2024年5月14日 埼玉北部を拠点に活躍した平安末期の武士たちの史跡を巡ってきました。
その③ 慈光寺 です。
源氏ゆかりの地に寄ってから、元々の目的地の都幾山一乗法華院慈光寺(天台宗)にやってきました。飛鳥時代に創建された慈光寺は、畠山重忠の叔父や息子が別当職を務めるなど、畠山一族と深い繋がりがある寺で、源頼朝に奥州藤原氏征討の際には祈願寺にもなりました。
県道から分かれて坂道を上ってくると、右側にお堂があります。
開山宝塔と書かれた額の掛かるお堂は、開山塔を守る為の覆堂でした。
覆堂の周りは柵で囲まれ、開山塔は近くから見られないので、あるなあ、くらいしかわかりません。
開山塔の向かいは、道路の向かいが急斜面になっているので、奥武蔵の山並みを望むことができます。
開山塔の横は一段高い平場になっています。40年程前まで釈迦堂や蔵王堂があった所です。
釈迦堂跡の隣は更に高くなっていて、鐘楼があります。
鎌倉時代の銅鐘がありますが、撞くことはできません。
そのまま坂道を行くとすぐ右側に駐車場があります。売店はもうやっていませんが、綺麗な水洗トイレがあります。
まずは本坊の方に、駐車場から細道を歩いていきます。
左側の石段の上に山門が見えました。鐘楼から石段を上ってくるとここで合流します。モミジも葉が上空を覆っていて、秋にはもっと美しい光景が見られそうです。
慈悲と書かれた額の掛かる四脚門をくぐります。
門のすぐ先に本堂があります。大棟をよく見ると源氏の家紋である笹竜胆がついていました。
本堂の前を左に行くと、観音堂へ続く石段があります。
石段の途中に般若心経堂があります。
般若心経堂の手前には、御幣を肩に乗せたお猿さんがいました。慈光寺は天台宗寺院ですが、天台宗=日吉神社=猿、という訳ではないようです。
般若心経堂の内部には法華経や妙法蓮華経の陶器製の写しなどが展示されていました。
般若心経堂から更に石段を上っていきます。
石段を上ると観音堂の重厚な造りが目に入ってきます。
柱だけで壁のない外陣は、春に行った小野町の満福寺(福島県)の観音堂と同じ造りで、外陣まで土足で上がれます。
向拝に唐破風が大きく迫り出して、どっしりとした印象を与えています。
壁と軒裏の垂木の間に軒天がありました。彫刻が施され、かつては彩色されていたようです。
観音堂の後ろ側には急な階がありました。
向拝には大悲閣と書かれた額が掛けられていました。
大悲閣の額の左右の欄間には七福神のような彫刻がありました。これが二十八部衆でしょうか。
外陣の天井からは白馬が吊り下げられていました。左甚五郎が彫った馬が、夜になると付近の畑を荒らしまわる為、住民たちが捕まえて観音堂に納めたという伝説があります。
格天井には絵が描いてあったようです。
内陣の欄間には風神と雷神が彫られています。
内陣の中央には千手観音像の写真が貼られていました。この写真が前立ち仏ということでしょうか。奥の厨子に納められている千手観音像は畠山重忠の念持仏で、重忠の身長と同じ高さに造られていると言われています。
内陣の左側には十一面観音立像があります。厨子が少し小さ目で観音様が窮屈そうな感じに見えます。
右側は獅子に乗った文殊菩薩でしょうか。
観音堂の正面の石段を下ります。
正面の石段は本堂から来る石段とは違って、かなり急で手摺りは欠かせません。
一旦駐車場に戻って、車で霊山院に行ってみます。
坂道のカーブをいくつか曲がった先の両側に、拈華山ねんげさん霊山院(臨済宗妙心寺派)の駐車場があります。駐車場入り口の横に寺号標があり、奥に門があります。
山号の書かれた額の掛かる門は勅使門で、閉ざされています。
勅使門の隣に山門があります。屋根には菊花紋がついていて、奥の本堂にもついていました。
霊山院は、慈光寺で得度した栄朝が、臨済宗の開祖栄西に師事して禅を納めた後に、禅の道場として建久8(1197)年に創建したことに始まる名刹です。関東最古の禅寺とされ、後鳥羽上皇から「関東最初禅窟」という勅額を賜ったといわれています。
【北武蔵の史跡 ④:満福寺・畠山重忠公史跡公園】パワースポットを巡る夫婦旅 に続く・・・