歴史探偵 徳川御三家 NHK 4/24放送 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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感想
今「篤姫」の再放送を観ているので「御三家」にちょっと興味が沸いて番組を視聴した。
将軍家に跡継ぎがいない時の備えとして機能していたとの事だが、結局今までに出たのは紀州と水戸だけ。
尾張は元々家康が出た母体だから遠慮したのか??
水戸が元々あんなに弱小だったとはびっくり。

内容
所長:佐藤二朗、副所長:渡邊佐和子アナ
歴史探偵:加藤向陽アナ

江戸時代。260年の反映を支えた凄い仕組みがあった。
尾張・紀州・水戸の徳川御三家。将軍家に跡継ぎがない時、この御三家から出して来た。その成り立ちから紐解く。

御三家の初代はみな徳川家康の子供
三代目将軍 家光就任時(20)は御三家と年が近かった。
尾張藩:義直(24)、紀州藩:頼宣(22)。水戸藩:頼房(21)
家光にとって厄介な存在だった。


義直(尾張藩)徳川美術館に資料が残っている。
12歳当時、義直の病が治った事を喜ぶ家康からの手紙。
義直17歳の時に名古屋城を与えられた。


城に対する家康のこだわり(20の藩による城作りや、城下町そのものの移設(清州→名古屋:擬宝珠が見つかった事で判明)


義直に出来た強い使命感。就任した家光に強い対抗心を持つ。


海を埋め立てて御殿を作った。「海に浮かぶ城」と有名になる。


家光に御殿の新築を制限されると、改修でゆさぶりをかけた。
寛永10(1633)年、家光が病気になった際、義直が許しを乞わずに見舞いに行った時に家光は面会せず(増長を戒めた)
関係修復を考える義直。
寛永11年、家光が名古屋に立ち寄る事を知った義直は、その1回のために本丸御殿を大改築して接待のための「上洛殿」を作る。


だがもう一つの仕掛けがあった。家康が使った質素な部屋が、清須から移築されれていた。単に家光に対する敬意ではない・・

 

義直自身も家康が好きだった(家康が59歳の時の子)。

家康の肖像画を自ら描いていた。


対抗心だけでなく「壁」の様な存在であろうとした節もある。

頼宣(紀州藩)紀州東照宮に資料が残っている。


頼宣気質を物語るものが彫られている。


「鷹狩り」の狩り場まで作ってしまうほど武芸にのめり込んだ。
「大坂の陣」で初陣を飾る。当時14歳で家康から贈られた鎧と陣羽織を着用し、武功を立てようと先陣を希望。


だが結局後方支援に回り、戦国の世は終わった。
 

天下泰平の世に頼宣が任されたのが紀州 和歌山城。


元和8(1622)年、地元豪族60名を召し抱えた頼宣は、牢人たちのシンボルになって行った。
その後和歌山城の大改築や、船での鯨漁を始めたりした。
その真意は、戦争が起こった時のための備え。
家光は頼宣のそんな動きを警戒する。
正保2(1645)年、中国からたびたびの援軍要請が来る。その頃の中国は明が清に敗れたが、再興を目指していた。家光は黙殺。
その理由は豊臣秀吉が行った朝鮮出兵。政権崩壊の原因。
海を渡って戦う実力がない事を分かっていた。
一方で牢人たちは戦いたかった。武功を挙げる絶好の機会。
その期待を集めたのが頼宣。頼宣もそれに賛成した節がある。
結局明への援軍は実現しなかったが、頼宣は家光にとっての不穏分子的存在となった。
頼宣の真意を確かめに動いた。向かったのは根来寺。
当時強力な軍事力を持ち、時の権力者と戦って来た。柱に銃痕。


当時の紀州には根来の様な勢力が各地にあり「難治の国」と呼ばれていた。紀州の統治に失敗すれば、戦乱の火種となる。


徳川の平和を守るため、十分な軍事力が必要だった。

将軍家の「一番の屋台骨」になりたいという思い。
藩主としての一面。みかん栽培の奨励(山がちで米が取れない)


それを江戸に送る販路も確立した(地元から慕われる)

頼房(水戸藩)茨城県立歴史館
他の2人とは違う関係を築いた家光。頼房とは兄弟同然の関係。


当時水戸藩は尾張、紀州と同格とはみなされず(石高半分)官位も下の中納言(他の2人は大納言)警戒されず心を許す関係。


黄金4千両を与えたり、狩りで仕留めた極上の鶴を送ったり。
小石川後楽園は幕府が頼房に与えた水戸藩邸の一部。水戸藩邸を度々訪れた家光が座ったと言われる「将軍腰掛け石」
家光自ら庭園造りの指揮を執った。
家光の壮大な計画は元々土造りの水戸城を、名古屋城、和歌山城と同じ石垣の城にすること。狙いは頼房の権威を高めるため。
頼房はそれを望まず。関東ローム層上の城は堅固。費用も膨大で不安、心配が募る。だがそれに構わず計画は進む。
静岡の石切り場に、水戸藩用「水」印の石が多数見つかる。


だが水戸城は今も土造りのまま。なぜ頓挫したか?
石を運ぶためには那珂川を通らなくてはならず、ここは西風が吹くと通れない。17世紀になってから使われる様になった。


家光の苦悩が見えて来る。当初御三家という言葉はなかったが、家光が尽力する事で水戸藩に力が付いた。

第2代水戸藩主 徳川光圀(水戸黄門)の時に、ようやく御三家のシステムが出来上がる。


 

御三家は重要な将軍を出した。
8代 吉宗(紀州)、14代 家茂(紀州)、15代 慶喜(水戸)

御三家のシステムが江戸時代の長期政権を支えた。