2024年6月 長野県北地域の三大修験道場を巡ってきました。
その③-2 戸隠神社奥社・九頭龍社 です。
戸隠神社の五社のうち、一番北にあるのが奥社と九頭龍社です。参道の入り口の駐車場は、他の三社と違って有料です。駐車場から砂利道を下ると参道に出ます。
石橋を渡ってとりいをくぐると、すぐ左側の奥の方に石祠がありました。
再び参道に戻り、両側の細い水路からの水音を聞きながら歩いていきます。
参道の周囲は、はじめは広葉樹林でしたが、鳥居から10分ちょっとで杉並木になります。
15分程歩くと随神門が見えてきました。
随神門は茅葺屋根に草が生い茂っていました。
随神門の先も参道がまっすぐ続いていますが、道幅は半分くらいになり、両側の杉もだいぶ太くなりました。
随神門の先の参道の左側には低い石垣が残っています。その奥はかつて奥社の院坊がありましたが、今は石垣の上に土塀が建っていたんだろうなあ、と想像することができる程度です。明治の神仏分離令で、ここにあった院坊は中社や宝光社に移りました。
参道の右側には根っこが露出した杉の巨木が多く見られます。注連縄の巻かれた杉には大きなウロがありますが、中には石仏も御幣もありませんでした。
随神門から5分程行った左側に、法燈国師母公宝篋印塔入口の案内がありました。
参道の反対側に宝篋印塔がありましたが、これのことではありません。
宝篋印塔入口の少し先にトイレがあり、その向かいの広い所にベンチが一つだけポツンとありました。
トイレの先は参道は更に細くなり、坂が急になります。
トイレから5分程坂道を上ると、石段が始まります。少し先の左側に鳥居が見えますが、帰りに寄ることにします。
鳥居を過ぎると注連縄の巻かれた杉がありました。
石段を5分程上ると、直角に左折します。上の方に建物が見えてきました。
右に下りる階段があり、大きな水音が聞こえてきます。
階段を下りると小さな滝があり、注連縄が張られていました。
参道に戻って少し上ると道が二手に分かれます。左に登ると社務所なので、正面の石段を上ります。
石段の先に手水舎がありました。
手水舎から左に行く石段の両脇に狛犬がいました。台座には明治3年と刻まれていました。
狛犬の間を上ると左に九頭龍社があります。社殿内部は撮影禁止です。
九頭龍社の横から右上に渡り廊は延び、上に小さな社殿が見えました。
九頭龍社の前のベンチで一休みして、更に石段を上ります。
石段の途中右側に砂利敷きの平場があります。玉垣の奥には基壇がありますが、社殿はありません。
石段の上の鳥居の先には2棟の社殿があります。
奥社のコンクリート製の社殿にお参りします。
奥社の左の木造の社殿の中には酒樽が納められ、戸隠大神の扁額が掛けられ、天鈿女命が舞う絵の描かれた額が置かれていました。
奥社の右奥にも小さな滝がありました。
社務所の方へ行ってみます。
社務所の前からは5年前に登った戸隠山が見えました。
奥社から石段を下っていきます。途中右に行く階段がありました。行ってみると小さな石仏が安置されていました。
ずっと下って、石段の登り口近くの鳥居まで来ました。
少し傾いて上りにくい石段の上に飯縄神社があります。掃除中でしたが中をのぞくことはできました。小さなお社が納められています。
宝篋印塔入口まで下ってきました。せっかくなので行ってみることにします。
森の奥へ続く道を行くと、小さな沢があります。周囲の地面は湿っているので、足を置く場所を選びながら渡っていきます。
枝が一回転している杉の右下を行きます。いい感じです。
倒木を乗り越えていきます。
倒木の先で、急に辺りが広くなり、奥に宝篋印塔がありました。
宝篋印塔入口の標柱には「法燈国師(1207~1298)は信濃国筑摩郡神林村に生まれ、19歳で出家し東大寺で受戒した後に宋に渡り、無門の法を嗣ぎ、帰国して由良興国寺に住持し、母を招いて孝養し、母の没後32年間裸足で墓参し、92歳で没した」と書かれています。
国師の母は神林村からこの地にあった観音様に詣でて国師を授かったと伝えられている。観音堂跡に昭和9年に奥田正造師が法華経一巻の写経石を埋めて塔を建てた。」と書かれています。
由良興国寺は源実朝の菩提を弔うために創建された臨済宗の寺院で、紀州藩主浅野幸長によって再建された伽藍が今も残っています。
いくつもの宝篋印塔の後ろにある巨木が聖地感を出しています。
再び参道に戻ってきました。
随神門をくぐって、まっすぐ駐車場に戻ります。
【北信の三大修験 ③-3:戸隠神社中社】パワースポットを巡る夫婦旅 に続く・・・