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 となりの中学校の2年生道徳の研究授業を参観した。

 中3の教科書に載っている題材を手直しし、生徒がより身近に感じられるように工夫してあった。道徳は題材で半分以上が決まると言ってもよいので、その点だけでもためになった。

 学級経営に大きくかかわる内容であったし、クラス内の障害を持った友達とどう行事に取り組んでいくかという、子どもの立場でも通常出逢い克服すべき場面設定だったので、展開が楽しみだった。

 まず、簡単なあらすじ。

◆ 2年1組は、運動会の学年種目「大なわとび」で1位をめざし練習していたが、勉強や運動面で支援を必要とする矢部ちゃんは、練習でいつもひっかかってしまう。そこで矢部ちゃんには応援係をしてもらうことに。ところが運動会前日、「矢部ちゃんをはずして跳ぶのは、やっぱりいやです」とクラスの一部から声があがった。放課後の教室で、長い話し合いが始まった。◆


 

 研究授業の題材としては、ここまでの提示で、その先は生徒に考えさせるよう工夫してあった。授業では、まず自分の立ち位置(一緒に跳ぶのか応援係にさせるのか)をはっきりさせ、考えを述べ合った。生徒はもちろんほとんどが「一緒に跳ぶ」を選び、はっきり「応援係」と言った子が1人、迷いつつもやっぱり「応援係」にした子が4人であった。

 残念ながら、教材研究がまだ浅く、授業の展開自体はありふれたものではあったが、それでも中学生のまっすぐな気持ちやいい形で悩む姿は新鮮であったし、生徒にとって有意義な授業であったと思う。

 

 協議会では、しゃべりすぎる癖がある僕は、その後の会では発言を控えようと思っていたが、びっくりするほど浅い話し合い(生徒と同じレベル)で終わりそうだったので、やはり手を挙げてしまった。

 まず、おこがましいとは思ったが、担任が初めに生徒に聞いたように協議会出席者の立ち位置を聞いてみた(本当は初めに司会がこれをやっておくと、もっと協議会が盛り上がったと思う)


 <これを読んでいるあなた自身、どちら側かをまず考えてみてから、この後の文を読んでみてください。つまり、意地悪な言い方をすれば、「一人のためにみんなを我慢させる」のか、それとも、「一人を切り捨て他のみんなでがんばる」のか、ってことです。>
    
 結果は、僕の予想と違って、4対6で後者の応援係の方が多かったのには驚いた。実際に集団を率いる先生方は、一人のためにというよりクラスの勝ちを優先させる考えが多いということ?(ある意味たのもしいですね。)

 しかし、そもそもこの問題は、二者択一しか解決策はないのだろうか?

 僕は、ひねくれ者なので、あえて人と違う答えを探したいと思っている。

今の時代は、決められたことに従う児童生徒が多く(教師もそう?)、先生が二者択一と言ったら、そこでしか考えられなくなっている。でも、実際の現場の状況はいろいろであり、その都度いろいろな選択を迫られる。

 僕は、授業の中で立ち位置を迷った4人こそが、この問題の突破口だと思っている。二者択一で選ばせつつも、本当にいい形を迷わせて探させていくことが、まさに生きた道徳授業のあり方ではないか。

 さらに、僕らは(世の中全般は)現在、障害者にはいろいろな優遇措置を講じている。けっして彼らに無理はさせない、させてはいけない風潮がある。矢部ちゃんも「縄に引っかかるのでやらせない、もしくは無理をさせない」のが前提なのである。

 でも、それでいいのだろうか?

 

 負けるために一緒に跳んではたして真の団結ができるのだろうか?

 矢部ちゃんも含めて一緒に跳んでなぜ「勝ち」にいかないのか?

 勝ちたい思いと矢部ちゃんへの思いは決して対局ではないはずなのに、初めから対局と考えているのだ。

 

 これこそが「差別」なのではないか?

 

 個のために全体があきらめるのは団結ではない

 みんなが矢部ちゃんに歩み寄るように矢部ちゃんにもできるだけの歩み寄り(努力)をさせる(もちろんみんなは全力で矢部ちゃんシフトを敷く)

 その努力を互いに感じる中で、初めて互いを真の仲間と感じられるのではないか。

 残念ながらこのクラスは前日まで問題を先延ばしにしていたのであり、担任もあきらめていたのである。

 初めにも述べたように、道徳はまず題材で決まる。目の前の子どもたちに今何を学ばせたいのか、よく吟味したいね。

 

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