坂の上の雲 四  作:司馬遼太郎 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

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四巻感想
黄海海戦では敵を四散させて「失敗だった」と悔やむ海軍。旅順に逃げ込んだロシア艦隊撃破のために、二○三高地攻略を陸軍に頼む。
陸軍の戦いとして「遼陽」「沙河」会戦も語られるが、この二○三高地を巡る旅順攻撃での乃木軍(参謀:伊地知幸介)の頑迷さと、その攻防の惨烈さが本巻のメイン。
司馬遼太郎は、この伊地知に対して本当に「思い切り」こきおろしている。その延長線上で、伊地知を咎めない乃木の事も無能扱い。
ウィキペディアでの記述を読むと、伊地知としてそこまで無能だったとは表現されておらず、そもそも海軍が撃ち洩らしたロシア艦隊(実はポンコツになってる)の追い出しを海軍に要望されて向かったのが乃木軍。簡単に陥とせるだろう、と与えられた弾薬も不十分だった。
この辺りは「小説」として楽しむ事を優先させ、個人の酷評に陥らないような配慮が必要か。こんなサイトもある。
そして、旅順要塞攻撃のクライマックスである五巻に続く・・・



坂の上の雲 四 あらすじ
 

黄塵
陸軍は満州に上陸したものの、戦闘としてはうまく行っていない。

好古が属す第二軍は、惨烈な戦いを続け辛勝の繰り返し。

大本営の弾薬補給も不十分な中、ロシア軍に勝ち得たのは、相手の不手際によるもの。
クロパトキンと、極東総督アレクセーエフとの戦略方針の違いにより兵力が割かれ、重ねて第二軍の兵力を過大評価したためロシア軍が退却した。
遼陽の大会戦が迫っている。

この戦いは世界史上最も大規模な例となる。
そのためには現地に「高等司令部」を置かなくてはならない。
実務運用するのが児玉源太郎なのは既定の事だが、総大将の人選が難しい。元帥山県有朋が自薦したが、意中の人は大山巌。
結局明治帝にすがり、帝自ら進んでこの人事を裁断した。

大山巌と児玉源太郎が東京駅を発ったのは明治37(1904)年7月6日。途中連合艦隊を訪ね、東郷と会った。幕僚として同席した真之。
旅順艦隊の封鎖について説明する真之。要塞に守られた艦隊を外洋から攻めるのは困難であり、陸軍を以て要塞を陥とす事を要望した。
旅順攻略用として、乃木希典を軍司令官とする第三軍を遼東半島に最近送ったが、まだ本格活動していない。
大山と児玉は、その要請に添うべく努めると言って旗艦「三笠」をあとにした。
今まで旅順を重要だとは認識していなかったが、満州における日本陸軍の安全のためには必要であり、やらなくてはならない。
だが児玉でさえ、旅順を陥とすのに大した時間はかからないと踏んでいた。
一行は7月15日、大連港に入った。

乃木が司令部を置いている「北泡子崖」村に出向く大山と児玉。

乃木に会い長男勝典の戦死を悼む児玉。
海軍の献策を告げる児玉。二〇三高地が、旅順港を見下ろすのに好位置。ところが参謀長の伊地知幸介がそれを一笑に付した。

「陸軍には陸軍の方針がある」
結果的にこの高地を含めた旅順要塞陥落に191日を要し、日本側戦死者6万人を数えた。
旅順攻略に先立って海軍は、手持ちの重砲の貸し出しを申し出たが、伊地知はそれを断っている。
本来であれば陸軍は、遼陽会戦を行う時期だが、補給が計画通り進んでいない。会戦は8月を越えそうだった。
日本人の計画感覚に補給というものが欠如していた。

兵站の研究もされていない。

洋上では、相変わらず日本の連合艦隊が封じ込め作戦を展開。
この時期ロシア艦隊は市民らから「艦隊出て行け」などと言われていた。東郷が怖くてすっこんでいる・・・
8月8日、旅順艦隊司令長官ウィトゲフトは、極東総督アレクセーエフから「ウラジオストックへ行け」との指令を受けた。

それを受けて石炭の積み込みと出航準備が行われ、10日の夜明け前に艦隊18隻が出港した。東郷艦隊よりはるかに大戦力。
敵艦を発見し、戦闘態勢を指示する真之だが、火力の差が歴然としており「とても勝ち目はない」
その上東郷艦隊に課せられた使命は「殲滅」。

これが作戦上の錯誤をもたらした。
前回の交戦で敵がすぐ旅順港に逃げたことから、外洋に誘う作戦を採用した。だが彼らへの指令はウラジオストックへの直行。

逃げる敵を一斉回頭して迫る東郷艦隊。
射程内に入り、双方の砲撃が始まる。砲弾は敵の旗艦「ツェザレウィッチ」に命中したが、水線甲帯を施された艦はなかなか沈まない。

三笠も同様に被害を受けた。
戦闘よりも遁走の方針に戻ったロシア艦隊。

東郷艦隊は未だに一隻も沈めていない。
鈍重だと言われるロシア艦隊だが、港内にいた時十分整備されていたため意外に早く、なかなか追いつかない。
3時間ほどかけてようやく追いつくと東郷艦隊は砲撃を始めた。

日没までの2時間で決着しなくてはならない。
日本の砲弾は「下瀬火薬」が詰められた非常に強力なもの。

海軍技師「下瀬雅充」の発明。
この砲弾は装甲を貫かない代わりに艦上構造物を吹き飛ばし、焼き尽くす。
旗艦ツェザレウィッチに撃った「運命の一弾」が操舵員を倒し、左へ回頭を始めた。戦術的回頭だと皆がついて行くが円運動。
旗艦の異常に気付き、後を継いだウフトムスキー少将は、ウラジオストック行きを諦め旅順に引き返そうとした。

だが混乱は広がりそれぞれが勝手に行動。

夜が近づき、一隻も沈めないまま、砲撃中止命令が出された。

帰陣を始める艦隊。
あと始末を受け持つのは駆逐艦、水雷艇。

手負いの敵艦に至近距離まで近づいての攻撃。
だが戦果はないだろう、と真之。結局駆逐隊は敵に肉薄するところまではゆけず、空しく帰投した。軟弱を断じた真之。
全駆逐隊の指令と艦長が一斉に交代となった。

真之の考えを島村が東郷に伝えた。

黄海海戦は失敗だった。旅順艦隊を広い大洋に散らばせてしまった。ロシアとしても失敗。結果としてウラジオストックに辿り着けた艦なはい。ロシア側はこの海戦のあと、自ら敗者のかたちを取った。

旗艦ツェザレウィッチは中立国の膠州湾に逃げ込み武装解除された。他の数隻も同様の扱い。
旅順港に帰ったのは5隻の戦艦とその残り。

その悲惨な姿を見て誰もが「出ていけ」と言った言葉を後悔した。
下瀬火薬の恐ろしさが明らかになった。

この新火薬はピクリン酸が鉄と接触してピクリン酸塩を作る性質を利用したもので、凄まじい爆発力を生む。ロシア軍は帰港した軍艦の運用を諦め、港内に係留を続ける事に決めた。
だが東郷艦隊はそれを知らず、旅順要塞が陥ちるまでは旅順港を去ることが出来なかった。ただ、一つだけ重要な懸念が去った。

それが8月14日の蔚山(うるさん)沖海戦。

ウラジオストックを拠点とするロシア艦隊は、旅順艦隊の別働隊の扱いで全ロアシア艦隊の中で最も活躍し、日本陸軍に損害を与えた。

兵員の輸送船が多く沈められた。
これに対応するのが上村彦之亟中将の第二艦隊だったが、容易に見つけることが出来ない。
度重なる捜索の空振りに、新聞や市民の投書で上村艦隊が罵倒されるようになり「露探艦隊」とまで言われた。重ねて大本営による無神経な出撃命令や、敵発見情報にも振り回された。
やっと上村艦隊に運が巡って来た。敵のウラジオ艦隊の南下。

それは黄海海戦の付録。旅順艦隊がウラジオストックを目指す時の出迎えを頼んでいた。ところが旅順艦隊は撃破され四散。

それを知らずに南下するウラジオ艦隊を迎え撃つ上村艦隊。
8月14日、蔚山沖で三隻のウラジオ艦隊を発見。
上村艦隊の命中率は奇蹟というほど高く、敵の三隻全てに火災が起こった。単独なら逃げられたのに、僚艦の救援を続けながら逃げる敵艦。ウラジオストックに戻ろうとしていた。
結局一艦は沈没、二艦はウラジオストックに逃げ帰ったが廃艦同様。ウラジオ艦隊はこの時を以て消滅した。


遼陽
ロシア帝国がこの遼陽を半領土にしてから、五年ほどで堂々たる街にした。会戦の三ヶ月前に遼陽へ入ったクロパトキン。彼は遼陽城だけでなく、本格的な野戦築城を施して万全の備えをした。

この兵力は23万。日本軍は14万でしかなく、彼らが本気で大進攻をすればどうなっていたか分からない。

ただ、クロパトキンは遼陽城に脱出用の大穴を明けた。

堅牢な城に脱出用の穴を明ける、この考え方そのものがこの会戦で失敗する主要因でもあった。

この会戦にあたって、日本はすぐに攻勢に出られなかった。

それは砲弾不足。海軍が十分な砲弾を用意して戦ったのに対し、陸軍はそうではなかった。
物量の消耗に対する想像力の欠如。砲一門につき50発程度でいいだろうという認識。戦場では一日でなくなる。
日本軍は、内地から送られる砲弾を何とか貯め続けたが、敵の兵力増強も進む。8月28日に遼陽攻撃となった。
正面攻撃は好古が所属する奥軍(第二軍)と野津軍(第四軍)。

それに先立ち好古の騎兵旅団が敵情捜索を行った。
当初敵の主陣地を鞍山站(あんざんてん)として作戦が立てられたが、好古の探索では首山堡(しゅざんぽ)こそ主陣地だと報告。

だがそれを無視した奥軍の幕僚。
27日未明、奥軍が鞍山站に攻め込むも敵はおらず、首山堡に退いていた。
「首山堡」は標高97メートルの丘でありロシアの第二防衛陣地。

奥軍と野津軍が攻めかかるが、敵もここに兵力を集中し、壮絶な戦いとなった。唱歌にもなった橘中佐が戦死したのもこの戦い。
奥軍、野津軍とも死傷甚だしく、退却せざるを得ない状況。
それをを救い出した要素が二つあった。
一つは攻城砲二門。児玉の采配で乃木軍から借用したものだが、奥軍では扱いかねていた。それに気付いた好古が、それで遼陽の停車場(クロパトンの指令部)に撃ち込む事を提案。珍しくそれを容れた奥軍。この巨弾がクロパトキンの心理に影響を与えた。
もう一つは黒木軍(第一軍)。一種の遊軍の様な立場で日本軍の右翼にいたが、ぐるりと大迂回して大子河を渡り、側面から横撃する戦略。当初その作戦を聞いて「義経の鵯越えだな」とすぐ理解した黒木。
義経はそれを小部隊でやったが、こちらは一個軍団。だがこの作戦は長期間の疲労を強いる。二万の兵士はそれをやってのけた。
太子河の渡河が実行されたのは30、31日。
この異変に黒木軍を過大評価したクロパトキンは、奥軍と野津軍を相手に戦っていた戦力を、ぐるりと回して、黒木軍に充てた。
西部戦線で勝っていた軍勢を引き上げて他に転ずる愚策。理解しがたい命令だが、総帥クロパトキンに対する信望で転進は行われた。
黒木軍は渡ってみて、その先の饅頭山・五頂山がたやすく取れそうだと思ったが、驚くほどの大激戦場となった。

クロパトキンの指示による兵力の集中。
この山の争奪が日本・ロシアで繰り返された。

日本にとっても、取られれば太子河に追い詰められる。

激闘の末、ついに日本軍の押し角力が勝ち、ロシア軍は退却した。

ところが、驚くことにロシアの全軍が退却を始めた。

遼陽そのものを放棄した。
作戦家としてのクロパトキンは完全主義者だった。

饅頭山の攻防に負けたことで嫌気がさしてしまった。
彼には「あと、奉天がある」との思い。

退いた上で奉天の線で完全作戦を行う。
クロパトキンは完璧な退却戦を行った。

日本軍の追撃を許さず、整然と大群を奉天へ引き上げた。
「日本は奉天で勝ったのではない」という悪意の報道が、海外の従軍記者によって世界に流された。

日本軍司令部の欠陥は、外国従軍記者の扱いのまずさ。

粗末な接待と傲慢な態度。
また秘密主義で情報を流さないため、悪意の報道が流れる。
この点、クロパトキンは巧妙だった。これを予定の退却だと公表した。

このため「日本軍非勝利説」が流布され、日本公債の応募激減により財政に打撃を与えた。
この点を最も良く理解していたのは児玉源太郎。各国の従軍取材要望を外務省が拒絶したのに対し、便宜を図って各軍に配属した。
だが各軍でその扱いにばらつきが出た。

黒木軍は好感が持たれたが、奥軍の秘密主義は不評。
結果として「ロシア軍は堂々と撤退した」という記事になった。

この報道の結果が公債応募激減につながったことに慌てた大本営は、現地軍に「外国観戦員に対して誠意を見せよ」との訓令を出した。
これに怒った児玉。

そもそも手当てをして記者たちを連れて来たのが児玉。
すぐに辞表を書いて東京に送った。山県はこれに驚き、ともかく慰留。
結局本件は、日本側からの詳細説明により日本の勝利が確認され、公債募集も好況を呈した。
わずか一億なにがしの金しか持たずに戦争を始めてしまった日本は、イタリアから買った「日進」「春日」の代金さえ払っていない。

この公債募集が頼みだった。
戦費調達に気が立っていた大本営は、黒木に対しても厳しかった。
なぜ黒木は逃げるロシア軍を追撃しなかったか。

戦果が拡大すれば日本勝利の印象が強まった。
それはばかげた妄想。4倍のロシア軍と戦い、膨大な火力を相手にした。勝利した時、黒木に余力はなく、また彼らの完璧な撤退にはスキがなかった。戦後黒木は大将、参謀長の藤田は中将で終わった。

遼陽会戦が終わった時、次の作戦のための砲弾がなかった。

9月、陸軍省は各国に砲弾を発注した。それらには当然金が要る。
日銀副総裁の高橋是清はその金策のため、ロシアに宣戦した半月後からヨーロッパを駆け回っていた。
当初はアメリカに行ったが、国内産業対応でそれどころではなく、見切りをつけてヨーロッパに渡った。
フランスはロシアに金を貸していて駄目。イギリスに行ったが、日英同盟はあるものの、戦費を貸す関係ではない。

むしろロシア公債の方が信用が高い。
そんな時に幸運が舞い込んだ。米国籍のユダヤ人金融家ヤコブ・シフが日本の公債を五百万ポンド引き受けるという。
その理由は、ロシア人によるユダヤ人迫害。

ロシア国内にユダヤ人が六百万人居住している。
ロシア帝政がなくなる事が迫害解消への道。

日本が勝てば革命が起きるとの期待。
人種問題を現実的に理解していた高橋は、藩の留学生として渡米した時、住み込んだ先の家で、知らずに奴隷として売られた過去があった。だがそれを笑って話す。

日本はこの戦争を始めるにあたって、ロシア帝政を倒すための諜報活動任務を、駐在員だった明石元二郎大佐に与えた。個人の活動資金として破格の百万円を与えられた。
明石のずぼらは有名であり、ある時山県有朋と会って話に夢中になり、自分が小便を漏らしている事にも気付かす話し続けたという。
帝政ロシア内外の、主だった革命運動家らとの接触。

レーニンとも接触したという。
革命工作が成功を収めたのは、その資金によるところも大きかった。金を投じた分だけ暴動が起こった。
内政面での秩序崩壊に寄与し、戦争終結への機運を育んだ。
レーニン他、各革命家に共通しているのは、ユガヤ人ヤコブ・シフと同じく日本の勝利。


旅順
旅順港とその大要塞は、日本の陸海軍にとって最大の痛点。
東郷の艦隊は、陸軍がその要塞を落さないことで港口に釘付けにされている。
今要塞が陥ちたとしても艦隊の修理・整備に二ケ月がかかる。

バルチック艦隊の迎撃にはキリキリだった。
東京の大本営もあせった。「乃木では無理だった」の声が既に出ている。だがそういう人事を行ったのも東京の大本営。


乃木軍の仕事がはかどったのは、本要塞手前にある小要塞軍の攻略。その後本要塞を攻めるにあたり、敵の守将ステッセルに降伏勧告を行った乃木軍。だがそれは却って彼ら全軍の士気を高めた。
乃木軍が第一回総攻撃を始めたのは8月19日。

弱点攻撃の原則を無視した中央突破の机上案。わずか六日間の攻撃で死傷一万六千あまりの損失に引き換え、敵の損害は軽微。

有能、無能で人の評価を決めるべきではないが、高級軍人の場合は有能である事が絶対条件。
乃木希典の不幸は、参謀として伊地知幸介が選ばれたこと。

乃木も伊地知も、決めたのは山県。

薩長の絡む、維新当時の力関係で決まった。
第二回総攻撃では、火砲を以て十分叩くという「正攻法」を併用したが、この突撃もいたずらに人間を敵のベトン(コンクリート)に投げつけただけに終わった。
海軍の、二○三高地攻略はもはや宿願。それを突っぱねる伊地知。
だが第二回総攻撃の時、第一師団参謀長の献策でその攻撃が認められた。だがその攻撃は小部隊のため撃退され、却ってその重要性を敵に教える事となった。
ロシアはその後、急ぎこの高地を最大級の要塞にした。

陸軍には、海軍の山本権兵衛に相当する様な優れたオーナーがいなかった。
陸軍の参謀本部として、二人の天才川上操六と田村怡与造を開戦前に失い、児玉源太郎が「自分しかいない」と立ち上がった。

その後任として呼ばれたのが長岡外史少将。
長大な八字ひげを生やして「ケレン師」とも言われたこの男が、旅順に28サンチ榴弾砲を送り込んだ。
それは大砲技術者、有坂成章の助言によるもの。
元々内地で固定配置されているものを外して運ぶ。

これを陸相の寺内に提案して了承を取り付けた。
ところがこの申し出に乃木軍は「送ルニ及バズ」

設置に二ケ月かかると言った。
だが東京には砲の権威有坂がいる。輸送船が仕立てられ、到着して十日あまりで設置が完了し、最終的にその数は18門になった。

参謀本部の長岡は、当初から二○三高地さえ奪えば良いと言っていたのを、乃木司令部だけが正面攻撃の基本方針にこだわった。

彼らが要塞をすっかり退治してしまおうと思ったところに、この戦史上空前の惨事(戦争というよりも)が起こるのである。


沙河(しゃか)
遼陽会戦は、日本の勝利に終わった。

苦い内容に満ちてはいるが、ロシアが退却したのは事実。
クロパトキンは「退却将軍」とのあだ名を付けられた。
そんな中で、彼が掌握する全満州軍を二分して、その半分をグリッペンベルグ大将に任せるとの内示が出た。クロパトキンにとっては降格。
本来彼はハルピンまで退き、百万の兵を集結させ攻勢をかけるという戦略を持っていた。

しかし退却が宮廷での人気の下落を招くため、奉天の線で留まった。
だが意外にも日本軍の追撃がなかった。
実体としての日本軍は、先の様に砲弾補給の乏しさから、それを蓄積しない限り次の戦いに移行出来ない。
ここに来て、ようやく日本軍が兵員と砲弾の補給に悩んでいると断定したクロパトキンは、名誉回復のための大攻勢に転じようとした。

そして10月2日、全軍に対し宣言を発する。
黒木軍の手配した間諜が10月4日、ロシア軍の南下行動を知らせた。
この重要な局面で、参謀長の児玉源太郎が9月中旬から約20日間旅順へ行っていた。これが旅順要塞陥落を早めたが、肝心の主戦場がおろそかになった。
児玉が戻ったのは10月6日。積極的に攻撃するか、守るか。

いつもは明快に判断する児玉が「迷った」
「全軍、待機陣地につけ」というあいまいな命令が出たのは10月7日。
だが8日になっても敵の目立った攻撃はない。
奥軍の左翼を担っている秋山騎兵旅団からも、敵の南下が止まっているとの情報。敵が陣地構築を始めた。
クロパトキンは東部兵団と西部兵団の両翼を持っており、東部の方が迂回する分到着が遅れる。それで西部兵団に陣地を作らせて足並みをそろえさせた。完全主義者特有の性癖。

命令と共に日本軍は活動を始めた。具体的には横一線70キロ以上に張った戦線をひた押しに進む。戦線に凹凸があると、凸部が弱くなり崩される。足並みを揃えて進むのは神業。
運動は夜間に行われたが、一点懸念される場所があった。

黒木軍の中でも、突出した陣地を受け持つ梅沢道治少将の旅団。

応召の老兵が多く、兵器も旧式の混成旅団。この梅沢、実戦で叩き上げた男だけに「戦さの匂いが分かる」と言われた。
足並みを揃えるために梅沢旅団は後退する必要があるが、敵の大軍を前に夜間、風のように引き上げた。
ロシア軍はそれを知っても失望せず、この場所を突破する作戦。

梅沢旅団は全てが鳴りをひそめてそれを待った。
十分に引き付けてから一斉に火蓋を切った。戦闘は3時間以上続き、ロシア軍は大きな損害を出して敗走。
だがその結果梅沢の陣地(本溪湖)の脆弱さが知られ、この20日後、大規模な攻撃が仕掛けられる。それが10月8日。

黒波のような大軍の攻撃を受け、全滅の危機を迎える梅沢旅団。
黒木軍が、それに対して思い切った救援策を取った。

手持ちの師団二つと、更に騎兵第二旅団も救援に加わった。

10月9日の時点で潰滅の危機に瀕する黒木軍。

この状況に対し大作戦案を立てる児玉源太郎。中央で戦っている奥軍の野津軍に前進運動を起こさせ、ロシア軍を包囲する。

小兵力の軍が大軍を包囲する、クロパトキンが想像も出来ない作戦。
苦戦中の黒木軍を「旋回軸」として全軍を右へ大回転させ、敵主力を山に追い込む。
正面の敵を排除するための、数個師団の夜襲を12日夜敢行して敵を潰走させ、以後軽快な運動に移った。

好古とその騎兵旅団は、最左翼で運動を続けていたが、11日頃から激戦期に入った。
敵の騎兵団が嵐のようにやって来る。

その嵐に堪え、吹き過ぎると進むという式。
嵐に堪える方法は、騎兵をやめる事。馬を後方に置いての射撃戦を歩兵、砲兵、工兵が助ける(陣地前進主義)。

人馬とも大きい敵に対するための戦略。

10月8日から始まった沙河戦は、13日になっても勝敗が明確でなかった。
最左翼で前進を続ける秋吉騎兵旅団に、強大なコサック騎兵の大集団が現れた。「これが騎兵だ」と見惚れる思いの好古だが、すぐ必要な処置を取った。
騎兵は一斉に馬を降りて騎兵でなくなる。伏射をとって歩兵になり、次いで歩兵部隊の展開。そして砲兵が放列を布いた。

これら三種の兵種が機械の様に作動するのが秋山支隊。

この方式の前にコサック部隊は敗退。

沙河戦には奇蹟はなかった。二倍の敵と正面きって会戦し、押し抜いて勝ったという点で、世界にも稀な戦例。
振り返れば13日が峠だったが、日本軍としてその印象はなかった。

一部では敗退。13日は、日本軍が総前進を始めて四日目。

クロパトキンの頭脳は、敵の弱みより味方の危険に敏感だった。
ロシア軍を沙河まで追い詰めた日本軍の総前進は、凄まじいものだった。この夜、全日本軍は眠っていない。ロシア軍も不眠。
翌日は攻撃が緩むものだが、日本軍は翌日早暁から猛攻を続けた。
「日本軍は豊富な予備軍がある」と判断したクロパトキン。

だが実際にそんなものはなく、不眠の兵が引き続き戦った。
その後もロシア軍の猛攻は続き、各所で日本軍は危機に瀕した。
それを救ったのは14日夕刻から降った豪雨。

ロシア軍の砲火は衰え、不眠の日本軍はひと息ついた。
この豪雨を利用して双方、陣形の乱れを整頓した。

前線の参謀たちの中には追撃を主張する者もいたが、予備軍も砲弾もなく、その一突きが出来ない。
大山は14日夕刻、高地から状況を眺めて戦いの終了を決めた。

勝ちを察することが出来るだけで、厳密な定義での勝ちではない。

沙河戦は元々防御のための攻勢だった事を考えれば、満足せざるを得ない。
沙河会戦での日本軍死傷は二万にのぼった。ロシア軍のそれは日本の数倍。遺棄死体だけで一万三千。捕虜も含め全損害六万。

沙河会戦としては10月18日頃には一応終息し、日露双方が沙河をはさんで陣地構築を始めた。やがてそれは本格的な野戦陣地となる。両軍とも冬営の準備に入った。
どうせ冬営になるだろう、と予測していたのは兵站部門。

補給を第一に考える兵站経理部長の赤尾が、商人から膨大な木炭を集めたり、製造も指示した。
砲弾さえあれば冬営せずとも良かった。そもそも日本陸軍というものに補給観念が欠落していた。

海軍はそれを周到に準備し、戦時生産力も確保していたのに対し、陸軍での砲弾製造能力が一日わずか三百発だったという。

うその様な話だが、日本陸軍というのは、要するにそのような智能上の欠陥体質を持って生まれついていた。


旅順総攻撃
旅順でなお続けられる死闘。9月19日、全力をあげて行われた第二回総攻撃に続き、10月26日にも総攻撃を繰り返したが、惨憺たる失敗。作戦当初からの死傷は二万数千。もはや災害と言っていい。
「攻撃目標を二○三高地に」との海軍要請は既に「哀願」
だが現地軍の乃木司令部だけが「その必要なし」
東京の大本営では乃木、伊地知の更迭を山県でさえ同意した。

だが彼らの首を切れば今までに死んだ者たちの責任を問われ、士気が崩壊する。
大山はそれを恐れた。児玉を旅順にやらせるという腹案もあったが、沙河会戦の遂行中にそれは出来ない。

陸戦には持ち駒としての「予備隊」が必要。その最後とも言える二つの師団(第七(旭川)、第八(弘前))を大本営は持っていた。
満州の戦地では慢性的な兵力不足で、このいずれかを送らなければならない。満州平野か、旅順か。両方面とも火がついている。

方針未決定のまま、精鋭である第八師団の派遣準備がされた。

旅順などには送れない、というのが皆の気分。児玉とのやりとりで「大本営に任せる」との返信。それでも決められず、ついに明治帝の裁断を請い「北進」と決まった。満州で使い、旅順には送らない。

この部隊は、遼陽戦には間に合わなかったが、沙河戦で貢献した。
全日本軍の中でガンの様な存在の乃木軍司令部が、旭川師団要請を行っている。兵力補充が必要なことも確か。

だがその作戦頭脳に対する不信が強い。
乃木軍参謀、伊地知幸介のへの評価は決定的だった。

重ねて伊地知は、今までの失敗の罪が大本営にあると公言しており、それが山県有朋を立腹させた。
乃木宛に長文の電報を送った山県。自身が砲兵の専門であるにも関わらず、批判を重ねる伊地知を叱るように言った。

だがそういった叱責を伝えなかった乃木。
そもそも、海軍がバルチック艦隊を一隻残らず沈めなければ日本の勝利はない。そのための二○三高地攻略。大本営の皆が統一している大戦略を、乃木軍司令部だけが理解しない。
現実は進行している。バルチック艦隊は既に行動を起こしていた。

ここからバルチック艦隊に関する記述が続く。
バルチック艦隊の司令長官であるロジェストウェンスキー少将。

皇帝ニコライ二世の寵臣であり、皇帝が最も有用な提督であると信じているが、彼を愚物だと見抜いていた開明的政治家ウィッテ。
バルチック艦隊の成立はこの年(明治37年)の4月30日。

それまで「太平洋艦隊」と称されていたのは旅順・浦塩を基地とする東洋艦隊だったが、東郷に圧迫され、マカロフまで戦死した。
そこで欧州各水域にある軍艦を集め、バルチック海にて新編成し、第二太平洋艦隊と命名された。

それの司令長官として、皇帝がロジェストウェンスキーを任命した。
だが「成功するだろうか」という疑問が省内で起きた。一万八千海里という距離。補給や兵士の士気継続等、回航そのものが大事業。
艦隊を送るべきかの会議が開かれたのは8月23日。

皇帝の意向は「やらせたい」
派遣はロシアの敗滅になる、と誰もが思ったが保心を考え、異を唱える者はいなかった。
この案の熱狂者はロジェストウェンスキーだった。

大遠征には困難を伴うが、陛下に命せられれば戦闘に赴くでしょう・・・
だがこの時点で彼自身が、その司令長官になるとまでは思っていなかった。

皇帝に焚きつけたのは春の話であり、海軍には人材がたくさんいる。
だが皇帝の寵愛はロジェストウェンスキーに集中しており「彼なら勝つにちがいない」と信じ込んだ。いわば彼自らが撒いた種。

バルチック艦隊の母港、バルト海(バルチック海)のリバウ港について。
不凍港を得たいというのはロシアの願いだが、既に旅順港を得ている。次いで欧州につながる港を欲してリバウ港が選定されたが、湾の頸部が狭く封鎖される危険がありウィッテは反対した。

ニコライ二世がそれを退け選定した。
この建設工事について広瀬武夫が、ロシア駐在武官として報告している。ウィッテは、このような不凍港をバルチック海に築港したから、バルチック艦隊を送り込むことになったと呪った。

バルチック艦隊がリバウ港から出港したのは10月15日。
旗艦「スワロフ」「アリョール」「ボロジノ」「アレクサンドル三世」の4艦に戦艦3、巡洋艦8、駆逐艦9、特務艦9という陣容。

後に加わる第三太平洋艦隊は含まれていない。
旗艦スワロフのメンバー、造船技師のポリトゥスキー。

艦の故障対応の要員。30歳の若さで妻を残しての参加。

この艦隊への失望を妻への手紙に綴った。
ロジェストウェンスキーほど臆病な指令長官はいない。
出港二日目、日本の駆逐艦の待ち伏せを疑い、その晩合戦準備をさせ着衣のまま待機させた。
いる筈のない日本の水雷艇を恐れた。「可能性がある」というだけで存在を信じた。すれ違う各国商船にも照準を合わせる過敏状態。
ある夜、工作艦より日本の水雷艇に追跡されているとの入電。

ロジェストウェンスキーは即座に反応して戦闘準備をかける。

だがその後「四方よりの襲撃、更に水雷艇は8隻」との続報。
二時間ほど経って続報を催促すると「・・・その姿を見ず」
本来なら捨てておけという内容だが、ロジェストウェンスキーはその報告を、敵水雷艇が追跡を戦艦に切り替えたと想像した。

彼の恐怖心理が全艦隊のものとなった。

艦隊は「北海」を通過しつつある。この付近はドッガー・バンクという浅瀬があり好適な漁場だった。夜間でもイギリス他の漁船が操業する。

この程度の常識を艦隊は知らなかった。
異常な緊張の中で、狼煙を見たという知らせを受け、旗艦スワロフがサーチライトを点けると同時に合戦準備のラッパを吹いた。

そこにいたのは英国漁船だったが、全艦隊がこれを日本水雷艇と見て砲撃開始。狂宴が始まる。あらゆる軍艦が探照燈をつけ、日本水雷艇(実は英国漁船)を撃ちまくった。
「戦闘」が数十分も続くうちに「日本」の一等巡洋艦を見つけ、集中的に砲撃した。それは自艦隊の巡洋艦「アウローラ」だった。提督は途中で気付いたが、興奮した兵たちが落ち着くのに相当の時間を要した。
この狂気は、バルチック艦隊を世界の笑いものにした。
操業していた漁船は少なくとも21隻。物的、人的損害多数。
英国の世論は硬化。

更に艦隊が救助もせずに去った事が事態を悪化させる。
バルチック艦隊の航海停止を国として要求する英国は、交戦も辞さない姿勢。その調整に乗り出したフランス。
騒ぎの中で艦隊は南下を続ける。

出港以来初めて寄港したのはスペインのヴィゴ港。
礼砲に対し、要塞砲から答礼があったため「休養できる」と期待したが差し入れの新聞で、あの事件が世界中に流され、英国議会とロシアの問題になっている事を知る船員。
艦隊はドイツと契約していて、ここで石炭補給すべく輸送船が4隻手配されていた。だがスペイン憲官が、中立港を盾に補給を断った。

それは英国からの圧力。
この状態が二日間続き、ようやく戦艦一隻につき石炭400トンのみの積み込みが許された。結局バルチック艦隊はまる五日間の足止めを食った。旅順要塞を落とせてない日本にとっては貴重な利益。
次の寄港地アフリカのタンジールに向けて出港した艦隊は、英国の巡洋艦4隻の尾行に気付く。

挑発とも遠征妨害とも取れる艦隊行動だが、見事な統率動作。
水兵たちの「英国艦隊はすごい」との思いは「東郷艦隊も、あれほどやるのか」との不安につながる。

バルチック艦隊が起こした国際問題は、東郷艦隊にも知らされた。

これについて東郷は、闇夜の航海では無理からぬと、同情を示したという。武士道のモラルが残っていた。
真之は、英国漁船が何隻やられたかを知りたがった。

それによってバルチック艦隊の砲戦能力を把握したい。
東郷艦隊は、長引く旅順封鎖で疲弊していた。

戦力を取り戻すには二ケ月以上の期間が必要。

海軍は陸上でも乃木軍に協力しており、海軍陸戦重砲隊が活躍したが、これでさえ伊地知は邪魔扱いした。

11月に入ると、戦況は乃木軍にとっていよいよ悪化した。
相変わらず海軍の二○三高地攻略を拒否し続けたが、東京の大本営の意向を受けて9月19日、僅かな兵力で攻撃し退却した。

このためステッセルはこの地の重要性に気付き要塞化してしまった。乃木軍司令部がやった失敗の中で最大のもの。
第七師団をくれとうるさく要求する乃木軍に、旅順攻略のため、それを容れた。
第七師団の師団長大迫尚敏は、明治帝から馬術を習った間柄。

第七師団の旅順派遣を聞いて、しばらく無言を続けた帝。
また、乃木とその幕僚罷免の議論が高まっていたが、この時期から言われなくなって来た。旅順の戦況を山県が帝に説明した時「乃木を罷免させてはならない」と沙汰された。

これは作戦途中で司令官を替えてはいけない、という原則論だったが、後に乃木を感激させた。
明治帝への忠誠心を激しいものにしたのは、この沙汰だった。

乃木軍司令部の奇妙さは、戦況報告さえまともに出ないことであった。無能無策では作戦を立てられないだけでなく、報告書も書けない。

全ては伊地知幸介の能力と性格の欠陥にある。
児玉はそう思ったが、乃木に言えなかった。(乃木がかわいそうだ)
性格は誠実で責任感が強いが、大いくさが出来る筈がないのも知っていた。本来助けるべき伊地知がこの体であった。
乃木と伊地知のいる司令部は、批判を受けながらも戦線からはるか後方にある。

11月下旬、第三次総攻撃(勘定によっては第四次)が始まる事になったが、乃木軍司令部は自信喪失。
相変わらずの正面突破を続けるつもりだった。
だが批判はされても、建前上は「旅順は乃木に任せてある」とされ、凡庸な者にとっては心細い。乃木も伊地知もこの意味では孤児だった。勝利に全く自信が持てない。

乃木と伊地知がやった「第三次総攻撃」ほど戦史上愚劣な作戦計画はない。要塞に対する正面攻撃の方針を捨てず、全てを日本人の勇敢さのみに頼った。
また二○三高地については「兵力を小出しにしつつ攻撃」というあり得ない戦術。その攻撃が行われたのは11月26日。
第一、第九、第十一各師団にて行う、まったくの正面攻撃。
更に、これに加えて一大決死隊の突撃が計画された。

のちの旅順死闘の象徴となる「白襷(しろたすき)隊」。

 

各師団から選抜された三千名あまり。指揮官は歩兵第二旅団長の中村覚。兵だけを死なせるわけに行かず、将官が選ばれた。
この白襷隊戦法ほど乃木軍司令部の作戦能力不足を示すものはなかった。本来突撃部隊は奇襲で使われるべきを、敵の最も防御力が強い場所に投入した。

プランは旅順最大の砲台を奪い、一気に旅順市街に突入する。
この全滅間違いなしの部隊が行動を開始したのは11月26日。

この襲撃を前日に予測していたステッセル将軍。

ノギの妙な癖を将校全てが知っていた。

26日になるとノギは砲撃開始し、突撃隊を繰り出す。
防御としては常に26日を想定し、準備を整えて待つ。

必ず日本兵が現れるため砲弾でミキサーにかければいい。
その疑問は大本営にもあった。それに対して伊地知が言った理由は三つ。導火索の有効使用時期が一ケ月であること。南山を突破した日が26日だった(験がいい)。そして26が偶数で割り切れる、つまり要塞を割ることが出来る。乃木も横で頷いた。

この程度の頭脳が旅順を攻めている。兵も死ぬであろう。

ステッセルの予想通り26日ノギ攻勢が始まり、双方の砲撃が火ぶたを切った。その中で日没と共に白襷隊が動き出した。だがやがて敵の探照燈に発見され、集中砲撃を受けた。なおも進み、補助砲台を落そう
とするが、凄まじい機関銃火でかなりの生命が奪われた。
三千人の白襷隊が事実上潰滅したのは、戦闘開始してから一時間ほど経ってから。
むろん旅順市街への突入などは、乃木の狂気と無知が生んだ夢想。
彼ら死者のせめてもの幸福は、乃木軍指令部が戦史にも稀な無能司令部であるのを知らなかったこと。
ともあれ、この白襷隊は旅順攻略戦の象徴となった。
ほとんど潰滅した部隊は、将校全てが死傷し、何とか動ける者が司令部に命令を求めた。

遠い司令部。報告を受けて失望する乃木は、退却を命じた。

この時期、大山・児玉の総司令部は、遼陽からさらに北の煙台にあった。祈るしかない児玉。旅順攻略が失敗すれば陸海軍の作戦は総崩れになり、日本国そのものが滅びる。

存亡のカギが最も愚劣で頑迷な二人に握られている。
この旅順総攻撃の朝、児玉は旭日を拝んだ。

元来、児玉は作戦立案時、考え抜いて二案を残し、最後の一案を選ぶ寺に非常な苦痛を抱く。自信があったためしがない。

その成功、不成功に国家の存亡が関わる。

いわばクジを引くようなもの。
乃木軍司令部が、それほどの真剣さで最後の一案を決めているかは疑問。だが児玉は一切手をくだしていない。
旭日に祈ったのは「乃木を頼みます」という内容でしかなかった。