まず、2/21に亡くなった大杉 漣さんのご冥福をお祈りします。
本Blogで過去にレビューした出演作品 名古屋行き最終列車 2017
あのスターにもう一度逢いたい BS11
第95回 横山やすし・井沢八郎・田宮二郎
家族が語る父親・衝撃の実像
新聞で、たまたま「田宮二郎 自殺の裏側」とあったので視聴。
1)横山やすし 本名:木村雄二
昭和41年コンビ結成(やすし・きよし)
坂田利男コメント
豪快さに驚く。モーターボートで道頓堀通って通勤した(もちろん違法)。出番遅れの言い訳(エンジン故障)。
妻啓子。何で結婚したのか、不思議。
妻のマッサージ(頭)が楽しみ。やきもちやき。
宮川 大助・花子コメント
可愛がってもらった。会いたくないB型→織田信長とやすし。
絡まれないための花子の秘策→先に酔う。オデコ叩いて叱られなかったのは花子だけ。やすしのカセットを毎日聞いて練習した。
娘:木村ひかり
思い出の場所は飛行場。本人所有のセスナがあった。
うどんを食べに、四国へ行った事もあった。
家ではおとなしかった(TVを観ていた)。筆まめ。ホンネは「もうこのキャラしんどい」(妻に告白)。脱ぐに脱げない→しんどかった。
H8年1月21日。アルコール性肝硬変で死亡。51歳。
その時ひかり15歳。自分の娘(やすしの孫)が、会ったこのもないのに、写真撮る時のポーズで指1本立てる(やすしと同じ)。
2)伊沢八郎 本名:工藤金一
昭和38年デビュー。
娘:工藤夕貴コメント
お腹が痛いと言った時、ステージがあると言って無理をした→虫垂炎だった。腹膜炎を起こしかけていた。
子煩悩。夕貴が風邪で鼻が詰まった時、母親でもやらなかったのに、父が鼻を吸って通してくれた。だが酒を飲むと怖い。男傘がヒット。
H17年に食道ガン。体調不良を訴えた。
だが末期になっても、歌った時には目に命が宿った。キーが変わらないのが自慢だった。
H19年1月17日に死亡。69歳。奇しくも夕貴の誕生日。
担当医のことば。普通だったらもっと長生き出来たが、歌えないと思った事が命を縮めた。
父は大きなステージでないとダメだった。
最後に歌わせてあげたかった。
工藤夕貴の唄う「北海の満月」
3)田宮二郎 本名:柴田吾郎
1956年、本名でデビュー。その後1959年に田宮二郎と改名。
タイムショックの司会者。「白い巨塔」で活躍。
息子:柴田光太郎コメント
家族に縁がなかった人。
五社協定で映画界を追放され、生活のためにキャバレー回りもして家族を養った。なりふり構わず仕事をしてTVの世界に入って行った。
家では優しい父親。直筆の手紙を良く出してくれた(出先から)。
自作映画の失敗、裏切り等に遭い、多額の借金を負った。ある仕事は何でも受けたが、白い巨塔では命を削った。
妻幸子はその仕事には反対。ダメ、ダメと言っても「やりたい」。
タイムショックを10年やって辞めた時、そううつ病だった(自ら降板)。
白い巨塔でも長ゼリフ入らないで苦労した。
光太郎が風呂の湯を入れて待っているが、いつまでも帰って来ず、その度に湯を足したが、結局寝てしまった。
→翌日「お風呂気持ちよかった」のメモ。(入ってないのに)。
S53年12月28日、猟銃を胸に当てて自殺。享年43歳。
多額の負債等、当時様々な理由が言われたが、ちょっと違う。
あの日事故が起きていた。妻幸子の母親が腸ねん転で病院に運ばれた。父はそれに耐えられなかった。
遺書には「お母さんが倒れました。もう生きて行けません」。
死のうと思っていた母。祭壇の前から動かない(日が暮れても)。そして「お正月だから、おしるこ作ろうか」。その言葉で、母は生きると決めたと知った。当時光太郎12歳。弟と「おしるこ作ろう!」と叫んだ。
感想
工藤夕貴が井沢八郎の娘だとは知らなかった。
井沢八郎の北海の満月。ホント久しぶりに聴いた。
田宮二郎が自殺した年は、自分が慢性腎炎と言われて3月から入院して、そのまま年越しをする見込みだった年末。先輩からの差し入れの小型TVを、ふとんで隠して「白い巨塔」を毎週観ていた。
自殺の後「白い巨塔」の放送はあと2回を残していたが、かなりの視聴率を取った(30%超え?)。
今回の話は、ウィキペディア情報でも書かれておらず、新事実と言える。
義母が倒れたことに、それほどの衝撃を受けた背景には、生後すぐ父を亡くし、母親も戦後すぐに亡くして、親族に育てられた彼の人生が関わっていると思われるが、やはり彼自身を蝕んでいた、躁鬱病によるもののきっかけがそれだったのだろう。