補遺 日曜礼拝と太陽崇拝の歴史的関係を検証する | Truth Hawkのblog

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補遺 日曜礼拝と太陽崇拝の歴史的関係を検証する

――「Sundayだから太陽神崇拝」で終わらせない


エゼキエル8:16には、
「顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた」
という衝撃的な光景が記されている。

そして現代のキリスト教では、
多くの教会が、
日曜日
を主要な礼拝の日としている。

英語では、
Sunday――Sun day
である。

ここから、
「日曜日礼拝とは太陽神崇拝がキリスト教へ入り込んだものではないか」
という主張が語られることがある。

さらに、
ローマ皇帝コンスタンティヌスが321年に日曜日を休日としたことを根拠として、
「コンスタンティヌスが安息日を土曜日から日曜日へ変更した」
と説明されることもある。

しかし、
歴史を調べるなら、
この問題はそれほど単純ではない。

だから今回は、
最初から結論を決めるのではなく、
確認できる歴史と、そこから考えられる可能性を分けて
見ていきたい。

■ ローマ世界には「太陽の日」が存在した


まずこれは確認できる。

ローマ世界では、
七日間を天体・惑星に対応させる、
いわゆる惑星週(planetary week)
が広がっていた。

その中で、
太陽に対応する日は、
ラテン語で、
dies Solis
と呼ばれた。

直訳すれば、
「太陽の日」
である。

英語の、
Sunday
も、
この「太陽の日」という曜日名称の系統を現在まで残している。

したがって、
「日曜日という名称と太陽には何の関係もない」
という説明も正確ではない。

曜日名称としての関係は、確かに存在する。

ローマ世界では紀元前1世紀後半から惑星週の痕跡が確認され、帝政期を通して広く普及していったと研究されている。

■ しかし、ここで一つ区別する必要がある


曜日が、
「太陽の日」
と呼ばれていたこと。

そして、
その日に集まった人が、
太陽を礼拝していたこと。

これは、
同じではない。

曜日名称だけで礼拝対象を決定することはできない。

例えば英語のThursdayは、
歴史的には雷神トールに由来する名称を持つ。

しかし、
木曜日に教会へ行った人が、
それだけでトールを礼拝していることにはならない。

つまり、
名称の由来
と、
実際の礼拝対象
は区別しなければならない。

■ コンスタンティヌスより約170年前の日曜集会


ここで非常に重要な史料がある。

2世紀中頃、
殉教者ユスティノス(Justin Martyr)が書いた、
『第一弁明』67章である。

これは、
コンスタンティヌスよりはるか以前の資料である。

ユスティノスは、
「太陽と呼ばれる日に」
キリスト教徒たちが集まり、
使徒たちの記録や預言者の書を読み、
祈り、
パンとぶどう酒を分かち合っていたことを記している。

そして彼自身が、
その日に集まる理由を説明している。

第一に、
創造の第一日であること。

第二に、
イェシュア・キリストがその日に復活されたこと。
である。

これは非常に重要である。

少なくとも2世紀中頃には、
キリスト教徒が第一日に集まる習慣は、
すでに存在していた。

したがって、
「321年にコンスタンティヌスが日曜礼拝を発明した」
とは言えないのである。

■ さらに古いプリニウスの証言


さらに紀元112年前後、
ローマの属州総督プリニウスは皇帝トラヤヌスへの書簡で、
キリスト教徒について、
彼らが、
「定められた日に夜明け前に集まり、キリストを神に対するように賛美した」
と報告している。

ただし、
ここは注意が必要である。

プリニウス自身は、
その「定められた日」が何曜日だったのかを書いていない。

したがって、
この資料だけから、
「これは日曜日だった」
と確定することはできない。

後世の研究者には日曜日と解釈する者もいるが、
本文そのものは曜日を特定していない。

ここでも、
史料が語っているところまで
で止める必要がある。

■ では321年、コンスタンティヌスは何をしたのか


ここでようやく、
コンスタンティヌスが登場する。

西暦321年、
コンスタンティヌス帝は、
dies Solis――太陽の日
について、
都市住民や裁判官、職人などに休業を命じる法律を出した。

農作業には例外が認められていた。

後世に保存された法文では、
この日が、
「尊ぶべき太陽の日」
という表現で呼ばれている。

これは歴史上、
非常に大きな転換点だった。

なぜなら、
それまでキリスト教共同体の礼拝習慣として存在していた第一日が、
今度は、
帝国の公的な休業制度
と接触したからである。

■ しかしコンスタンティヌスは「日曜礼拝を作った」のではない


ここを明確にしておきたい。

ユスティノスの証言は、
コンスタンティヌスより約170年前である。

だから、
コンスタンティヌスが日曜礼拝そのものを発明した
という説明は、
歴史的資料と合わない。

第一日のキリスト教集会は、
それ以前から存在した。

コンスタンティヌスがしたことの重要性は、
むしろ、
すでに存在していた第一日と、帝国の公的休業制度を接続した
ところにある。

■ では「太陽」とキリスト教は無関係だったのか


ここも、
逆方向へ単純化してはいけない。

ローマ社会には、
すでに、
太陽の日
という曜日名称が存在していた。

そして、
その同じ日に、
キリスト教徒も集まるようになっていた。

実際ユスティノス自身、
ローマ社会に説明する際、
その日を、
「太陽と呼ばれる日」
という名称で表現している。

つまり、
キリスト教徒が生きていた社会の暦文化と、
キリスト教の礼拝習慣は、
完全に隔離された世界に存在していたわけではない。

同じローマ世界の中で、
両者は接触していたのである。

■ 二つの「七日週」が出会った


ここが非常に興味深い。

古代世界には、
大きく分けて、
二つの七日周期の伝統が存在した。

一つは、
聖書の安息日を中心とする七日週。

もう一つは、
天体・惑星の名を付けた惑星週。

研究では、この二つは異なる伝統として成立しながら、
ローマ帝国の中で並存し、やがて接触していったと考えられている。

キリスト教はユダヤ的世界から生まれた。

しかし、
広がっていった先は、
ギリシア・ローマ世界だった。

そこで、
聖書の七日週
と、
ローマの惑星週
が出会ったのである。

■ しかも教会は惑星週をそのまま歓迎したわけでもない


ここも面白い。

後代のキリスト教資料を見ると、
教会側が惑星の名を付けた曜日文化や、
それに結び付いた非キリスト教的習慣を警戒・批判していた痕跡もある。

研究では、
初期キリスト教がユダヤ由来の数字による曜日体系を受け継ぎながら、
ローマ世界の惑星週と接触し、
地域によってそれを受容したり、
置き換えようとしたりした複雑な過程が指摘されている。

つまり、
「ローマの太陽宗教を教会がそのままキリスト教へコピーした」
という一方向だけでは、
歴史全体を説明できないのである。

■ では何が「混ざった」のか


ここで今回のテーマへ戻ろう。

歴史的に証明できることは、
かなり整理できる。

ローマ世界に「太陽の日」があった。

これは確認できる。

コンスタンティヌス以前からキリスト教徒が第一日に集まっていた。

これも確認できる。

321年にコンスタンティヌスが「太陽の日」を公的休業日とする法令を出した。

これも確認できる。

しかし、
ここから直ちに、
「だから日曜礼拝=太陽神崇拝である」
とは証明できない。

ユスティノス自身が説明する礼拝対象は、
太陽ではなく、
神とイェシュア・キリスト
だからである。

■ しかし、もう一つの問いは残る


それでも、
ここで調査を終わらせる必要はない。

なぜなら、
私たちが前の補遺で問うたことが残っているからである。

神はどの日を聖別されたのか。

創世記2章では、
第七日。

十戒でも、
第七日。

では、
第一日の集会がいつ始まったのか。

なぜ広がったのか。

それがいつ、
単なる「集会の日」から、
第七日の安息日に代わる主要な聖日
として理解されるようになったのか。

これは、
「太陽神崇拝だったかどうか」
とは別の歴史的・神学的問題である。

■ 「第一日に集まる」と「安息日を変更する」は同じではない


ここは特に重要である。

初期キリスト教徒が、
第一日に集まっていたことを証明したとしても、
それだけでは、
「神が第七日から第一日へ安息日を変更された」
ことを証明したことにはならない。

第一日に集会をすること。

第一日を復活記念として重視すること。

第一日を休業日にすること。

第一日を「主の日」と呼ぶこと。

そして、
第一日を第七日の安息日に代わる聖日とすること。

これらは、
歴史的にも神学的にも、
一つずつ区別して検証する必要がある。

ここを全部一つにしてしまうと、
議論が見えなくなる。

■ だから「混ざった可能性」はこう調べる


私たちが問うべきなのは、
単純な、
「Sundayという名前だから異教だ」
ではない。

もっと深い。

第一日のキリスト教集会。
ローマ社会の太陽の日。
帝国の休業制度。
教会の礼拝制度。
反ユダヤ的な社会・神学的環境。
後代の教会法。

これらが歴史の中で、
いつ、
どこで、
どのように重なっていったのか。

そこを一つずつ追跡する必要がある。

■ 「混ざっている可能性」と「証明できること」


ここで、
今回の研究方法を明確にしておきたい。

私たちは、
可能性を消さない。

しかし、
可能性を事実にも変えない。

似ているから同じ、
名前が同じだから起源も同じ、
後の時代に一緒になったから最初から同じ、
とは考えない。

逆に、
歴史的な混合の可能性そのものを、
「そんなものは絶対にない」
として調査を止めることもしない。

証拠があるところまで進み、
証拠がなくなったところで、
「ここから先は考察である」
と線を引く。

これが、
預言と歴史を扱う時には特に重要だと思う。

■ エゼキエル8章を「雛形」として読むなら


そしてここで、
エゼキエル8:16へ戻る。

私は、
「エゼキエル8:16は現代の日曜礼拝を直接預言した」
と断定することはしない。

本文は、
古代ユダの神殿で行われていた、
実際の太陽礼拝を告発している。
しかし、
これを一つの雛形・警告として読むなら、
現代の私たちにも問いを置くことはできる。

神の民の礼拝の中へ、
周囲の文化や宗教的習慣が入り込み、
長い年月を経て、
それが、
「最初から神が定められたもの」
のように扱われることはないだろうか。

それを確かめるために、
歴史を調べるのである。

■ 問うべきなのは「Sundayという名前」だけではない


だから、
今回の結論は、
「Sunday=太陽神崇拝」
ではない。

しかし、
「日曜礼拝には何の歴史的問題も存在しない」
でもない。

もっと正確に問いたい。

なぜ第一日だったのか。

いつから集まり始めたのか。
いつから休むようになったのか。
いつから安息日の役割まで担うようになったのか。

そこに聖書の命令はあったのか。
そこに教会の判断はあったのか。
そこにローマ社会の暦文化は影響したのか。

一つずつ、
分けて調べる。

■ 「似ている」からではなく「たどる」


預言を読む時、
私たちは似たものを見つけるだけで終わってはいけない。
たどる。

結果から、
原因へ。

原因から、
始まりへ。

エゼキエルが神殿の壁に穴を開け、
その奥に何があるのかを見せられたように、
私たちも、
自分たちが受け継いだ礼拝の歴史へ、
少し穴を開けてみる。

そして、
そこに何があるのかを見る。

もし御言葉と一致しているなら、
恐れる必要はない。

しかし、
もし人間の伝統が、
神が定められたものの位置へ入り込んでいるなら、
そこで問われるのは、
誰かを責めることではない。

神へ顔を向け直すこと

なのである。

「Sundayだから太陽神崇拝だ。」
それだけでは、
まだ浅い。

もっと深く問いたい。

その日を誰が聖別したのか。

その礼拝はいつ始まり、どのように形を変えてきたのか。

そして最後には、
歴史ではなく、
もう一度御言葉へ戻って、
「神は何と言われたのか。」
そこを確かめたいのである。