坂の上の雲 三  作:司馬遼太郎 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

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三巻感想
ロシアとの開戦に向けて外交面での緊張が高まって行く。
そんな中で正岡子規が亡くなる。
山本権兵衛。日露戦争の10年前からそれを予想して準備を重ねて来た。ごんべえではなく「ごんのひょうえ」
海戦の立役者としては真之が目立っているが、真の主役はこの人だろう。外交の行き詰まりを経て開戦に至る道程も、かなり読み応えがあった。日英同盟の締結は日本にとって朗報。
日本側の最終交渉をロシアが蹴り、開戦となった。旅順口での閉塞作戦により命を落とした広瀬武夫。

日本側の仕掛けた機雷で「ロシアの至宝」と言われたマカロフを葬った日本海軍が、同じ機雷で報復を受けて戦艦2隻を含む8隻を失い、四巻に続く。

この小説の舞台 広域→旅順




坂の上の雲 三 あらすじ

十七夜
真之は海外勤務を解かれて明治33(1900)年夏に帰国。

翌34年、海軍少佐となった。
海軍戦術の研究に熱中する毎日。日本海軍において戦術家と言える者は少ない。島村速雄と山屋他人ぐらい。よって真之は全てを自分で進めなくてはならなかった。世の兵書をとにかく読み込んだ。

「秋山の天才は物事の帰納する力だ」と言われた。あらゆるものを並べて、そこから純粋原理を引き出すのが真之の得意技。
逸話がある。胃腸を病み入院した時に手に入れた「能島流海賊古法」(小笠原長生の差し入れ)を読みふけり、小笠原に「目が開かれた」と感謝した。
真之が感銘したのは「全力をあげて、敵の分力を撃つ」そのための陣形が「長蛇ノ陣」
近代海軍で言う「縦陣」これが秋山戦術の基本となり、日本海海戦の戦法になって行く。
他にも真之が水軍の戦法を参考にしたものが、いくつかある。

真之は明治35(1902)年7月に出来た、海軍大学校の教官になった。

担当は「戦術講座」
その講義は不朽といわれるほどだったらしい。

いかなる原典も使わず、自分で体系化した海軍軍学を、教えるだけでなく秘訣も教え、個々に自分の戦術を打ち立てよと説いた。
中には兵学校で真之を教えた様な先輩も受講生となったが、一切容赦しない真之。「どうも天才だが、人徳がない」との声もあった。
具体性に富む真之の講座の仮想敵。それは「ロシア艦隊」。あらゆるロシア資料を集めて、戦いを教室に再現して学生と共に研究した。
この学生たちが日露戦争での各戦隊の参謀となって、真之の指示の下に一糸乱れぬ作戦を遂行した。
 

東京へ移ってから、真之は一度子規を根岸の家へ見舞った。

別人の様に衰えていた子規。
ロシアとの戦争を聞かれ、すれば恐らく日本人の一割は死ぬかも知れないと言う真之。
結局この見舞いが、真之と子規の最後の対面となった。
その後一ケ月ほど生きた子規。
子規がキヨシさんと言う若い門人、高浜虚子はほとんどつききりで看病した。子規が「病床六尺」として書く日課の短文は、虚子らの口述筆記となった。
子規が死んだのは明治35(1902)年9月19日未明。
仲間に子規の死を伝えに行こうと外に出ると、十七夜の月が変わりなく輝いている。
子規逝くや十七日の月明に
子規が文学的生命をかけていた写生を、今虚子は行ったつもりだった。
質素でよいという子規の遺言に反して、会葬者は百五十人集まった。
読経も終わり、出棺する時、真之がやって来た。柩を睨み付けるように見た後、ぺこりと頭をさげた。そのまま立ち、葬列にはついて行かず、お八重、お律の居る家に入り焼香をした後に、去った。

権兵衛のこと
日露戦争の運転者の一人がニコライ二世。

よって彼について多くを割いた。
では日本側。日本の政治家のほとんどは、ロシアと戦って勝てるなどとは夢にも思わず、代表格の伊藤博文などは「恐露家」と言われていた。英国を同盟者にしようとした時でもロシアを主張した伊藤。
軍部はどうか。問題は海軍。

日本は海軍を強化しなければならない。これをやってのけたのが山本権兵衛(ごんのひょうえ)。世間ではごんべえと言う。
その前に日本の国家予算に触れる。
明治28年に終わった日清戦争での総歳出は9160万円。

その翌年度の総歳出は、平時にも関わらず約2億。この戦争準備の大予算自体が奇蹟だが、それに耐えた国民の方がむしろ奇蹟。
過ぎ去った時代への理解は困難が伴う。例えば三国干渉による遼東返還の後「臥薪嘗胆」という言葉が流行した。

これは単なる流行語ではなく、時代のエネルギーとなっていた。
大建艦計画は、この様な背景で遂行された。
明治29年から始まった建艦十カ年計画。30年度の軍事費は総歳出の55%。飢餓予算とも言えるものだが、国民からの不満はほとんど出なかった。
そして日露戦争直前には、世界の五大海軍国の末端に連なった。

明治10(1877)年頃、山本権兵衛はドイツで軍艦に乗って海軍修行をしていた。その間にドイツがニカラグアと紛争をおこした時、従軍を迫られたため帰国。
その後の10年は軍艦の分隊長、輸入軍艦の回航委員等目立ったものはないが、明治20(1887)年、36歳で海軍大臣の副官になってから軍政に関わるようになる。
明治24年、海軍大臣の「官房主事」になってから、日本海軍の作り直しに辣腕をふるう。
権兵衛が仕えた海軍大臣は西郷従道(つぐみち)。

従道は、西郷隆盛の弟。
薩摩人の一典型であり、一切を任せる実務家を見つけ、その者に一切を任す。失敗すれば腹を切る。
日清間が危うくなった時、権兵衛を起用して「思うとおりにやってください」と伝えた。
日清戦争前に権兵衛がやった最大の仕事は、海軍省の老朽、無能幹部の一掃。権兵衛にとっては全て上官もしくは先輩。

将官と佐官合わせて96名。この首切りを自ら行った権兵衛。
明治26(1893)年の、この大整理の時「海軍大佐東郷平八郎も整理のリストに入っていた。国際法に詳しいが、無口で多病。

東郷の人物を多少知っていた権兵衛は、この人事を保留した。
それで「浪速」の艦長に戻り、日清開戦早々、英国汽船「高陞号」を撃沈した東郷。
後に権兵衛は東郷を呼び、この時の判断について質した。法律上は正しいが、私なら撃沈せず拿捕すると言った権兵衛に、微笑で服する旨を表わした東郷。この時彼の資質を大きく評価した権兵衛。

第三次伊藤博文内閣の時、閣議で「海軍拡張計画案」が出された。

2億円という途方もないもの。
大蔵大臣井上馨、伊藤博文らの、説明せよという声に「実はわしもわからん」と西郷。
それで呼び出されて説明した権兵衛。

閣僚に彼の存在が知られたのはその時から。
戦艦三笠を英国に発注したのは明治31(1898)年だったが、海軍予算はもうなく、前渡金が捻出出来ない。
万策尽きて西郷に相談すると、買わなければならない、と言う。
だから予算を流用するのです。もちろん違憲。
議会で追及されて、もし許されなかったら二人で腹を切りましょう。
三笠は、この西郷の決断で出来た。二人はそういう関係だった。

外交
満州に居座ったロシアは、北部朝鮮にまで手を伸ばしている。

当然それは日本の国家利害と衝突する。
朝鮮は日本の植民地ではないが、大陸からの圧力を弱めるクッションであり、市場としても期待した。工業力に乏しく、売りつけるべきものもない状況で、形だけは列強の真似をした。

その前提で朝鮮は日本の生命線。
満州を取ったロシアは、やがて朝鮮を取る。日露戦争にもし日本が負けていれば、朝鮮がロシア領になっていたのは明白。

日本までの領有はされなかっただろうが、莫大な賠償金のために産業は停滞、北海道は取られる。

ロシアの南下を止めるため、いっそロシアと攻守同盟を結ぼうと考えたのが伊藤博文。
だがそれは盗賊に、自分の村だけは守ってくれと言うようなもの
ロシアの横暴については英国も注目していた。産業革命の先進国であるため、英国に富が集まった。だがロシアがインドにまで向かう様なことになれば、英国は市場を失う。
老獪な英国外交は、戦争を避けながら共通利害の国に働きかけて、課題を処理して来た。
青島を略奪したドイツが関係者になった事で、英独同盟が提案される。なんとなれば英独日同盟。
その提案をしたのが、ドイツの駐英代理公使 ヘルマン・フォン・エッカルドシュタイン。それを吹き込まれた英国の植民大臣ジョセフ・チェンバレンは心を動かす。
エッカルドシュタインは一方で、日本の駐英公使林董(ただす)に口ばかりの英独日同盟を持ちかける。
チェンバレンはこの話を真に受け、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世に交渉を開始したところ、ロシアとフランスの同盟関係から、敵対出来ないとの返事。
林の報告を受けた外務省は、英国と同盟したかった。

だが国力が違いすぎる。対等の同盟は難しい。

そんな中、ともかく日英同盟への交渉を進める林。
相談された伊藤博文は、否定はしなかった。
ランズタウン外相を訪ねる林。意外にもランズタウンは同盟の必要性を認めた。ロシアの侵略行動に恐れをなす英国。
林からの電報を受けて議論する首脳たち。内閣は、伊藤博文が退いた後明治34(1901)年6月2日に桂太郎が引き継いだ。
英国の真意が計り兼ねるが、彼ら自身南阿戦争に手を焼いている事情もある。
元老会議が開催され、日英同盟締結への方向性が確認された。

自分個人で対露交渉を進めようと決意する伊藤。

外遊予定の後半でロシアに渡ろうと考える伊藤は、米国経由で渡欧した。これから対露交渉に行くと聞いて仰天する林だが、結局ロシアを訪れる伊藤。
ウィッテ、外相ラムスドルフとの会談で、外交に関する戦争回避の感触を得る宇藤。伊藤は、ベルリンでロシアからの正式回答を入手するが、内容の乖離に茫然とする伊藤。
国内での外務大臣は小村寿太郎。伊藤の甘さを笑った。

小村は英、露それぞれの外交の歴史を調べた。ロシアは、他国との同盟破棄など数知れず。対して英国はそういった事は一度もない。

だが伊藤の訪露は、必ずしも無意味ではなかった。
ロンドンでは日英同盟の内容について討議が重ねられていたが、伊藤の訪露で、日本が対露コースへの「二股」をかけているのではないかという疑惑となった。
英国側は、内容について大幅に譲歩し、同盟締結を急いだ。

調印は明治35(1902)年2月25日。その後伊藤は帰国歓迎会の席上で、対露コースへの決別を宣言した。

風雲
ロシア駐在武官の任を解かれて帰国した海軍少佐広瀬武夫は、海軍大学校教官を務めている真之を訪ねて来た。
広瀬のロシア駐在は足かけ6年にも及んだ。その間彼は最も人気のある外国武官であり、士官だけでなく婦人たちにも人気だった。
貴族の中でも特に美人のアリアズナ・コヴァレフスカヤという娘からの求愛を受けていたが、独身主義のため、受けずに帰国した。
ロシア海軍の情報を聞き出す真之。士官は貴族が多いため皇帝への忠誠心も高い。水兵の質も、砲術などの能力は高い。

だが士気となると疑問。彼らの出身は主に農奴。一種の諦めが体質としてある。受動的。そして士官階級は貴族が独占。

よって戦争に対する庶民の関心も低い。
海軍建設について。ドイツが英国に対抗して海軍力増強を始めたのに刺戟され、ロシアがそれに乗り出したのは明治34年から。

20カ年という大計画の下に海軍建設を開始した。
日本はそれに先んじて進めてはいるが、国力の違いは比べるまでもない。

明治36(1903)年、秋山好古は清国から帰って騎兵隊第一旅団長に補されていた。
ロシア陸軍大演習の招待状が届き、観戦武官として好古と大庭二郎歩兵少佐が人選された。
好古がこの日帰宅すると、真之が来ていた。親がわりに対する敬意。
酒の飲み方がひどいと言う好古。そして真之が渡米した際の噂を聞いていた。イタリア系ギャングからいかさま博打で金を巻き上げられ、その後相手を短刀で脅して取り返した話を咎める。
黙って聞いている真之。言いたいだけ言えば上機嫌になるのを知っている。
別れ際にシベリアへ行くとだけ言った好古。内容を話したがらないので「お風邪を召しませんように」とだけ言った真之。

9月4日に出発して浦塩に向かった好古と大庭。ロシア陸軍の意図を聞く大庭に、震えあがらせようとしているのだ、と言って笑う好古。
船は9月10日、浦塩港に着いた。出迎えは、皇族に対するほどの豪華さ。
市中を案内されるが、軍事施設がとばされる。好古は次第に傍若無人ぶりを発揮して、馬車を止め勝手に見て回り、接待役のミルスキー大尉は困惑。その上軍事機密に関する質問を次々に出す。

用心しながらも、たまに本当の事を言わされてしまう。
その晩の歓迎宴会は盛り上がり、現場の騎兵隊の長らと意気投合。
なんと気持ちのいい奴らだ、と思いつつ、戦争となれば戦わなくてはならない。彼らもそう思ったろう。

翌日から本格的な見学が始まった。演習地の部隊で騎兵、歩兵隊の様子を見学。
演習は天候不順のため、予定の規模の10分の1程度で終わった。
ロシア軍は落胆しただろうが、好古にとってはおおいに参考になった。何よりロシア騎兵の強力さは想像以上。優れた所は冷静に記録。
演習は終わったため、シベリアを離れるべきだったが、軍事施設の偵察を目論む好古。
接待委員に頼み込んで、知己のあるハバロフスク総督代理リネウィッチ大将に挨拶したいと申し出る。困り果てた委員が、皇帝の勅許が要ると言うと「得てくれ」
だが意外にも勅許が下りて行けることになった。

途中、鉄道沿いの騎兵連隊ではどこでも歓迎された。

好古は騎兵というグループの仲間とみなされた。
リネウィッチは、クロパトキンと並んで称される人材である。

到着の夜はリネウィッチ主催の歓迎宴。
「快談に時を移せり」との日記表記にあるように、ロシア人を好きになった好古。
ロシア側は、好古の視察旅行に寛大だった。

それをいいことに「旅順に行きたい」と言い出した好古。極東総督のアレクセーエフを訪ねたいと言い、ついに承知させてしまった。
結局彼は満州から南下し、旅順でアレクセーエフを訪ねた後、軍事施設を見学した。ここを見たのは間諜ですら一人もいなかった。
秋山好古が東京へ帰ったのは明治36年10月3日。
この日から20日あまり経ってから、真之は常備艦隊の参謀に補せられた。
この人事に少し驚いた好古。戦時にはそのまま連合艦隊の参謀。

日本海軍の肚が決まったと思った。
真之はこれより三ヶ月前、妻季子を娶っていた。この時36歳。

真之が常備艦隊の参謀になる時のいきさつ。
海軍では極秘裏に対露開戦を決意し、艦隊作戦の全てを海軍少佐秋山真之に決定しした。
同時に指令長官を東郷平八郎に決定。

だが問題があった。東郷は真之と面識がない。東郷さんが、作戦を作る真之をよほど信用出来なければうまく行かない。
人事局が局員を使って真之に、東郷の私邸を今夜訪ねよとの指示。

天性の策戦家が、この人事を人事局の暴走だと疑った。
本件を嘘だと断定した真之は、東郷への訪問をすっぽかした。
翌日それを知った局員は激怒。

結局省内に来ている東郷中将と直接会うことに話が決まった。
初めての対面。真之があいさつすると、東郷はわざわざ立ち上がって「トーゴーです」と答えた。
『これは徳のある人だ』と感じた真之。

東郷が常備艦隊指令長官になるのもいきさつがあった。
それまでの指令長官は日高壮之丞。薩摩生まれの血性男児。海軍内と日高本人も、指令長官はそのままだとの見方だったが、山本権兵衛は日高を外しそこに東郷を据えてしまった。権兵衛と日高は幼友達。
日高を呼び出して人事を伝える権兵衛。

激怒した日高は短刀を抜いて迫った。
彼の長所を褒める権兵衛。だがそこに短所がある。

自負心が強く、自分を押し出さないと気が済まない。東郷は才に劣るが大本営の指令には必ず従う。だがお前では不安である。
日高は涙を受かべて納得した。

日露が険悪になった時、明治帝が権兵衛に、海軍は勝てるかと下問された。
尋常の戦いでは勝ち目はないと答える権兵衛。

ただ、戦略をもってすれば勝算はある。
ロシア側の戦力がバルト海、黒海、太平洋に三分しており、それを日本のワン・セットの艦隊で個別に倒して行く。

開戦へ
明治36(1903)年の、このような時期に渋沢栄一の事務所を訪れる児玉源太郎。この当時は内務大臣。

後に日露戦争の陸軍作戦を担うが、この時はまだその任ではない。
財界の大御所である渋沢は、財政上の非戦論者。

ロシアを相手に戦争出来る状態ではないと言うが児玉は、満州・朝鮮に出掛けてロシアの進出具合を実地に見て欲しいと頼んだ。
渋沢に次ぐ実力者の近藤廉平がその役目で現地に行った。

それが10月に帰国した時には、意見が一変。
渋沢への報告では、シベリアから満州にかけて鉄の色で塗りつぶされた様。やがて日本は圧倒される。この報告に渋沢は動揺。

それから数日して児玉を訪れる渋沢。
その数日で参謀本部次長となっていた児玉。

降格人事を自ら志願した。
勝つ見込みを聞く渋沢に、勝つところまでは行かず、何とか優勢に漕ぎ着け、あとは外交だと言う児玉。
戦費調達にはどんな無理でもやりましょう、という渋沢の決断で銀行集団の総意として、開戦への協力態勢が決議された。

開戦への決意に先立ち、陸軍は参謀次長  田村怡与造(いよぞう)を病死にて失った。彼は日清戦争で戦略を立てた川上操六を引き継いで研究を重ねていた。
参謀総長は大山巌。そこで児玉が名乗りを上げた。田村を引き継ごうと考えていた。だが陸軍大臣までやった身。

異例の職階降下だが頓着しない児玉。
児玉は士官学校を出ておらず、彼の軍事学は独学。メッケルを招聘した時には陸軍大学校の校長だったため、彼の講義を受けた。

メッケルはしばしば児玉の天才的な頭脳に驚嘆したという。

日本政府が、ロシアに対して最終的交渉を始めたのは明治36(1903)年の夏から。その内容は、日本が朝鮮に権益を持ち、ロシアは満州に権益を持つ。そして互いに侵し合わないというもの。

それが出されたのは8月12日。
全権委任された極東総督アレクセーエフと10月6日から談判が行われたが、彼らは日本提案を無視し、朝鮮の北半分を求めた。
その回答は日本を震撼させた。ロシアは戦争をするつもりはなく「銃剣外交」の姿勢。
その後折衝は続いたが、ロシアは故意に回答を遅らせ、その間に極東の軍事力を強化した。

強硬に出れば日本は必ず言うがままになるという見方。
遅れに遅れた回答が12月11日にようやく届いた。

朝鮮の半分をよこせと言う要求の繰り返しに、日本は絶望した。

日本政府の弱気に対して世論は好戦的であり、新聞も開戦熱をあおった。この騒ぎの中、海軍大臣の山本権兵衛が本当に戦争する気があるのか見当がつかない。
山本の真意をはかるため、英国に軍艦の燃料である無煙炭を90万トン発注する案を書類で上程した。
それにサインした事で皆が理解した。この事は各国の公使館にも知られ、日本開戦の決意が知られるもとになった。
日本政府が対露開戦を決意したのは明治37(1904)年2月4日の御前会議においてだったが、伊藤博文は、米大統領ルーズベルトと知己のある金子堅太郎を使って、仲介による停戦講和への工作を依頼した。
御前会議が終わった後、大蔵大臣の曾禰荒助(そね あらすけ)は辞表を出したが、こんな事が外国に知られれば威信が失墜する。

強硬な慰留を受けて辞意を撤回した曾禰。

砲火
日本がロシアに対して国交断絶を宣言したのは明治37(1904)年2月6日。日本の戦略の主眼は、短期間に華やかな戦果をあげ、外交の力で和平に持ち込むもの。
そのためには、短期間での兵力投入が必要だが国内幹線鉄道、海上輸送力とも貧弱。

日本側が戦略を考え抜いているのに対し、ロシア側はおおようで粗雑だった。ロシア艦隊は不滅であり、日本の朝鮮や満州への上陸は、はなはだしく遅れるとの見方。
当時大蔵大臣を罷免されていたウィッテは、クロパトキンを訪ね、その戦略を聞いたことがあった。
シベリア鉄道の輸送力には限界があるため、逐次送るための時間稼ぎが重要だという。
数倍の兵力で、最後の決戦をするが、日本兵に対しては消耗を強いつつ後退して行く。最終決戦の場はハルピン。

敵の補給線が伸び切って、ついに絶えた頃に大反撃に出る。
かつてナポレオン、後年ヒトラーもこれに屈した。
もしロシア本国が終始クロパトキンを支持し、彼に権限を与えていれば、日露戦争の勝敗は逆転していただろう。
クロパトキンとの会談でウィッテは、極東総督のアレクセーエフを捕縛し、本国に返す事が勝利するための策だと言った。
アレクセーエフ極東総督こそがロシアの「がん」。

彼は皇帝の寵臣であり、外務大臣以上の近さで話が出来る。冗談と笑ったクロパトキンだが、ウィッテの懸念はやがて本物になった。
 

日本海軍の戦力について。
山本権兵衛はここ10年、ワン・セットしかない日本の艦隊の増強だけに没頭した。ロシアの持つツウ・セットの艦隊を個別に撃破できなければ勝ち目はない。
このため、開戦ぎりぎりの時期に、更に2隻の準戦艦を買った。

アルゼンチンがイタリアに発注し、ほぼ竣工しようとしていたもの。

ロシアも狙っていたが先手を取った。それが「日進」と「春日」
御前会議前の事情。ロシア皇帝による、対日作戦計画の裁可が2月1日に入電し、ついで旅順艦隊が2月3日、大挙出港したとの急報を受け、山本権兵衛が決断した。断交の決断はその翌日。

連合艦隊は佐世保にいる。出撃命令は電報ではなく使者。

その役目は山下源太郎大佐。
防諜上というより、急ぐ事情がなかった。

ロシアの考える日露戦争は一年以上先。
国交断絶の宣言にロシア公使は戸惑ったが、日本側の説明は「断交は戦争ではない」
その内容はロシア本国に送られ、アレクセーエフもまた甘く解釈した。
山下が旗艦「三笠」の艦上に立ったのは5日の午後7時。
命令書が東郷によって開封された。内容は、黄海方面にある露国艦隊の撃破と、鎮海湾を占領し朝鮮海峡の制海権を得ること。

命令の日時は「明治37(1904)年2月5日午後7時15分」
各指揮官、艦長が三笠に集められた。連合艦隊の参謀長は、海軍大佐の島村速雄。軍人には珍しく功名心がない。
山本権兵衛の判断では、東郷が統率、島村の智謀で艦隊を動かすというものだったが、島村自身は全てを真之に一任すると言い、終始その通りにした。
後の逸話。連合艦隊からの電文が常に名文である事から、新聞社が島村参謀長を褒め称える記事を出した時、起票者が真之だという事を明らかにして、訂正させたという。

この緒戦での任務は、旅順艦隊を撃って制海権を確立すること。
6日午後9時、連合艦隊主力は佐世保港から出撃した。

主な戦艦がほとんど出港した後、瓜生戦隊と言われる、陸兵を護衛して仁川に上陸させる任務の船団(浪速、高千穂、明石、新高、一等巡洋艦浅間)が出港した。
この海軍艦隊の中で一隻だけ朝鮮の仁川港にいた不運な巡洋艦「千代田」。オトリとしての役割り。
この港は規模が大きく、各国の軍艦が係留している。

その中にロシア艦の「ワリャーグ」「コレーツ」もいた。

元々千代田の任務は居留民の保護。ロシア艦も同様の任務。
ロシア艦と近い位置関係にあった千代田だが、断交前夜の3日に移動して港外に脱出した。
南下するうちに8日、瓜生戦隊と合流。ワリャーグとコレーツを旅順に行かせるわけにはいかず撃ち取りたいが、仁川港は中立国の港であり、港内での戦闘は国際問題になる。

各国軍艦は、日本艦隊を引き連れて戻って来た千代田に驚いた。

英国艦長が砲撃等は困るとけん制に来た。

陸軍部隊の上陸が目的だと言って、その作業を進める日本軍。
揚陸作業が終わり、瓜生戦隊はロシア艦に港外退去の通告書を送った。各国軍艦にも退避を要請。
9日午前11時、ワリャーグとコレーツは錨を上げ全速で港外に向かった。
港外で待ち伏せしていた「浅間」が砲撃を開始。8インチ砲弾が次々にワリャーグに命中。大火災が起こった。ワリャーグは左傾したがコレーツは無傷。生き残るため、仁川港内に逃げ込んだ二艦。
浅間は国際問題を懸念し、港内への追撃をやめた。
ワリャーグ艦上は惨状を呈している。兵員、負傷兵の始末を各国に頼んで、ワリャーグはキングストン弁を開いて自沈し、コレーツは爆沈させた。
戦勝後、瓜生戦隊参謀の森山慶三郎少佐が上陸して報告した時、加藤領事は信じなかったが、実際に日本側の損害は皆無。

そのための浅間の起用。その作戦は真之が立てたもの。
ロシア側の射撃能力の低さに驚く日本。

全戦闘を通じて彼らが撃った約千五百発は一発も当たらず。

旅順口
仁川襲撃は別働隊の仕事であり、連合艦隊の主力の仕事は旅順攻撃。ロシア艦隊19万トンは、浦塩が結氷期の現在、旅順港に集結している。
それらを撃滅しなくてはならないが、要塞砲で守られており、彼らが出て来ない限り近づくことも出来ない。
そこで水雷戦術が検討されたが、警戒も厳重で困難が予想される。
真之は港口にボロ船を沈める閉塞作戦を考えていたが、実施部隊の生還が困難なものであり、東郷は許さなかった。
連合艦隊主力が旅順口当方に達したのは8日午後6時。

日暮れと共に駆逐艦部隊の出発。旅順口には三隊、大連湾には二隊を差し向けた。この奇襲に敵艦5隻は沈めたかった。
だがその結果は思わしくなく、戦艦2隻、巡洋艦1隻に手傷を負わせただけだった。
旅順のロシア軍は油断しきっていた。各艦とも水雷防御網も設置していない。だがロシアの哨戒船に見つかった事で日本側の攻撃手順が狂った。隊列は乱れ、ばらばらでの攻撃を余儀なくされた。
ただロシア側にも重大な失敗があり、哨戒船は発砲もせず引き返してしまった。それは上官への報告のため。
幸運にもその後の攻撃を行うことが出来た駆逐艦部隊は、各2本持っている魚雷を敵艦に発射した。だが結果は先の通り。

条件の良さから見れば、考えられない貧しい戦果。
この時ロシアの極東総督アレクセーエフは旅順にきており、酒宴を開いていた。日本軍の奇襲を知っても夜会を続けた。
ニコライ二世も、電報で日本の奇襲を知った時、不機嫌ではなかったという。寵臣アレクセーエフらの入れ知恵で、「猿」の仕掛けた戦争に勝つことが帝政の威信を示せる道だと思った。

2月9日の朝、東郷は主力艦隊を率いて旅順港に向かっていた。

それはロシア艦隊に決戦を挑むため。

だがロシア海軍は要塞に守られて港内にとどまる作戦。
日本の艦隊は三笠を先頭に単縦陣で進む。旅順港に近づくと、外洋まで出ていた二等巡洋艦「ディアーナ」との交戦になった。

艦隊を引き入れて、要塞砲の射程に入れようと退却する敵艦。
東郷の双眼鏡が港口の敵艦をとらえた。

日本海軍でただ一つのツァイス製。
ロシア艦は、前夜水雷攻撃された時のままの状態で、主な艦船は錨を下ろしている。
日本艦隊が、挑発のため針路を西に向けた時、ようやくロシア艦隊が気付き、無統制に動き出した。
東郷は全艦隊に砲撃を命じる。要塞の砲台も咆哮を始めた。
なかでも電気礁の砲台の高い射撃能力で、三笠が3発被弾。

要塞砲と戦艦では、圧倒的に戦艦が不利。
その後も日本側艦船の被弾は続き、どの艦も凄惨な状況になった。

だが東郷は平然としている。
ロシア側にも勇敢な艦がいた。三等巡洋艦「ノーウィック」。

単独で日本の第二艦隊に接近。
ブリキの様な装甲で、いわば「ふんどし一つ」で斬り込む様なもの。

射撃も正確だった。
八雲がノーウィックにかかりきりになる中、戦線から外れてしまった。
艦隊の回頭行動も敵の射撃を受ける要因となった。旅順要塞の威力を身に沁みて知った日本海軍。艦隊は急ぎこの水域から去った。
「まあ、失敗でした」と真之は言う。作戦の目的は敵をおびき出すことだったが、その目的は果たせなかった。
だがその事が、ロシア軍の士気をいちじるしく衰えさせた。艦隊は要塞砲の射程から出てはならない、というアレクセーエフ極東総督の命令。

旅順は閉塞するしかない、と言ったのは、実は真之ではなく参謀の一人有馬良橘中佐と広瀬武夫少佐。
旅順の港口は実に狭く、巨艦が出入り出来るのは僅か幅91メートル。
有馬は汽船5隻を決め、爆薬その他も準備した。この二人が、参謀でありながら実行部隊の指揮官になる事が気に入らない東郷。
だが「閉塞」の権威である筈の真之が消極姿勢となる。サンチアゴ湾と旅順要塞では威力が違いすぎ、行けば必ず死ぬ、と言い出した。

元々軍人には不適格なほど流血を嫌い、日露戦争の後には僧侶になると言い出したほど。
結局閉塞作戦を決断した東郷は、汽船一隻につき水雷艇一隻を付け、港口で待たせる策を取った。
下士官以下は艦隊から志願者を募ったが、それに二千人が志願した。「このいくさは勝つ」と真之に話す広瀬。

広瀬武夫の話。
彼は生涯独身だった。芸者遊びをした様な形跡もない。

37年の生涯で婦人を知るようなことがなかったかも知れない。
露都駐在時代、彼ほど社交界で婦人たちから騒がれた日本人もない。特に広瀬を親しい友人として扱ってくれた海軍少尉コヴァレフスキー伯爵の娘、アリアズナ・コヴァレフスカヤが激しく彼を慕った。
アリアズナの知性と美しさはロシアの若い士官の中でも評判だった。
5年近い滞在の中で、彼女はやがて広瀬以外の男性を考えられなくなった。広瀬もその様な気持ちになったのは、彼女との往復書簡でも窺える。
アリアズナとの恋は、彼の帰国で終わったが、広瀬は閉塞船 報国丸で出発する前に、彼女に対する最後の手紙を書いている。
また駐在中、広瀬を兄と慕うボリス・ヴィルキツキーという若い士官がいた。広瀬は彼にも手紙を書いた。

その手紙は通信艇を介して数ケ月後、同少尉に届いた。

閉塞隊の5隻は、2月23日の夜出発した。

凪いだ海に上弦の月がかかる。
夕食後、広瀬は機関士の栗田に指示してペンキを手配させ、船橋にロシア文字を書いた。この作戦の後、ロシア側がこれを読んだ。
「尊敬すべきロシア海軍軍人諸君。請う、余を記憶せよ。余は日本の海軍少佐広瀬武夫なり。報国丸をもってここに来たる。更にまた幾回か来らんとす」
広瀬がこれを書いたのは、知人の目に触れることによりアリアズナに最後のあいさつを送ろうとしたのであろう。

この閉塞は、第一次閉塞と言われ、結果としてはうまく行かなかった。
5隻のうち、広瀬の報国丸が唯一港口の燈台近くにまで進み、擱座したがとても塞ぐには至らなかった。
ほぼ失敗ではあったが、兵員の損害がほとんどなかったため、第二次閉塞へ向けての準備がされた。
次は4隻。下士官以下は二度とやらせないが、指揮官は何度でも行く。
敵も、今度は準備するだろう、と広瀬に言う真之。

そのうえ、ロシア海軍の至宝と言われるマカロフ中将が着任する頃。
ステファン・オーシポウィッチ・マカロフ中将。帆船時代の水夫からたたき上げた。実戦に基づく彼の「戦術論」は真之も一時熟読した。

26日夜、閉塞船の4隻は出発した。午前3時30分、要塞の探照燈に発見され、閃光と轟音に包まれる。一番艦の千代丸は、探照燈に目がくらみ、予定より右寄りで爆沈した。広瀬の乗る福井丸がその左に続いたが、そこで敵艦の魚雷を受け浸水、沈没を始めた。
脱出作業は十分間に合い、ボートが降ろされたが、杉野上等兵曹だけが居ない。皆探しに行くが見つからず。広瀬が三度目の捜索に出た。
だがとうとう見つからず、爆破用の電纜をボートまで取り込んで離脱し、広瀬自身がスイッチを押して爆破。
あとはボートを漕ぎ続けるのみ。探照燈がボートを追い続け、砲弾が次々に落ちる。
その時、広瀬が消えた。砲弾が飛び抜ける時、一緒に持って行かれたらしい。だれも気付かなかった。
後に、広瀬の死がロシアに伝わった時、アリアズナは喪に服したという。


陸軍
この時期、日本陸軍は動いていない。僅かに瓜生戦隊により朝鮮の仁川に上陸した木越旅団があったが、これは韓国相手の外交用。

韓国政府に圧力をかけ、日韓同盟が成立した。
陸軍の戦略は、まず第一軍が朝鮮に上陸して満韓国境のロシア軍を撃破し、第二軍を以て遼東半島から満州中央部に進み、第一軍と協同しつつ遼陽の平原で戦い、破るというもの。
ロシアは第二兵団を増強しつつあり、早く遼陽に進出してリネウィッチ将軍率いる第一兵団をつぶす必要があった。
第一軍の指揮官は黒木為楨(くろきためもと)大将。

学校は出ていないが、戦いにおいて動揺しない。
鴨緑江(おうりょっこう)の敵を破って満州へ出る」という使命を受けて黒木軍は明治37(1904)年3月8日より逐次広島から西朝鮮の各上陸地に向かった。第一軍が鴨緑江に展開を終わったのが4月20日。

予想に反して戦闘はなく、ロシア軍は退いて守る方針を取った。
工兵隊による鴨緑江への架橋。4月30日、砲撃援護の下、渡河が行われた。
日露戦争での戦略は、その後昭和時代に陥った軍事思想とは異なり、敵を凌駕する兵力を前提としていた。

よって黒木軍は十分な兵力でロシア軍を圧倒し、九連城も奪った。
その結果世界での評価が高まり、外貨募集面での好結果を生んだ。

第一軍の戦いに好古は参加しておらず、第二軍に属する筈であった。
この間、好古は真之に手紙を送っている。参謀の心得を説いた。

頭ごなしの説教口調だが、不思議に好古の言うことだけは素直にきいた真之。
功名を断じて顕わしてはいけない、との言葉も忠実に守った真之。
最後には「名誉の最後を戦場に遂ぐるを得ば、男子一生の快事」と結んだ。

第二軍の司令官は奥保鞏(おくやすかた)。若い頃から自分の功績を隠す性格が「奥がいるなら安心」という定説を生んだ。
第二軍の構成は三つの師団と二つの旅団。そのうちの一つが好古の騎兵第一旅団だが、動員はやや遅れることになった。
黒木軍での騎兵の使い方は消極的で、敵のコサック騎兵の活動ぶりが目立ったという。
好古の旅団が広島、宇品港を出たのは5月18日。

満州の大陸部から小指一本付き出しているのが遼東半島。

その先に旅順要塞がある。
その小指の中ほどにある金州・大連付近を占領するのが第二軍の使命。
その上陸は簡単に行われた。
ロシア軍の戦略に乱れが生じていた。クロパトキンの、遼東への上陸を阻止するべきとの主張に対し、極東総督のアレクセーエフは、鴨緑江の戦いを制しなければ帝国の名誉に関わると反発。

このためロシア軍の兵力が二分し、双方に「弱小」な兵力を向けた。

奥軍の占領により旅順要塞が孤立するのを予測したコンドラチェンコ少将は、日本軍が上陸するまでにそれらの要塞化を済ませた。
日清戦争ではこの地を半日で落としたことから、楽観視していた大本営と奥軍。この無知が思わぬ屍山血河の惨況を招いた。
上陸してすぐ奥軍は、その容易ならざる事に気付き、大本営に重砲を送れと要請したが、ただ速攻を命じられる。

そもそも予備の重砲がない。
奥軍が攻撃を開始したのは5月26日。

だが一時間、二時間撃っても敵が鎮まる気配がない。
ついに五時間撃ち続けた。

たった一日で日清戦争で消費した砲弾量を越えた。

南山の山麓に取り付く三つの師団。銃と剣だけの歩兵が、消耗を覚悟で接近するしかない。

敵の機関砲の猛射。日本歩兵は機関砲(銃)を知らなかった。
だが日本人が機関砲を知らない筈がない。越後長岡藩の河井継之助が美術品を売り払って二挺の機関砲を買い、これで官軍に抵抗した。その時の官軍指揮官が山県有朋(当時は狂介)。
好古はこの武器の必要性を上申し続け、自身の旅団に組み入れた。
いずれにせよ、日本軍はロシア軍の機関砲に悩まされ続けた。

南山攻撃には東郷艦隊が貢献した。艦艇の一部を割いて金州湾に侵入し、敵の陸上陣地に砲撃した。敵は露天砲であり、この攻撃は意外に効いた。ロシア軍は後にこれを教訓として旅順要塞を掩蔽(えんぺい)式とした。
敵の砲火は衰えたが、それでも機関砲陣地は生きている。

日本兵は死骸の山を築いた。
退却の声が上がる中、それを打破したのが第四師団長の小川又次中将。敵の弱点である左翼に集中攻撃をかけ、肉弾突撃により一挙に占領した。他の地区に動揺が移り、夕暮れを前に南山全体が奥軍のものとなった。
金州・南山は陥ちないと信じていたステッセル。

敗走するロシア軍は大混乱。
だがロシア軍は撤退すべきではなかったかも知れない。

攻防があと一日長引いたら、弾薬尽きた日本軍は戦えなかった。

騎兵には襲撃と偵察の仕事があるが、今回の局面では偵察が主任務。
好古とその騎兵旅団は、南山を落とした後の奥軍北進に備えて5月30日、北方の敵地へ出発した。
しばらく行軍した時、斥候が敵騎兵百ほどを見つけた。とりあえずその撃退のため二個中隊と機関砲隊を付けて送り出した好古。
兵団長のシタケリベルクは、秋山騎兵旅団を上回る隊に砲4門を付けて進撃した。
日本側には砲がなく不利。

欧州諸国の軍隊はナポレオン以来騎兵旅団と砲兵がワンセット。
この家曲店の戦闘は、ロシア騎兵団と日本騎兵団との最初の大規模戦闘になった。
大兵力の好古側だったが、惨憺たる苦戦をしたのは大砲を持たなかったため。
もう一つ、地形も敵に味方した。そのうちに弾も尽きた。

「退却しかない」と諸隊長が思ったが、誰も具申出来ない。
退却が妥当なことは好古自身が良く分かっていたが、第一戦で負ければ士気に影響する。
好古は最前線でブランデーをグラスに注ぐと、土塀の上で横になった。

好古のふて寝は、敵味方双方から注目された。

もちろん砲弾、銃弾が飛び交う中。
いまさらどうなるものでもない。この現場から退かないのが唯一無二の戦法。こういう局所では、鈍感になるしかない。
優勢だった敵が北方へ退却を始めた。敵の指揮官は好古のように鈍感ではなく、神経が絶えられなくなった。

好古とその旅団は、危機を脱した。

好古らはこの丘陵地帯に留まった。敵情を知るために必要な場所。
6月3日、要請していた砲兵の二個中隊が到着。

好古は彼らの存在が敵に知られないよう隠した。
好古らに砲がない事を知っている敵は、砲兵部隊と共に前進して来る。敵との距離が1キロ半まで来た時、発砲を命じた好古。

敵の砲4門を吹き飛ばした。
激戦になったがロシア軍は退却し、ようやく日本騎兵旅団の勝利に終わった。


マカロフ
海軍中将マカロフが明治37(1904)年3月に着任してから、旅順艦隊は前任者のスタルクとは別な軍隊になった。彼の言う通りに動けばロシアは勝てる、という信念が水兵たちにみなぎる。
それまで腰抜けと言われて来たこの艦隊員全てに「なぜ外洋に出られないか」を説いたマカロフ。それはバルチック艦隊を待つため。

だが単なる自重はしない。短距離出撃で少しでも敵艦を沈める。

昂奮した水兵たち。
その作戦には常に汽罐を焚いて待機せよと伝えた。
また彼は鈍重な旗艦ではなく巡洋艦に乗って出撃した。
東郷艦隊が挑発のために旅順口外を巡航した時、その都度打って出たマカロフ。時には要塞の射程外に出た。
この行動について、一定の法則を感じて機械水雷の敷設を提案する真之。
それを実行したのは小田喜代蔵中佐。

機雷を研究し「小田式機雷」を発明した人で、自らが携わった。
4月12日の夜、護衛艦に守られながら「蛟竜丸」が沈置作業を行って帰投する時、小型の駆逐艦を発見した護衛艦が攻撃を仕掛けた。その駆逐艦は沈没するのだが、敵の一等巡洋艦「バヤーン」が出て来た。勝負にならず逃げ出す日本の駆逐艦。
その砲声を聞いてマカロフが戦艦ペトロパウロウスクを駆って出撃。
日本側は第三艦隊が近くに居て応援。
マカロフは続く数隻を従え、局部決戦の様相を呈した。
だが勇猛でありすぎたマカロフは、港口の掃海をしなかった。
日本側の誘いに乗って外洋に出たマカロフ。

だがそこには東郷艦隊の主力がいる。
この辺りが勇気の停止点と判断して回頭を始めた。

それは真之たちが研究していたコース。
戦艦ペトロパウロウスクが、大爆発を起こして沈没するまで約一分半。マカロフも没した。

この触雷から一ケ月のち、同じ悲劇が東郷艦隊を襲った。

一日のうちに戦艦二隻を喪失。
ロシア側も、日本艦隊の運動習性に注目していた。水雷敷設艦アムールの艦長イワノフ中佐の提案で外洋に敷設された。
日本側の重大な過失は、自らの作戦を敵も仕掛けるだろうという想像力の欠如。
駆逐艦の艦長たちはこれを危惧して航跡変更を主張した。

それで5月15日まで旧航路とした、その当日に不幸が起きた。
全く何もしなかったわけではなく、掃海で15個の機械水雷を潰したが、ロシア軍が敷設したのは50個。
戦艦「初瀬」が触雷により舵機を壊され、その後別の機雷に触れて大爆発し、一分少々で沈没した。後続の戦艦「八島」も初瀬救援の途中で触雷して爆発。座礁させたが沈没。
この後六日間のうちに、触雷だけでなく衝突も含め事故が続発。
砲火を受けることなしに、日本艦隊は8隻を失った。
だがこの事態にも、顔色を変えなかった東郷。

不運に対する強靭な神経。