坂の上の雲 二  作:司馬遼太郎 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

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二巻感想
日清戦争の発端とその決着が語られる。清国からの圧力にロシア、日本を頼みにした朝鮮。朝鮮を他国に取られたら自国の防衛が成立しない日本が、ロシアに先んじて動いた。
陸海軍とも清国に圧勝したが、好古の騎兵戦デビューは苦い退却戦。
子規は俳句に新境地を拓くも、結核の進行により思うに任せず。
真之の、広瀬武夫との出会いと、後の日露戦で役に立つ米西戦争での封鎖作戦。ひたひたと迫るロシアの脅威。
アメリカ留学で、海戦の戦法に開眼した真之。

物事の要点を見極め、不要不急のものを切り捨てる。これは今でも全てのタスクに通じる極意。

ここまで長大な物語だと、ただ漫然と読んだのでは流れや、肝になるポイントを見失う。こうして、あらすじにする事で浮かび上がるものが見える時が「醍醐味」。


坂の上の雲 二  あらすじ

日清戦争
子規の病状は小康を保っていたが、寄宿舎を追い出されてしまった。子規のまき散らす毒。それは結核菌ではなく俳句・短歌。大望を抱いて給費生として入寮して来た者たちに、文学熱を植え付けた。
子規に反対する先鋒は東京大学政治学科の佃一予(つくだかずまさ)。個人の立身出世を目的とし、勉強が正義と考える。監督の内藤鳴雪までが、俳句で子規に師事する状況を慨嘆した。
この時子規は東京大学国文学科に進んでいたが、明治25年に二度目の落第を喫していた。
劣等生を扶持する必要はないと、給費生からも削られてしまった。
ここに至って退学を決意した子規は、それを東京の保護者である陸羯南に報告。だが驚くことはなかった。子規の叔父加藤恒忠も羯南も、司法省法学校時代にストライキで退学を命ぜられていた。
私の社においでなさい、と言う羯南はその時新聞「日本」の社長になっていた。
羯南は子規に、自宅の隣家への下宿も世話してくれた。

母や妹との同居も勧められ、明治25年11月に母と妹が上京。

お律は独り身となって正岡家に戻っていた。
子規の月給は当初15円で、三人暮らしには厳しかったが、その後羯南の配慮で昇給し30円となった。
特に重い仕事は与えられなかったが、度々発行停止処分を受ける「日本」の対策として家庭向きの「小日本」が企画され、その編集主任に子規が選ばれた。
意外にも子規の編集能力は優れており、古参主任の古島一念は感心した。
「日本」に「芭蕉雑談」の連載を始めた子規。

その年 明治26年は芭蕉の二百年忌でもあり、各行事が行われる中、芭蕉に対して近代的な批評を行った子規。

日清戦争とはなにか。日本の侵略政策の結果であるという見方。
他方の見方。朝鮮を多年、属国視していた清国。

それに対しロシアが朝鮮への野心を持った。
日本は自国防衛の観点から朝鮮の中立を保とうとした。

善玉、悪玉という決めつけは難しい。
日本という国が、帝国主義のみで動いて来た列強をモデルにして、二十数年前に誕生した国家であるということ。

小村寿太郎の話。当時中国に派遣されていた外交官。

明治3年に大学南校(東京大学の前身)に入り法律を学んだ。

その後留学生としてハーヴァード大学で学び、次いでニューヨークの弁護士事務所で働いた。
帰国後司法省、外務省に勤め、その後翻訳局長になった。

だが不遇が続き5年その職に留まる。
おそろしく貧乏で、すり切れたフロック・コートの小男。

それを外交官にしたのが外務大臣の陸奥宗光。
ある送別会の席でたまたま小村の、輸出産品に関する博識を知り、北京への赴任を命じた。
赴任先での職は参事官だったが、公使多忙につき、すぐ代理公使となった。それまで中国の事を何も知らなかったが、懸命に研究した小村。
在任一年足らずで翌27年、日清開戦のため帰国した時、精緻な情報を提供した。
在任当時は代理公使という事で列強の代表から軽く見られたが、全く意に介さなかった小村。
パーティーの席上李鴻章が、小村の小身を慇懃無礼に評した時、閣下の如く巨躯の者を自国では「うどの大木」と申す・・・との反論で哄笑したという。

戦争の原因は、朝鮮にある。そもそも半島国家は維持が難しい。

清国が主権を主張すると共に、ロシアと日本が保護権を主張。

日本にとって切実なのは、朝鮮を他国に取られた場合、母国の防衛が成立しない。
「朝鮮の自主性を認め、独立国にせよ」の言い分の下、伊藤博文を派遣して李鴻章との間に「天津条約」を結んだ。朝鮮国に重大な変事があった場合は両国(清国と日本)又はどちらかが派兵する内容。
だが当時の韓国が、新興宗教の影響で不穏な状況となる。
明治27年2月、甲午農民戦争が勃発し、韓国政府は困窮。

その対応を清国(袁世凱)に頼った政府。
その情報を日本も察知し、外務大臣陸奥宗光は機敏に動き、出兵を閣議決定。だが首相の伊藤博文は戦争回避の思い。
閣議決定はあくまでも出兵であり、戦争を起こすことではない。

だが陸奥と参謀次長川上操六は、それだけでは満足できない。

二人の密談。首相に対しては一個旅団を動かすと言う。

数は二千。だがこれは戦時になれば八千になる。
出兵の数にこだわる伊藤だが、彼が作った憲法自体がプロシャ憲法を真似たものであり、統帥権は首相にない。
次いで公使 大鳥圭介を使って、韓国に清国兵の駆逐を要請する公文書を出させた陸奥。それが7月25日。公文書が出るや、大島義昌を団長とする派遣旅団が戦闘行為を開始した。

韓国政府要請の名目で第一戦が7月29日に行われ、日本が勝利。

清国軍三千を敗走させた。
それに先立つ7月25日。巡洋艦3隻が清国軍艦と遭遇。

だがその最中に英国籍の大型汽船を捕捉。
その船は清国の陸兵、大砲を運搬するためのもの。

退艦命令を清国人が無視したため「浪速」艦長東郷平八郎が撃沈を命令し、実行された。
一時非難されたが、東郷の取った行動は国際法上合法であるとされた。その後清国に対し宣戦布告が発せられたのが8月1日。

連合艦隊が集結完了するのは7月19日。

総トン数は約6万。清国海軍は総トン数8万4千。
そのうち日本に対峙する北洋艦隊は約5万トンだが鎮遠、定遠の浮沈艦を有する。
連合艦隊の指令長官は伊東祐亨(すけゆき)。

正規の教育は少なかったが、海上の実務で自ら海戦を会得した。
海軍刷新のため、山本権兵衛が当時大佐の身分で、大幅な人員整理を明治26年に断行した。
その後、兵学校教育を受けた士官を運営の首座に据えた。

その時でさえ伊東は整理されていない。
出港は7月23日。
日本艦隊は、初動においては陸軍部隊の輸送に専念したが、敵の北洋艦隊を見つけて主力決戦をすべきとの、軍令部長 樺山資紀の進言。
それを受け9月16日。決戦艦隊10隻により出撃。索敵も同時に行う。
17日早朝、両国艦隊は黄海洋上で遭遇。清国の指令長官は丁汝昌。日本艦隊は単縦陣。対する清国はV字型の横陣。単縦陣は「抜きうち」の様なもの。いずれを取るかは民族的性格による。
4時間半の戦闘で清国艦隊は12隻中4隻沈没。日本は沈没なし。
清国の残り7隻は旅順方面に逃げたが、伊東は追撃しなかった。

秋山好古は明治24年暮れに帰国。25年、騎兵少佐に昇進。

この時34歳。そして翌26年には騎兵第一大隊長。

陸軍は日清戦争を想定していた。
そして明治27年。日清戦争の宣戦布告が8月1日。

第一軍を山県有朋が指揮して平壌で清軍を破った。
更に伊東艦隊が北洋艦隊を破って制海権を確立したため、海上輸送の支障がなくなった。
大本営は更に第二軍を編成。

それと共に好古の騎兵第一大隊も動員された。
第二軍は軍司令官大山巌の下第一、第二師団、混成第12師団の構成。
第一師団長は隻眼の山地元治中将、第二師団長は乃木希典少将、混成第12師団長は西寛二郎少将。
日本郵船手配の輸送船での、兵らの運搬。遼東半島の花園口に到着したのが10月24日。
金州及び大連湾付近の占領が第一師団への命令。

好古の騎兵大隊はその敵情視察。好古、日本騎兵にとっての初陣。
敵二百と対峙するが、距離感覚のない者たちが好古の制止も聞かず発砲。ゆうゆうと去る敵兵。
陸軍内部にはびこる「騎兵無用論」とも好古は戦っていた。
山地中将に申し出て、自隊を師団直属にした好古。

それに防御目的の歩兵一個中隊を加えて秋山支隊とした。

そんな体制で旅順要塞に向かった。
旅順は遼東半島の先にあって海軍基地として好適であり、清国はドイツに設計依頼し、ここに近代要塞を作った。
好古はこの周囲の探索を行った結果、旅順攻撃の方法を報告としてまとめ、指令官大山巌はそれによって攻撃計画を立てた。

攻撃開始は11月21日。
それに先駆け18日に出発した秋山支隊だが、おびただしい数の敵に遭遇した。彼我の戦力差がありすぎ、当然退却すべきだったが、初陣での撤退は士気に関わる。好古は攻撃を決意。
戦いが始まるが、兵の数が足りなすぎる。

好古は水筒に酒を入れていた。飲むことで鎮静する。
兵の萎縮を感じ、好古は単騎で前に進み出た。徒歩兵を指揮する大尉がそれを見て驚く。それで勇気付けられた兵士たちはふんばるが、更に敵の応援が加わり退却せざるを得ない。
騎兵だけなら簡単に逃げられるが、歩兵部隊を逃がさなくてはならない。退却戦が最も難しい。
「わしが”しんがり”じゃ」と言って好古がそれを引き受けた。

常識とは逆。何とか戦場を離脱した秋山支隊。

意見書と実戦の乖離に参謀たちは驚いた。
第二軍が予定通り21日の払暁に攻撃を開始し、海軍との協調で猛攻を加えた。半年はかかると言われた旅順要塞は半日で陥ちた。
敵兵の大部分は金州方面に逃げた。

勝利の最大の要因は日本側になく、当時の中国人に国家のために死ぬという観念がなかったため。

根岸
この時期(明治27年)、近所へ越した子規。陸羯南が給料を30円に上げてくれた事でやや余裕ができたため。
「小日本」を編集した頃は多忙だったが、それが半年で廃刊になってからは午後出社という毎日になった。だが社の連中が従軍記者となって出て行くため、子規が書く必要のある記事が増えた。
子規も従軍したくなったが、陸羯南は受け付けない。
アジア最大の国家と戦い、勝利している事実が国民的興奮となった。
明治政府は日本人に国家、国民の観念を持たせるのに腐心した。

「天子さまの臣民」の思想。
この勝利がそれを一挙に実物教育した。
新聞に戦いの稚拙な句も発表する子規。

世におもねるわけではなく、彼自身の大本気の感情。
だが一方で、与謝蕪村の再評価にも力を入れていた。

そして子規俳句の芯とも言える「写生」に開眼した時期でもあった。
からだは小康を得ているが、先の寿命に対するあせりか、楓の葉の赤さをハンカチに写すべく木槌で叩いたりする子規。

ある日高浜清(虚子)と河東秉五郎(碧梧桐)が訪ねて来る。

子規に感化されたあげく、途中で学校を辞めて転がり込んで来た。

相談なしに行動する事をたしなめる子規だが、彼自身がその張本人。

やむなく碧梧桐は同居させ、虚子は近所の下宿を世話した。
従軍したいという思いが募る子規。それを断り続ける羯南だが、年が明けて従軍記者を派遣する必要が出た。再び懇願する子規に根負けする羯南。子規は3月3日に、見送られながら新橋駅から発った。

威海衛
標題の戦いは、明治28年正月から2月にかけて行われた海陸両面の戦い。
前年9月の黄海海戦、10月の旅順占領を行ったが、清帝国の北京城まで侵攻する必要があった。そのために第二軍を強化。

それを直隷平野へ安全に送るため威海衛(いかいえい)攻撃を決定。
第二軍集結地の大連から海路栄城湾に入り、陸路で威海衛要塞の背後を突く。
第一回目の輸送は1月19日。22日まで3回行われた。一回目のみ護衛艦が付けられたが、以降は護衛なしの丸腰。北洋艦隊がいる威海衛の湾口を通るものであり、攻撃されなかったのは偶然。

伊東は後に、批評家に酷評されたという。
だがこの批評は当たらず。元々威海衛湾内の敵艦隊撲滅が大本営の命令。伊東が調べた限りでは、湾口を塞ぐ防材が堅牢で、艦隊の出入りは不可能。防材は清国のドイツ人傭技師が設計。
伊東は、水雷艇を湾内に潜入させ、魚雷攻撃を行った。

魚雷は英国の発明だが、発明されて30年足らず。

魚雷艇の集中運用も今まで行われたことはなかった。

世界初の水雷戦を見るため、各国が観戦用の軍艦を派遣した。

2月3日に防材爆破。夜襲は5日未明に行われた。参加したのは10隻。月はなく、あまりに暗いため各艇ばらばらの行動で魚雷を発射。

敵攻撃もあったが幸い損失なし。
戦果がわからず伊東は腹が立ったが、あとで丁汝昌の旗艦「定遠」を撃破していた事が判明。
後に語られる「定遠」内の状況。第一波攻撃で定遠に一弾が命中し浸水。沈没を避けるため浅瀬に乗り上げ停船。

その後の第二波で「来遠」「威遠」と汽船が撃沈された。

清国の北洋艦隊司令長官 丁汝昌ほど悲痛な提督は、近代戦史にもまれであろう。
彼の出た安徽省には海軍出身者はほとんどなく、また正規の武士あがりでもないため、軽く扱われた。作戦行動には全て北京政府からの指令が必要であり、それを出すのは文官(軍事のシロウト)。
旅順戦では丁が応援を進言したが容れられず、その陥落後は逆に応援しなかった事で罰せられた。
今回丁は、防材敷設の事もあり港外出撃を固く禁じられていた。

また日本軍が来る前、防御の手薄を心配し李鴻章に、海兵補充での砲台防備を進言したが、陸軍司令官 戴宗騫(たいそうけん)が越権だと撥ね付けた。

その結果、丁汝昌の心配通り、日本の第二軍が上陸すると清国
陸軍は、ほとんど抵抗せぬまま砲台を捨てて逃げた。

日本軍による水雷攻撃の時は、清国水兵の士気が低下し反乱の気配さえあった。各艦の長は部下から降伏を強要される。
伊東は、水雷攻撃より前に丁汝昌へ降伏を勧めようと思っていた。

薩摩人としての寛容。

第二軍司令官 大山巌の了解を得てその文書を起草した。
貴国の連敗の真の原因は他にある。制度が悪い。新しい秩序への切り替えなくば滅亡をまぬがれない。
そして、亡命して時節を待てとまで書いた。

ドイツに降伏したフランス将校の例がある。
この書簡には大山も署名。

それが丁汝昌の手に渡ったのは1月24日。
2月12日、砲艦「鎮北」からの白旗と共に乞降書が届いた。

決戦を考えたが、今は休戦を乞う。

艦船と砲台は全て献ずるから戦闘員と人民の帰還を許されよ・・・
復書と共にころ柿、シャンペンと葡萄酒を送った。その復書には謝意と共に、贈られたものは有事の事でもあり謹んで返上す、とあった。
使者は自分が乗って来た船のマストにある半旗を指した。

昨夜、丁汝昌が服毒自殺したという。
その後清国が、丁汝昌も含めた死者の移送をジャンク(シナ式帆船)に乗せて行うという提案をしたが、伊東は不可とした。
北洋艦隊司令官としての敬意を込め、没収戦艦のうち一隻を外し、帰還船に充ててよい、とした。
降伏調印がなされたのは2月14日。

須磨の灯
子規の従軍は、結局子供の遊びの様なものに終わった。
大連に入港し旅順を回り、金州城に入った。既に戦いはなく、李鴻章が下関に来て講和談判をする状況。
滞在はひと月あまり。5月14日に帰国の船に乗った。
だがその途中ひどい喀血をした。

船は下関を経て22日、神戸港に着く。
その時にはもう歩く気力もなく、仲間の新聞記者の手配で神戸病院に担ぎ込まれた。
陸羯南は、退学して東京にいた高浜虚子に、介抱に行くよう命じた。
子規は日に数回喀血し、食事はさじ一杯の牛乳も飲めない。

医師による栄養浣腸の処置。
それを知った子規は努めて口からの栄養を摂るよう努め、なんとか峠は過ぎた 
そこに二ケ月入院し、その後須磨の保養院に転院。
小康を得て、ひと月ほどで保養院を切り上げ、故郷の伊予松山に帰った子規。だが正岡の家は既にないため母の実家の大原家に落ち着く。
その後、大学時代からの友人、夏目漱石が住む下宿の一階に転居した。漱石は松山中学の英語教師をしていた。
子規が来たために俳句熱が高まり、多くの者が訪れるようになって、漱石は読書を妨げられた。

この時期、真之の乗る軍艦「筑紫」が呉に入港。船体には被弾の痕。威海衛包囲に参加した折りに砲弾を食らい、数名の死者を出した。
数日の休暇が出たため、松山にいる子規に会いに行った真之。
いくさの状況を聞きたがる子規。被弾した時の事を話す真之。

艦隊か砲台からは不明だが、爆発せぬまま船体を貫いた。

その時下士官一、兵二が即死した。
日本軍は強かったという子規に「相手が弱すぎたのだ」
操艦と艦隊運動は見事だが砲術がまずい。

後の検証では日本の命中率12%に対し清国は20%。
次はロシアか?の問いに言葉を濁す真之。まず砲術訓練をやり直しての話。また、戦争には外交も絡む。支援する国がなければ無理。

それは英国かも知れない。
日清戦争では当初清国を支援した英国だが、戦況を見てにわかに態度を変えた。
水雷攻撃の最中、その艇長鈴木貫太郎に対し、観戦に来ていた英国艦長が支援を申し出たという。英国政府自身の方針が変わった。

10月19日、滞在していた下宿を発った子規。帰京の途中、あちこちを見て回った。その途中で腰骨が痛み出した。長年子規を苦しめるカリエスの発症。途中休みながら大阪と奈良に遊んだ。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
の句はこの時のもの。

渡米
これより以前、好古は結婚した。元々軍人は結婚すべきではないという主義。雑事に煩わされて研究もおろそかになる。

真之にもそう教育したのが、好古の方が結婚した。齢35歳。

その前年に母親を引き取って同居していたのがその理由。
新婦は、少尉の頃下宿していた佐久間家の長女多美。24歳だった。
好古が内地凱旋したのは明治28年5月。戦時中の給料数ケ月分を部下に丸ごと渡して凱旋祝いの費用にしてしまった。

留守宅の生活費などに留意する頭はない。
翌29年に陸軍乗馬大学校長に補せられた。
明治30年、好古は「本邦騎兵用法論」を書き、それを元に翌年兵法操典が改正された。翻訳ものから日本独自に変わった最初の操典。

戦後大尉になった真之。29年5月に横須賀水雷団第二水雷艇隊付の辞令を受ける。兵学校で特に親しかった、二期上の広瀬武夫と同部門。再会を互いに喜んだが、二ケ月後には人事で再び別れた。
広瀬のエピソード。彼の祖母が八十歳になった時、広瀬は自身の正装と、もう一枚下帯だけの裸の写真を撮らせて、それを祖母に送った。

幼時に母を失い、祖母に育てられた広瀬の恩返し。
翌30年になって再び広瀬と同じ勤務となる真之。

侵略政策を取るロシアを仮想敵として、29年11月、真之が軍令部付の辞令を受ける。内容は諜報課員。
次いで広瀬も30年3月に軍令部付となった。

そして真之はアメリカ、広瀬はロシアへ派遣された。
兵学校の卒業席次が悪かった広瀬だが、偶然ロシア語の独習をしていたのが反映された。
真之の母貞は、広瀬のことも可愛がった。

餅が届いた時など真之と共に呼んで食べさせ、二人で餅食い競争。

真之18個、広瀬21個。祖母の話などを貞に話した広瀬。

秋山真之、広瀬武夫とも留学辞令は明治30年6月26日。
赴任を前にして子規を見舞った真之。この3月に手術をして穴があいており、そこから膿が出る。時々畳針を突っ込むような痛みだという。
たまに痛みが和らぐ時に絵や俳句をやっていると言った。
子規の容体を思い、家を辞した真之。

送別の句をもらうのを忘れたが「日本」に送別の句を載せた子規。
君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く
 
真之の渡米先の所属は、日本公使館だった。そこの武官 成田勝郎中佐の監督を受ける。成田中佐に問われて、アメリカでは戦略と戦術の研究を行うと言った。命令ではなく自発的だとも。

当時派遣者に対する細かい規定はなかった。
アメリカ海軍が初めて日本に接触したのは、あのペリー来航。

だが当時のアメリカ海軍は二流。それが伸張するきっかけは、ロシアからのアラスカ購入(1867年)。次いで1878(明治11)年、サモア群島を入手し、1887(明治20)年にハワイ群島を手に入れる。
新興海軍と言われていたアメリカが拡張期に入ったのは、国内の工業生産力、技術能力が向上したのが要因。
真之の発想法は、物事の要点は何かという事。

そして不要不急のものの切り捨て。
アメリカ海軍の優れた点は発想の柔軟さ。装甲は厚いほどいいが、それに伴い自重が増えて戦闘力、航続力が落ちる。

自国の製鋼産業に、薄くて強力な装甲板を作らせることに成功した。
また戦術家として特に優れた二名をこの海軍が持っていること。

現職の海軍大学校長のカスパー・グードリッチと、予備役ながら高名なアルフレッド・セイヤー・マハン大佐。
真之は海軍大学校への入校を希望したが、機密保持のため断られた。
グードリッチ大佐に紹介状を書いてもらい、マハン大佐に面会する事が出来た。
彼の海軍歴は古く、戊辰戦争の頃日本にも来た。

その後海軍大学校の教官になり、戦略戦術を研究した。
真之もほとんど全巻を暗誦するほど読んだ「海上権力史論」の著者。
マハンが伝授した学習方法は、過去の戦史からの実例を徹底的に調べること。陸と海の区別なし。
それから得た知識を分解し、編成し直して自分なりの原理原則を打ち立てる。「おれの考えと似ている」と真之は思った。
その後もう一度マハンを訪ねたが、それは雑談だけ。
その後真之は、毎日海軍省に通って各戦史を漁り、諸大家の論文を読み込んだ。
日露戦争の海軍戦術は、このワシントンから生まれたと言っていい。

米西戦争
アメリカは、自国の自由な社会を他地域に及ぼすという、奇妙な親切心(おせっかい)の意識が強い。
そういう中でキューバ問題が過熱。多くの植民地をアメリカ大陸に持っていたスペインだが、次々に独立。プエルトリコとキューバはその流れから取り残され、スペインの圧政に苦しんでいた。
1895年に起こした独立戦争は鎮圧され、虐殺と破壊が行われた。

それに対して中立を守る政府に、アメリカの低級な新聞(いわゆるイエロー・ペーパー)が戦争気分を煽った。
やっと腰を上げた米政府は1898(明治31)年2月、開戦準備のための国防支出を決定した。
そして米国議会はスペイン政府に、キューバからの撤退を要求。

驚いたスペインはヨーロッパ各国に事情を訴えた。

だがアメリカが政策を進行したため、スペインは4月23日宣戦布告。
次いでアメリカも二日後に宣戦布告。
運がいい、と言う点では若い日本海軍士官の中では真之が一番。

なぜならこの米西戦争でアメリカ軍が行った封鎖作戦をその目で見たから。それが日露戦争で生きた。
アメリカ軍司令官はサムソン少将、対するスペイン側はセルベラ少将。
読書マニアの真之は、スペインの歴史を調べた。15、6世紀のスペイン王国は、国家そのものが巨大な冒険家。世界のすみずみまで出掛け、未開地帯を領土とした。南アメリカのほとんど、ヨーロッパの多くを手中に収めたその頃が栄光の最後。その後イギリス本土を襲おうとし
た。史上有名な無敵艦隊。戦艦127隻、砲二千門。
それに対しイギリス軍は80隻の戦艦しか持っていなかった。だが機動性が高く、士官の指揮能力も優れていたため、スペイン軍は大敗。

これを境に凋落が始まった。
もっと深くに問題がある。民族的性格、活力の方向。
文明が進むと、個人ではなく組織を有機的に動かして大きな仕事が行える様になる。スペイン人にはそれが欠ける。

スペインのセルベラ艦隊は、1万4千マイルという長旅を経てキューバ島のサンチアゴ港に入った。
その情報がサムソン艦隊にも入る。

海上決戦を望むサムソンに対し、艦隊保全したいセルベラ。
そんな時に提案されたのが封鎖作戦。

提案したのは機関科のホブソン技師。自ら指揮官を志願し、決死隊員を募って自沈用の汽船「メリマック」を6月3日未明に出航させた。
この作戦は敵に見つかり砲撃を受け、自沈できたものの湾口に対しタテに沈んだため閉塞としては失敗。
次いでサムソンは港外からの遠距離射撃を行ったが、当然当たらない。
攻撃に耐えて時間稼ぎするセルベラ艦隊。外交活動が実を結ぶ可能性もある一方あせりを覚えるサムソン。大衆世論の圧力。
陸軍を以て要塞を攻め落とすしかなく、6月22日それを実行した。

だが旧式とはいえ要塞相手にアメリカ軍の火砲は貧弱だった。

また兵士らも命を賭けるほどの切迫さはない。

だが戦局は意外なところから転換。セルベラ司令官に、本国の国防省から「サンチアゴ湾を脱出せよ」の指令。

攻略されているフィリピンへの救援が目的。
冗談ではない。艦隊は海兵を出して陸戦の支援を行っている。それを引き上げれば要塞は落ち、それはキューバを放棄するのと同じ。

だが何を言っても指令が繰り返される。 
7月3日を脱出日として行動開始するセルベラ艦隊。

だが準備を整えていたサムソン艦隊が一斉に攻撃。
結局スペイン艦隊は、全て撃沈又は拿捕された。
真之は、他の観戦武官と共に戦いの実態聞き取りを行った。

その後真之はスペイン艦隊の軍艦4隻の弾痕調査を行った。どの武官も見落としていた。調査に基づいて「西艦隊被弾痕統計表」を日本に送った。それにより判明したのは、被弾よりも火災が致命的な打撃。

8月3日、ワシントンに戻った真之。ポケットから干し豆を出しては食べる。これがほとんど主食。母から絶えず送ってもらっていた。
真之の戦術能力を強く印象付けたのは、このキューバにおける米西戦争のレポート。これが日本海軍の上層部を驚嘆させ、真之が東郷艦隊の参謀に選ばれる要因となった。
このレポートを真之は、ワシントンに戻ってから数日で書き上げて本国へ送った。
その後数日はディケンズの小説を読みふけったという。

この年(明治31年)の9月にあの小村寿太郎が駐米公使として赴任して来た。北京時代についたあだ名が「ねずみ公使」
いくつかの言行録がある。政党論:日本の政党は、憲法政治の迷想から出来上がった一種のフィクション。政治家としてのワシントンを高く評価する。彼の外交は嘘をつかない。
米国観:日本の武士に似ている。名誉と義侠に満ち、弱い者を愛する。だが最近のカリフォルニア州の排日運動問題が意外だった。日本人移民の生活力の凄まじさ。地元に金を落とさない。
ある日真之にインディアンの話をした小村。原住民インディアンと敵対した白人は、最も勇敢と言われるイロコワ族と親密になり酒と銃を与えた。彼らと同盟を結び、他の種族を平らげさせた。北米に180万いた有色人種は自滅してしまった。
シナを巡って英国の利権を各国が侵そうとしている。英国は東アジアにイロコワ族を見つけたい。それが日本。相手の魂胆を知り抜いた上で、イロコワにならざるを得ない。
桝本卯平のこと。
小村と同郷人で、大学の造船科を卒業した時、アメリカに赴任する小村に誘われ同行した。そしてクランプ造船所に職工として働くことになる。そこで作っていたのが、ロシアが発注した巡洋艦「ワリャーグ」
造艦技術の習得をロシア戦艦で行うという奇妙さ。

子規庵
子規は相変わらず、根岸の里で病を養っている。
病勢の進みは遅いが、時に腰痛が甚だしい。真之からの手紙で、彼の観戦については知っていた。子規の天地はこの六畳と小庭でしかない。この小さな庭を写生する事によって句を作った。
この頃の、子規による既成歌壇への批判は凄まじいものだった。

それでも世間が我慢するのは病人だからだ、と子規は言った。
この時期に子規は俳句革新をほぼ成し遂げていた。

世間も認める。残るは短歌。
俳句と違って短歌は江戸時代以来、知識階級のもの。そんな中で「日本」に和歌批判の連載を開始した。当然攻撃されたが、そういう反論に徹底して論駁する子規。周辺の者は「恨みを受ける」と心配した。

明治32年、真之は米海軍省に頼み込んで戦艦「ニューヨーク」に乗せてもらい、7ケ月間の艦隊勤務を経験した。
その後日本からの命令で英国に行った。公使館付の駐在武官。
そして翌33年5月に帰国命令が来た。

この時期新聞「日本」が売れていない。陸羯南が明治22年に創刊したが、社是自体が民権主義を取っておらず、国権主義。当時民権がややハイカラで、国権はやや保守。この微妙な差が不振の要因。
一方子規が個人で仲間と出している雑誌「ホトトギス」は大いに売れている。だが羯南は子規に「日本」へ書いてくれとは言わない。

そのやさしさに子規は落涙する。
だが子規にとっては俳句革新の重要な媒体である「ホトトギス」の方が比重が高い。
9月8日、夏目漱石が英国留学に出発してから数日して、真之が帰国した。
真之が見舞いに行くと、子規はアメリカの話をねだったが、箇条書きの様な話しぶりに閉口。
子規が取り組む改革の凄まじさに接した真之は、自分自身が思っていた事を話す。
軍艦は一度遠洋航海に出ると、船底にかきがらが付いて船速が落ちる。人間も同じで、増える分と同じだけかきがらが頭に付く。

知恵だけ取ってかきがらを捨てるのが難しい。
真之のアメリカ評。素人くさいが、それが恐ろしい。

固定概念がないから、合理的だと思うものはどしどし採用する。

それでスペイン海軍は敗北した。

帰国後真之が「兵棋演習」の採用に奔走した。アメリカ海軍が戦術に使っていたもの。小さな各種軍艦の模型を地図上に並べての演習。
従来は英国式の図上演習であり、海図の上に赤や青のエンピツで線を引き作戦を進める。
兵棋演習には、図上演習に比べて大きな利点があった。

兵棋はその性能によって動くため、作戦の具体化、繰り返しによる習熟も期待出来る。
この提案はさっそく海軍当局に採用された。

列強
この19世紀は、列強の陰謀と戦争の舞台でしかない。
その列強はシナに対して強い食欲を持ち続けていたが、過大評価もあって侵略を抑制していた。
だが日清戦争においてその実体がさらけ出された。

政府大官の怠慢、兵士たちの忠誠心のなさ。
日本は日清戦争の結果、2億両の賠償金と台湾、澎湖島(ほうことう)及び遼東半島を得た。
調印は明治28(1895)年4月17日に行われたが、その直後ロシアがフランスとドイツを味方に付けて遼東半島をシナに返還するよう要求(三国干渉)。
当時ロシアと戦う国力はなく、日本は遼東半島を返還した。
 

ロシアの沿革
元は人口希薄な東欧に点在する部落として生活していたスラヴ(ロシア)人。彼らは他民族に征服される事により国家というものを知った。
13世紀にモンゴル人の征服を受けた。封建制が敷かれキプチャック国が建設された。その支配は200年以上続いたが、のちにイワン三世がキプチャック国を滅ぼし、ロシア圏の原型が出来る。
日清戦争当時の支配者 ロマノフ王家が出来たのは1613年。日本の徳川幕府成立の頃。
16世紀頃になるとロシア人も、毛皮を代表とする商業的情熱を持ち始めた。シベリアに向かってロシアが伸張したのは毛皮のため。
17世紀以降、ロシアの毛皮は専売制を取り、国家の財源になった。
ロシア人は、領土意識の乏しい先住民族を征服して領土を広げて行った。長い年月の間にその侵略はカムチャツカ半島にまで達し、その後初めて日本と接触した。日露戦争から約150年前。
ピョートル大帝は、ロシアを一新した人物(追記:1682年生)
機械いじりが病的に好きだった。16歳の時、既に即位している身で造船所へ職工として働いた。のちに船大工になる。
様々なものに興味を持ち、何となればどんな部門のエキスパートにもなれただろう。
彼が25歳の時、政治家たちを従え、250人の団体で西欧文明の見学旅行を行った。貴族らの意識改革。そしてピョートルは改革と西欧化を断行したが、これらを成し得たのは君主専制国家だったから。

ロシア的事情による君主(ツァーリ)。

くだって日露戦争を起こしたのもツァーリの意思によるもの。

日露戦争当時のロシア皇帝はニコライ二世。その父はアレクサンドル三世。この二人の皇帝に仕えたのがウィッテ。

大蔵大臣ののちに総理大臣となった。
アレクサンドル三世の時代にはロシア的資本主義がほぼ完成し都市労働者、富裕階級も出来てその専制体制が綻びつつあった。
愚かな君主が現れた場合、その国は恐るべき試練を受ける、とウィッテは言っているが、それは彼の反対を退けて日露戦争をやってしまったニコライ二世に向けられるもの。
ニコライ二世は平素から日本人の事を公文書にまで「猿」と書いた。
彼が24歳の時日本を訪問した。明治24年5月11日、警備中の巡査 津田三蔵が抜刀してニコライ二世に斬り付けた。攘夷主義信者であり、ロシアによる侵略を妄想した。ニコライ二世の命には別条なかったが多量に出血し、生涯の傷あとが残った。この事件に、明治帝自ら見
舞いに行き、帰国の際も桟橋まで見送った。

この記憶が彼をして日本人を「猿」と呼ばせる。

ピョートル大帝の近代化によって、ロシアにも国家的膨張に対する動きが進み、不凍港を得たいという関心ともなった。それが極東侵攻。
1881年、ロシア軍艦により対馬が占拠される事件が起きた。対馬の一部を租借地としてくれれば、我々が朝鮮を奪って対馬藩に差し上げるという。都合のいい話。
この一件は、駐日英国大使が自国の艦隊勢力を背景に抗議した事により落着した。この当時はアレクサンドル二世の統治。この後もロシアはカラフトや千島に勢力を伸ばし、ひいては日本における維新への刺戟剤となった。
このアレクサンドル二世が暗殺により斃れ、アレクサンドル三世が36歳で即位した。
その後のロシアはヨーロッパへの野心を捨て、極東に向けた。

シベリア鉄道の敷設でそれはい
よいよ露骨になる。この帝は満州と朝鮮だけを残して死んだ。
ニコライ二世が27歳で即位(1894年)。
「猿」は満州をむしり取ろうとしている、との思いからの三国干渉。
干渉側(露、独、仏)の名目は「東洋の平和のため」だったが、ドイツはこのあといきなり膠州湾(青島)を清国から奪った。それにあたっては事前に露、独での密談があり了承されていた。
この強奪を利用してロシアによる遼東半島の旅順、大連占領が計画される。ウィッテは日露戦争を危惧して反対した。それに露清条約の存在もあった。ウィッテの主眼はシナを「眠れる状態」の家畜にしておく。今あせって肉にしてはならない。また、今遼東を奪うことはロシアの
本心が暴露され、シナからの疑惑も受けて、極東発展の障害となる。だが皇帝は占領案を採用した。
明治30(1899)年12月18日、ロシア艦隊が旅順と大連に入り、上陸して占領した。仰天する中国人。
年が明けて陸軍大臣が交代。秀才として名高いクロパトキン将軍が就任。ウィッテは彼の柔軟さに期待して、奪った両港の放棄を提案するが、クロパトキンはそれ以上を主張。
旅順と大連を奪ってもそれは港だけ。要塞を作るとなれば遼東半島全てが必要。結局これが採択された。

決まった以上はその遂行に力を注ぐウィッテ。
だが清国の独裁権を持つ西太后に、英国と日本の外交がバックアップしていた。
ウィッテの作戦は賄賂。その相手は李鴻章。公式行事で会話した記憶があり、彼が皇帝への報告を、事情に合わせてコントロールしている事を承知していた。
李鴻章と、それに次する権力者に送られた賄賂の効果で西太后は説得され、遼東半島はロシアのものとなった。調印は明治31年3月15日。
ロシアが手にした遼東半島南部は「関東州」と呼ばれる。三方海に面し金州湾、大連湾、旅順港を有する。
この旅順に大要塞を建築しなくてはならない。

大蔵大臣のウィッテが許すかどうか?
ウィッテは非常支出として9千万ルーブルという巨額を捻出した。

この関東州租借以前から、いわゆる義和団の乱が起こっていた。
列強がこぞって中国の土地、利権を奪い、大量の商品流入で農民から仕事を奪った。それが義和団運動として拡大。
中国にはナショナリズムはない、としてやりたい放題だった列強に対し、ようやく反抗を始めた。

義和団が白蓮教という土俗宗教により統一された。
明治33(1900)年6月、20万の義和団が戦いながら首都北京に入り、諸外国の公館は孤立した。彼らの多くは母国が遠い。
日本と協調的な英国が、日本による出兵を主張し、米国も支持。

ドイツとロシアは難色を示したが、結局日本が総兵力二万の大部分を出兵して連合軍に合流した。この時騎兵大佐の秋山好古も出征した。
連合国組織は英、独、米、仏、伊、墺(オーストリア)、日、露。日露両軍が主力をなした。
各地で戦いを制しつつ、8月15日に北京へ入城し、各国公使館員たちを救った(北清事変)。
この時日本以外の兵がやった無差別殺戮と略奪は、凄まじいものだった。ただし日本は一兵たりとも略奪はせず。条約改正の課題があり「文明国」としてのふるまいに神経を尖らせた。
クロパトキンは、この機に乗じ大兵を投入して全満州を占領し、居座ってしまった。むろん違法。

北清事変後、連合軍は解散され、各国の駐屯司令部は北京と天津に置かれた。天津における日本の司令部は「清国駐屯軍守備隊司令部」と称され、その司令官は秋山好古大佐。
好古は、日本人だけでなく外国の要人からも好かれた。外交の才があると言われた。
外交に興味はなかったが、明治34(1901)年10月に昇格して「清国駐屯軍」司令官を兼ねるようになったため、外交問題にも責任が生じる。
清王朝最大の実力者は李鴻章だったが、北清事変清算後に病没(1901年)
それに代わって有力者になったのが袁世凱。非常に食えない男。北清事変当時、自身の兵を出さず清軍、義和団潰滅後に、自軍を率いて戦後経営に乗り出した。好古が天津にいた当時は直隷総督。 
これが、おかしいほど好古を信頼した。
諜報部門から、ロシアと清国が秘密条約を結ぶという不確認情報を得た好古は、軍指令部付の佐藤安之助に指示して、その真偽を袁世凱の元へ確認に行かせた。それほどに信頼関係が出来ていた。袁は佐藤に全てを語ったという。好古の報告でいったんその計画は流れた。

明治34年4月8日付時事新報記事「露国、満州占領を宣言」
ロシアは満州だけでなく、それに連なる朝鮮半島をも占領する意図を持っていた。それを吹き込んだのが寵臣ベゾブラゾフ。

極めてまれな雄弁のため、ニコライ二世の信頼を得ている。
国策会社を進出させて資本をたっぷり注ぎ込めば、兵力を使わず朝鮮半島を得ることが出来ると吹き込む。ニコライ二世はこれに乗った。
ベゾブラゾフと並んで、極東における強い支配力を持つのがアレクセーエフ関東州総督。
この露骨な侵略に同盟国のドイツが、日本の対露戦準備の事を話した時、ロシア皇帝は「戦争はありえない」と言った。
「なぜならば、私が戦争を欲しないから」
威圧すれば事は足りる、彼らは戦争をする能力がないから、戦争はロシアが欲しない限り起こらないという論法。