補遺 タンムズから太陽へ
――なぜ8:14の直後に8:16が置かれているのか
エゼキエル8章を読み進めると、
非常に興味深い順序に気づく。
14節では、
女たちがタンムズのために泣いている。
そしてその直後、
16節では、
二十五人ほどの人々が東を向いて太陽を拝んでいる。
タンムズ。
そして、
太陽。
なぜこの二つの光景が、
続けてエゼキエルへ見せられたのだろうか。
■ まず、本文が語っている以上のことを言わない
ここで最初に、
大切な線引きをしておきたい。
エゼキエル書は、
「タンムズと太陽神は同じ神である」
とは語っていない。
また、
「タンムズ礼拝から太陽礼拝が生まれた」
とも書いていない。
さらに古代近東には、
地域や時代によって多様な神々と宗教体系が存在した。
したがって、
バビロン、アッシリア、カナン、エジプトなどに存在した宗教をすべて一つの系譜へまとめ、
「結局すべて同じ宗教だった」
と断定することは慎重であるべきだろう。
しかし、
だからといって、
エゼキエル8章の配置に意味がないわけではない。
むしろ本文そのものが、
非常に明確なものを見せている。
■ タンムズとは誰だったのか
歴史的にかなり確実に言える範囲では、
聖書の「タンムズ」は、
メソポタミア世界で知られた神格、
ドゥムジ(Dumuzi)
に対応すると考えられている。
ドゥムジは、
シュメールの女神イナンナ、
後のアッカド世界のイシュタルと関連する神格として知られ、
彼をめぐる哀悼・嘆きの伝統も古代メソポタミア資料から確認されている。
したがって、
エゼキエル8:14の、
「女たちがタンムズのために泣いていた」
という描写には、
古代近東の宗教的背景が存在する。
これは単なる想像上の関連ではない。
■ しかし「タンムズ=ニムロデ=太陽神」までは言えない
一方、
後世には、
タンムズをニムロデと同一視したり、
セミラミスをその母または妻としたり、
そこから世界中の母子神像、太陽崇拝、さらには後代のキリスト教習慣までを、
一本の「バビロン宗教」の系譜として説明する説も現れた。
しかし、
これらすべてを古代史上の事実として確認することはできない。
特に、
ニムロデ=タンムズ
という同一視や、
セミラミス→タンムズ
という系譜は、
聖書本文にも古代資料にも明確に記されているわけではない。
だから今回の研究では、
そこを「確定した歴史」として用いることはしない。
しかし、
ここで重要なのは、
それらの説を採用しなくても、
エゼキエル8章の警告はまったく弱くならない、
ということである。
■ 本文だけでも十分に恐ろしい
エゼキエル8章で実際に起きていることを並べてみよう。
まず、
ねたみを引き起こす偶像。
次に、
壁一面に描かれた、
這うもの、忌むべき獣、イスラエルの偶像。
そして、
七十人の長老たちによる、
香を焚く礼拝。
その次に、
タンムズのために泣く女たち。
そして最後に、
東へ向かって太陽を拝む人々。
これらすべてを、
一つの神話体系へ無理にまとめる必要はない。
むしろ、
違うものだからこそ恐ろしい。
様々な方向から、
様々な宗教的要素が、
主の宮の中へ入り込んでいるのである。
■ 問題は「一本の宗教」ではなく「混ざること」
ここでエゼキエル8章の核心が見えてくる。
問題は、
「古代世界のすべての異教がバビロンから派生したのか」
ということだけではない。
もっと本文に近い問いがある。
なぜ、主を礼拝する場所に、主以外への礼拝が存在しているのか。
これである。
タンムズ礼拝。
太陽礼拝。
壁の偶像。
これらは、
イスラエルの神を礼拝するために神が命じたものではない。
しかし、
いつの間にか、
宮の中へ混ざっている。
だから問題の中心は、
「どこから全部が派生したのか」
以上に、
「どこから入り込んだのか」
なのである。
■ 偶像礼拝は、必ずしも「神を捨てました」から始まらない
ここは非常に重要だと思う。
私たちは偶像礼拝と聞くと、
イスラエルがある日突然、
「もう主を捨てよう」
と言って、
完全に別の宗教へ改宗したような姿を想像しやすい。
しかし聖書を見ると、
もっと複雑である。
例えば金の子牛の事件でも、
アロンは子牛を造った後、
「あすは主の祭である」
と宣言している。
つまり、
主の名そのものが完全に消えたわけではない。
むしろ、
主への礼拝と、人間が持ち込んだ礼拝形式が混ざる。
ここに非常に危険なものがある。
神を捨てたと自覚しているなら、
まだ問題に気づきやすい。
しかし、
「私は神を礼拝している」
と思いながら、
その礼拝の中へ別のものを持ち込んでいるなら、
本人には見えにくい。
■ 「混ざる」という罪
聖書におけるイスラエルの問題は、
単純な無神論ではなかった。
彼らは神を知らない民ではない。
律法を持っていた。
神殿を持っていた。
祭司を持っていた。
祭りを持っていた。
犠牲をささげていた。
それでも、
偶像礼拝が入り込んだ。
つまり、
宗教を失ったのではない。
むしろ、
宗教を持ったまま混ざった。
これがエゼキエル8章の恐ろしさである。
■ タンムズの「涙」から太陽への「礼拝」へ
ここでもう一度、
14節から16節を見てみたい。
女たちは、
タンムズのために泣いていた。
涙。
悲しみ。
宗教的感情。
そしてその次には、
人々が太陽へひれ伏している。
ここから一つの重要な警告を受け取ることができる。
宗教的感情の強さは、その礼拝が正しいことの証明にはならない。
泣いている。
感動している。
熱心に祈っている。
一生懸命礼拝している。
それ自体で、
礼拝対象が正しいとは限らない。
だから問われるのは、
「どれだけ熱心か」
だけではない。
「誰を礼拝しているのか」
なのである。
■ そして最後に「太陽」が現れる
エゼキエル8章では、
神殿の奥へ進むにつれて、
憎むべきものが次々と明らかになる。
そして最後に現れたのが、
太陽礼拝
だった。
しかも、
ただ太陽を拝んでいるだけではない。
彼らは、
主の宮へ背を向けている。
ここまで来ると、
混合の行き着く先が見えてくる。
最初は、
神への礼拝に何かが加わっただけだったのかもしれない。
しかし、
別のものへ少しずつ顔を向け続ければ、
最後には、
神へ背を向けるところまで行く。
これは預言書を読むうえで重要な、
「結果から原因へ、原因から始まりへ」
という視点にもつながる。
最終結果は、
太陽へひれ伏すこと。
しかし問うべきなのは、
そこだけではない。
最初に何が入り込んだのか。
なのである。
■ 小さな混合が、やがて「普通」になる
信仰の混合は、
最初から大きな形では入ってこないのかもしれない。
「これくらいなら。」
「意味は同じだから。」
「みんなやっているから。」
「昔からそうだから。」
「便利だから。」
「形が違うだけだから。」
そうした小さな置き換えが、
一世代、
二世代、
三世代と続く。
すると、
最初は「混ざったもの」だったものが、
やがて、
「伝統」
になる。
さらに時間が経つと、
その伝統を疑う方が、
「おかしい」
と言われるようになることさえある。
だから預言者は、
結果だけを見せるのではない。
その結果へ至る、
入口
を探させるのである。
■ だから現代の礼拝も吟味する
この視点から、
現代のキリスト教についても問いを置いてみたい。
これは、
「キリスト教のすべては異教から来た」
という話ではない。
そのような大雑把な断定をする必要はない。
問いたいのは、
もっと単純なことである。
今行っている礼拝は、どこから来たのか。
神が命じられたものなのか。
後の歴史の中で加わったものなのか。
もし加わったなら、それは何を意味していたのか。
そして、
それは神の御言葉と矛盾しないのか。
これらを一つずつ調べればよい。
■ 「混ざっている可能性」を恐れず調べる
ここで大切なのは、
最初から結論を決めないことである。
「全部異教だ」
と決めて調べるのでもない。
逆に、
「キリスト教だから絶対に大丈夫」
と決めて調べないのでもない。
御言葉と歴史の両方を見ながら、
一つずつ吟味する。
もし何も問題がなければ、
それでよい。
しかし、
もし神が定められたものへ、
別の宗教的思想や人間の都合が混ざっているなら、
それを知った時、
私たちはもう一度、
神へ顔を向ければよい。
預言が与えられている目的は、
誰かを攻撃するためではない。
立ち返るため
なのである。
■ タンムズから太陽へ
だから、
タンムズの直後に太陽礼拝が置かれていることを、
私はこう受け止めたい。
タンムズと太陽を、
無理に同じ神へまとめる必要はない。
むしろ、
違う宗教的要素が次々と、
神の宮へ入り込んでいる。
そこにこそ、
エゼキエル8章の警告がある。
問題は、
一つの偶像だけではない。
神以外のものを礼拝へ持ち込むことそのもの
なのである。
そして、
混ざった礼拝の最後に、
人々は神の宮にいながら、
神へ背を向けていた。
だから私たちは問わなければならない。
私たちの礼拝には、何が混ざっているだろうか。
そして、
それはいつ、どこから入り込んだのだろうか。
結果から原因へ。
原因から始まりへ。
そして、
始まりから、
自分の足元へ。
未来を知るために預言を読むだけではない。
同じ未来へ進まないために、預言を読むのである。
