。それこそがやる気→生きる力に通ずる。

 これこそが「学校教育」の真の姿だと感じたのだった。

 日本語適応指導に直接かかわることのない先生も多いだろうが、この話の中には、日頃の指導法を見直すいろいろな指標が含まれているように思う。特に、低学年時の言語獲得など、さらに指導法を工夫していきたいものだ。