アナザーストーリーズ「金閣炎上 若き僧はなぜ火をつけたのか」BSP 11/23放送 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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アナザーストーリーズ 運命の分岐点
「金閣炎上 若き僧はなぜ火をつけたのか」 BSP 11/23放送

感想
この番組はたまにいい題材を取り上げる(アイルトン・セナは良かった)
今回直前まで知らなかったが間に合って録画。
金閣寺がかつて放火されていたのは三島の「金閣寺」で知ってはいた(レビュー
だが詳細となると小説では事実関係があいまいなため、今回番組で理解出来た。三島と水上の視点の違いは興味深い。

自身が寺に出されていた水上の方が深い視点にも思えるが、その分客観視出来ていない印象がある。

慈海と養賢が話し合ったであろう「生きる意味」
玄侑宗久和尚はナマグサ坊主っぽいが、その言葉はストレートに響く。

内容
戦災を免れたその五年後、放火により焼失、その後再建された景観 世界遺産の「金閣寺」

かつて全焼した事があるのを知っている人がどれぐらいいるか・・・
それは1950年7月2日。

視点1 林養賢
一緒に死のうとマッチで火を点けた。

雨の中でもまたたく間に燃え落ちた。

国宝の仏像も全て焼けた。

なぜ死のうとしたのか。大学同級生の証言。
一風変わった男。喋らない。吃音があった。内気、
事件に立ち会った警官の記録。養賢逮捕時の供述調書下書き。
「私の主観では悪い事をしたと思いません」犯行理由語らず。
美に対する嫉妬。真の気持ちは表現しにくい・・・

昭和4年舞鶴市成生生まれ。寺の息子。両親と三人暮らし。
「養賢ぼうず」と呼ばれていた。遊びに出て来ない。母が出さなかった。
成生の子とは違う。勉強をさせた。教育ママ。僧侶として大成させる。
子に対する期待。中学に進学したのは村で唯一。
父は死ぬ前に金閣寺住職に息子を頼んだ。
金閣ほど美しいものはない―― 憧れの金閣
1399年、足利義満が建立。正式名は鹿苑寺(の中の舎利殿)
師匠 村上慈海の得度を受けた。大谷大学へ進学。

同級生 鈴木と夢を語り合った。
「オレの金閣、金閣と一緒に暮らす」が口癖。夢と現実の差。

母への愚痴を良く聞いた。
一度辛くて帰ったが「和尚になるまで帰ってくるな」と追い返された。
精神科医 斎藤環の分析:母の拒絶が大きな影響。

毒親に近い。親子関係のこじれ。
養賢の成績は2、3年で落ちた。

留年確実だが落第したら寺から出される。
追い詰められ、街をブラつき映画を観た。
本を売った金で遊郭に入り浸る。そして小刀と睡眠薬を入手。
寺の火災報知器が故障していた事が災いした。
7月1日の晩、客と碁を打ち、その後深夜3時に放火。
死のうと思って大文字山に登った。

睡眠薬を飲み腹を刺したが死にきれず。
捜索が行われ見つけられた。一命をとりとめる養賢。
翌日母親が駆け付けたが養賢は拒絶。

母親は帰りの列車で投身自殺。
懲役7年の判決で服役し、6年後釈放されたがその後病死。

550年の国宝。戦火を逃れたのに焼失。

それに着目した二人の作家。

視点2 三島由紀夫と水上勉


三島由紀夫。美に嫉妬したという言葉に触発され「金閣寺」を書いた。
水上勉。自分と同じ境遇に調べを進め「金閣炎上」を書いた。
酒井順子は著書「金閣寺の燃やし方」で二人の視点の違いを解説。

表日本の三島(中央の視線)に対し、裏日本の水上(オモテとの格差)

三島は東大卒のエリート。「美に対する嫉妬」に惹かれた。

創作ノートが発見された。新たな言葉。
金閣の美。滅ぼすべき絶対性。戦争で焼けてしまえば良かったのに。失望。それは三島の感覚と繋がる。

戦後も人々は何も変わらず生きている。終戦に対する失望。
三島自身自分の輪郭がはっきりしていない。金閣を焼く行為に仮託。
ラストで主人公は「生きよう」と決意する。

三島の決意の現れでもあった。

水上は20年かけて取材。事件は号外で知り興奮、緊張した。

自分の境遇と似ていた。口べらしで十歳から寺で修行。養賢の気持ちが分かった。もしかしたら自分だったかも。

成生を何度も訪ねる。60歳で書き始めた。
「青葉山裏で会った、あの男が火を点けた」草稿が残されていた。

当初は客観小説だった。途中から一人称に改めた。そこから養賢と本人を繋げるフィクションを追加した。そこまでして書こうとしたもの。
金閣寺内の事情。平等であるべき寺、仏教の世界に対する思い。

問題提起。
三島の作品に対して―― 雑巾には臭いもある。それを書きたかった。

視点3 村上慈海
金閣寺住職。彼の人生に終生影を落とした炎上事件。再建に奔走。
小説では三島、水上とも彼のモデルを批判的に描いた。
慈海の声がNHKに残っていた。

「申しわけない。弟子の放火で国宝を失った」
金閣寺に少年のうちから住んで引き継いだ。それが途切れた。
焼失を背負った男。

弟子 西田承元が語る。
金閣寺は人を虜にさせる魅力を持っている。
慈海は放火事件について一言も口にしなかった。

小説では両者とも師匠を好色家、吝嗇などという表現がされ、誤解されている部分は多かった。
慈海のイメージは地に落ちたが「私の不徳の致すところ」に終始した。

僧侶・作家の玄侑宗久は水上の書く慈海の人物像に違和感を持った。

弟子の養成、徒弟の学費捻出等で運営には金がかかる。

強い意思で維持が必要。
慈海と養賢には根源的な何かがあったのでは?
養賢のメモが残っている。

「生とは如何?死とは如何?」「生死なんて無意味」
事件前、慈海に生きる意味について問うた事があるのではないか。
我々はなぜ生きているか。それは生まれちまったから。
生きている以上その意味が欲しい。
でも本来は意味なんかない(それが仏教の教え)
慈海は本来の事を説いたのでは(言葉少なに)

それが養賢にはショックだった。
生きていても無意味。ただ、それに答えられる人は珍しい。
だから生きがいなどがでっち上げられて行く。

だがそこまで話してくれなかった。
若者が言葉に順ずる、期待するものはすごく大きい。

慈海は金閣寺の再建に奔走を始めるが周囲は冷やか。
戦後5年で国自体の再建もままならない時期。
慈海は毎朝托鉢に出掛け、それが新聞にも載った。

市民の気持ちにも変化が起きる。
全国行脚を経て支援の輪が広がり、事件から5年後に再建工事が始まる。その頃から養賢の結核が悪化。
昭和30年10月、金閣寺の落慶式が行われ、同じ月に養賢釈放。

そして半年後に死亡。


西田承元談
慈海はその後30年、弟子を育てた。養賢が反面教師だった。
彼も大学を卒業出来たら慈海に近づけた。残念。
驚いた事がある。寺には在家の者たちの仏間もあるが、そこに養賢とその母親の位牌が入っている。戒名もついている。
養賢 正法院鳳林養賢居士  母親 慈照院心月妙満大姉
思いが深い人がつけた(恐らく慈海)センスがいい。
養賢への愛情、慈しみが感じられる(宗久談)
 

焼失から35年後、慈海は83歳で亡くなった。金閣に捧げた生涯。


仏教界への批判、境遇への不満、自己嫌悪・・・

様々な読み解きがあるが真相はわからない。
一方焼失した金閣寺は不死鳥のように蘇えった。

焼失した事などなかった様に。輝く金閣は何を語るのか。

 

建物は滅んでも、人の思いは滅びることはない。
惹き付けられる。焼失した事と込みでないと見られない。

妖しさ、不安定さ。
それは歴史の不安定さでもある。

権力欲、無残、無念の六百数十年のすごさ。

三島がこう書いている。
「それにしても金閣の美しさは絶えることがなかった!」

 

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今日の一曲
Good Friday Blues  The Modest Jazz Trio