補遺 安息日と日曜日 | Truth Hawkのblog

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補遺 安息日と日曜日

――「日」を誰が聖別するのか


エゼキエル8:16で、
人々は東へ顔を向け、
太陽を拝んでいた。

ここから現代のキリスト教における日曜日礼拝との歴史的関係を考える前に、
もっと根本的なところへ戻ってみたい。

それは、
「そもそも、聖書の中で誰が礼拝の日を定めたのか」
という問いである。

土曜日なのか。
日曜日なのか。
どちらでもよいのか。

まず教会史も、
教派の伝統も、
自分自身の習慣も横へ置いて、
御言葉そのものから見てみたい。

■ 最初に第七日を聖別したのは人間ではない


安息日の起源をたどると、
モーセまで戻るのではない。

イスラエル民族まででもない。

さらに前、
天地創造
まで戻る。

創世記2:2-3には、
神が六日の創造のわざを終え、
第七日に休まれた
ことが記されている。

そして、

「神はその第七日を祝福して、これを聖別された。」

ここが非常に重要である。

第七日を選んだのは、
アダムではない。

モーセでもない。
イスラエルでもない。
ユダヤ人でもない。

神である。

そして神は、
ただ休まれただけではない。

その日を、
祝福し、聖別された。

つまり、
第七日の特別性は、
人間側の宗教的慣習から生まれたのではない。

神の側から始まっている。

■ 十戒では「覚えよ」と言われる


そしてシナイ山で十戒が与えられた時、
第四戒はこう始まる。

「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」

ここでも、
「好きな日を一日選んで休みなさい」
とは書かれていない。

続いて、

「七日目はあなたの神、主の安息である。」

と具体的に示される。

さらにその根拠として、
天地創造が語られる。

六日の間に主が天地を造り、
第七日に休まれた。

「それで主は安息日を祝福して聖とされた。」

つまり出エジプト記20章は、
安息日を新しく作ったのではない。

創世記2章へ戻っている。

創造↓第七日↓祝福↓聖別

この順序である。

■ 「聖別する」とは何か


ここで、
「聖別」という言葉を考えたい。

聖別とは、
単に、
「良い日」
という意味ではない。

神が、
他のものから区別し、ご自分のために取り分ける
ことである。

七日すべてを神が造られた。

第一日も神のもの。
第二日も神のもの。

もちろん第一日が悪いわけではない。

しかし、
その七日の中から、
神が特別に、
第七日を祝福し、聖別された。

ここが今回の核心である。

人間が、
神によって聖別されていないものを、
自分の判断によって、
神が聖別されたものと同じ位置へ置くことができるのだろうか。

■ 安息日は「しるし」


さらに出エジプト記31章では、
安息日は単なる休日以上のものとして語られる。

主はイスラエルへ、

「あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間のしるしである。」

と言われた。

そして16-17節では、
安息日を守ることが、
永遠の契約
そして、
主とイスラエルの子らとの間のしるし
として語られる。

ここは非常に重い。

安息日は、
「疲れたから休む日」
だけではない。

少なくともシナイ契約において、
それは、
神とその民との関係を示す契約のしるし
なのである。

■ エゼキエル自身も「しるし」と語っている


そしてこれは、
今回読んでいるエゼキエル書そのものにも出てくる。

エゼキエル20:12。

「わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとし、主なるわたしが彼らを聖別したことを知らせた。」

ここで非常に興味深い言葉がある。
「わたしが彼らを聖別した」
という言葉である。

創世記では、
神が、
第七日を聖別された。


エゼキエルでは、
安息日を通して、
神が、
民を聖別される方であることを知らせる。

つまり、
安息日の中心にあるのは、
単なる曜日ではない。

「誰が聖別するのか」

という問題なのである。

■ しかしイスラエルは安息日を汚した


そしてエゼキエル20章をさらに読むと、
神は繰り返し、
イスラエルについて、
「彼らはわたしの安息日を汚した」
と言われる。

ここで安息日違反と、
偶像礼拝は、
別々の話として切り離されていない。

偶像を捨てなかったこと。

神の定めに歩まなかったこと。

安息日を汚したこと。

これらが、
契約的不忠実
という大きな問題の中で並んでいる。

だから、
エゼキエル8章の偶像礼拝を読んだ後に、
エゼキエル20章の安息日を読むことには意味がある。

同じ預言者が、
同じ神の民について、
礼拝の対象
と、
神が聖別された日
の両方を問題にしているからである。

■ 「土曜でも日曜でもどちらでもいい」


ここで現代へ戻りたい。

私はこれまで、
クリスチャンから、
「土曜日でも日曜日でも、どちらでもいいではないか」
という趣旨の言葉を聞くことがあった。

もちろん、
そう語る一人一人の動機を、
私たちが決めつけることはできない。

本当に、
「曜日ではなく神を愛することが大切だ」
という思いから語っている人もいるだろう。

だから、
その人の信仰そのものを裁くことが目的ではない。

しかし、
その考え方自体は、
御言葉によって吟味する必要がある。

なぜなら、
創世記2章には、
「どの日でもよい」
とは書かれていないからである。

神が祝福されたのは、
第七日
だった。

神が聖別されたのも、
第七日
だった。

十戒で指定されたのも、
第七日
だった。

そして契約のしるしとして語られた安息日も、
その流れの中にある。

■ 問題は「土曜日の方が好き」という話ではない


ここを間違えたくない。

安息日の問題は、
私が土曜日を好きだから、
という話ではない。

土曜日派と日曜日派が、
好みを争っているわけでもない。

本当の問いは、
もっと根本的である。

誰に、聖なるものを定める権威があるのか。

これである。

もし人間が、
どの日でも自由に聖別できるのであれば、
「どちらでもいい」
という結論も成立するだろう。

しかし、
聖別する権威が神に属している
のであれば、
話は変わってくる。

人間の仕事は、
神が聖別されたものを、
自分の判断で聖別し直すことではない。

神が区別されたものを、
区別されたものとして受け取ること
なのではないだろうか。

■ 「日を守ること」と「日を聖別すること」は違う


ここも区別しておきたい。

人間は、
ある曜日に集まることができる。

第一日に集まることもできる。

水曜日に祈祷会をすることもできる。

毎日礼拝することもできる。

神を礼拝してはいけない日はない。

しかし、
「その日に礼拝する」
ことと、
「神がその日を聖別された」
ということは、
同じではない。

人間が日曜日に集まったという事実だけで、
創世記2章における第七日の聖別が、
自動的に第一日へ移動するわけではない。

もし、
第七日から第一日への聖別の変更が起こったというのであれば、
問うべきことは単純である。

「それを神は、どこで命じられたのか。」

ここを聖書から確認する必要がある。

■ 復活の日だから、という問題


多くのクリスチャンは、
イェシュアが週の第一日に復活されたことを、
日曜日礼拝の重要な根拠としている。

イェシュアが週の第一日に復活されたこと自体は、
福音書に記されている。

これは非常に重要な出来事である。

しかし、
ここでも二つの問いを区別する必要がある。

第一日に復活されたのか。

そして、
その第一日を新しい安息日として聖別するよう命じられたのか。

これは同じ問いではない。

前者を確認しただけでは、
後者まで自動的に証明されたことにはならない。

もし変更があったというなら、
その変更を示す御言葉を探す。

それが、
聖書を基準とするなら当然の手順ではないだろうか。

■ パウロ書簡も慎重に読む


また、
ローマ14章やコロサイ2章などを根拠として、
「日については完全に自由になった」
と理解する立場もある。

一方で、
これらは週ごとの第七日安息日そのものの廃止を語っているのではなく、
食物・祭日・断食日・祭儀的暦などをめぐる問題だと理解する立場もある。

ここは長年議論されてきた箇所であり、
一節だけを切り取って結論を出すべきではない。

むしろ、
創造、
十戒、
預言書、
福音書、
使徒行伝、
パウロ書簡まで、
聖書全体を通して検証する必要がある。

■ 「軽いことであるか」


そしてここで、
エゼキエル8:17の言葉が響いてくる。

「彼らがここでしているこれらの憎むべきわざは軽いことであるか。」

もちろん、
この節そのものが、
現代の土曜・日曜問題を直接語っているわけではない。

ここを混同してはいけない。

しかし、
神が定められた礼拝を人間が軽く扱ってよいのか
という適用として読むなら、
非常に重い問いになる。

私たちは、
「そんな細かいことはどちらでもいい」
と言うかもしれない。

しかし、
神が、
「聖別した」
と言われたものについて、
人間の側から、
「どちらでもいい」
と言えるのだろうか。

■ 「どちらでもいい」の前に問うこと


だから、
「土曜日でも日曜日でもどちらでもいい」
という結論へ進む前に、
私は一度、
聖書へ戻りたい。

そして、
こう問い直したい。

誰が第七日を祝福したのか。

神である。

誰が第七日を聖別したのか。

神である。

誰が安息日を契約のしるしとされたのか。

神である。

ならば、
人間が問うべきなのは、
「私はどちらが好きか」
ではない。

「神は何を定められたのか。」
なのである。

■ 人間が選んだ日と、神が聖別した日


ここに今回の核心がある。

人間は、
日を選ぶことができる。

しかし、
神が聖別されたという事実そのものを、人間が作り出すことはできない。

だから、
問題は単なるカレンダーではない。

権威
の問題なのである。

私が決めるのか。
教会が決めるのか。
宗教制度が決めるのか。
歴史的慣習が決めるのか。

それとも、
神が決められるのか。

エゼキエル8章で人々は、
主の宮にいながら、
主へ背を向け、
東へ顔を向けた。

だからこそ私たちも、
自分の礼拝について問いたい。

伝統へ顔を向けるのではなく、
多数派へ顔を向けるのでもなく、
自分の都合へ顔を向けるのでもなく、
もう一度、神へ顔を向けて御言葉を読む。

そして、
神が聖別されたものを、
私たち自身も、
軽いものとして扱わない。

安息日について問われているのは、
単に、
「何曜日なのか」
ではない。

そのさらに奥にある、
「誰に聖別する権威があるのか」
なのである。