朝日 新聞小説「あおぞら」(2) 作:柚木麻子
レビュー一覧 1
登場人物
村瀬立(りつ)子 縫製工場に勤める未婚の母。
村瀬光太 立子の息子。小説開始時は生後1ケ月弱。
弥生 魚屋を営む女性。亭主と2人暮らし。
矢本 縫製工場の工場長。
堀田 立子の同僚。
赤川秀子 保育研究所職員
江口サワ 保母
感想
保育園作りに意欲のありそうな秀子に、わざわざ話を聞きに行った立子。知識は持っているが、その実現は十年か二十年後だと言って、全く立子と噛み合わない秀子。そらー切実さが違う。
秀子と共に見学に行った隣町の保母 サワに会ったことで、俄然具体的イメージが湧いた立子は、涼しくなるのを待って、驚くべきパワーで周りを巻き込み、青空保育園の開設に動く。
この間52~54の3回分。まるで1ケ月分のあらすじを読んでいるみたいだった。それまでのペースを考えたら驚異的。
それから工場の同僚 堀田をうまく使って労働組合を設立した件は、56回で僅か2行。もう少し書く事あっただろうに(笑)
これだけ進行ペースにバラツキがある小説も珍しい。
まあ、何を描きたいかという問題ではあるのだが。
高ビーだった秀子のホンネを知って好感度アップ。
とにもかくにも、立子が熱望した保育園(青空ではあるが)は始動した。これからは本格保育園設立に向けての活動に行く?
しかし最初は全く頼りなかった立子が、驚くほどの行動力!
「乳揉み」で体調が良くなったのがスイッチオンの原動力かな?
オマケ
前回書いた「章題問題」だが60回目(8/31付)で、日付が太字で表現されていた。これを章題と言っていいのか微妙だが、方向性は見えて来た。今後のアップは月イチペースで進める。
あらすじ
31 8/1
秀子ちゃんに関わっても時間の無駄と言う弥生さんだったが、
「でも会わせていただけませんか?お願いします」と言う立子。
咄嗟に言ってしまった。身体の中から指令されている気がする。
乗り気でなかった弥生さんだったが、すぐに伝言を伝えてくれた様で、立子が銭湯帰りに立ち寄った時、声を掛けて来た。秀子ちゃんも、取材したいから会いたいとの事。
明後日の日曜、家に居るという。工場は休みだった。
佃煮を言付けられた立子。あの家は、奥さんが亡くなってから苦労しているという。帰りに寄って聞かせて欲しいと言った。
口ではいろいろ言うが、幼い頃から知っている秀子さんを気にかけている。佃煮と一緒に、赤川家への地図メモを受け取った。
32 8/2
日曜日。小雨の中光太を背負って赤川邸に行った立子。赤い屋根の和洋折衷の住宅。裕福そうだが、手入れは行き届いていない。
呼び鈴を押してしばらくしてからドアを開けたのは、太い縁の眼鏡の女性。赤川秀子です、どうぞよろしくという言葉。
ウェーブがついた髪をピンで留め、カーディガンにブラウス、丈の短いズボンといういでたち。弥生さんから預かったものを渡す立子。光太を見て、抱かせてくれない?と言う秀子さん。家事をしている手ではない。少し迷ったが差し出した立子。
秀子さんが抱くなり泣き出した光太。「あら、どうしよう」
おろおろする秀子さん。手から離れたらほっとした顔になった。
さあ、お上がりになってねと促される。
33 8/3
弥生さんの言葉とは違い、赤川家は貧乏とは言えない。革張りのソファーに果物の油絵。本棚からはみ出した本が雪崩を起こしている。隅に溜まった埃が気になって、光太を抱き直した。
お茶を淹れるからと台所に行ったきり、作業する音ばかり。
暫く待って、ようやく秀子さんはお盆を掲げて入って来た。
ロシアンティーと、頂き物のクッキー。
向かいのソファでノートと鉛筆を手にする秀子さん。給料や労働時間のことを聞きたいと言う。周りにそういった人がいない。
似たような階層の人とばかり喋っていてはダメね、という言葉に少し引っ掛かったが、お茶の甘さとクッキーにうっとり。
34 8/4
秀子さんに何の仕事をしているか訊く立子。国立の保育の研究所に勤めてレポートを書いているという。保母資格は持っている。
父親は女子大で社会学を教えている。日本の女性の地位向上の第一歩が保育園作りだと言った秀子さん。
保育園を作る事が、何故女性の地位向上になるのか訊く立子。
「保育園があれば、女性は結婚しても仕事を続けられ、家庭と仕事の両立が出来る様になる」保育園は、保育に欠ける子でないと入れないのでは?と訊く立子に、全ての親にとって開かれた場所になるべきだと返した秀子さん。
子供を預けるのは当たり前の権利。児童福祉法には「全ての児童の健やかな育成については、保護者と共に国と自治体が責任を持たねばならぬ」とある。
35 8/5
高揚して来た秀子さんは話を続ける。婦人参政権を獲得し、女子教育も普及した。次は働く女性のための保育園作り。
十代のほとんどを学校に通っていない立子だが、続きを聞きたい。その時光太が、乳を欲しがる仕草を見せた。
秀子さんにそのことを話すと、さりげなく体を横に向けた。
立子はブラウスのボタンを外して乳房を出し、光太に吸わせた。
堀田さんから聞いた、GHQ内にあった託児所から保育園が広まった話をすると、日本にも民間であったという。例えば寺子屋。
そんな話を聞いて、疎開先で農繁期に、寺がお堂を解放して子供を見る習慣があった事を話すと、それが日本の最初の保育園かも、と満足そうに頷く秀子さん。
36 8/6
教会やお寺は、社会の不足分を補う場所だと話す秀子さんの言葉が、授乳中とは思えないほど、するすると理解出来る。
堀田さんの話が頭に入らないのは彼女自身、自分がしている話に自信が持ててないせいではないか。
秀子さんの研究は、何もないところでの集団保育の可能性追求。
立子が問うと、建物や絵本がなくても子供に十分な保育が与えられると言う。自然の恩物さえあれば、子供は十分育つ。
立子には理解し難い。そもそも車が危険で預けるのだから、屋内や塀に囲まれた場所が欲しい。文化的な時間を過ごさせたい。
授乳が終わった。光太は寝かかっている。
理想とするフレーベル教育に、屋外の環境はふさわしいと言う秀子さん。親達は、保母に払う金だけ出し合えばいい。
37 8/7
フレーベルは百年以上前にドイツで初めて保育園を作った人だと説明する秀子さん。夢中で遊ぶ子は、献身的に尽くす人になる。
無事に小学校に上げる事だけが、せめてもの務めと思っていた。
でも光太を秀子さんが言うような人に育てられたら?との思い。
私達の仕事は子供達が遊べるように導くだけと言う秀子さん。だから施設がなくてもフレーベル式保育は実践出来る。
その方法なら、今のままで十分光太に良きものを与えられる。
そういう試みを青空保育と呼ぶ、と言う秀子さん。全国に広がっているという。雨が降ったらどうするのか訊く立子。
その日は休むしかない、また寒すぎたり暑すぎたりする時期は続けられない、とこともなげに言う秀子さん。
38 8/8
やや落胆した立子にも動じない秀子さん。この試みは、地域に子供を預ける習慣を根付かせるのが目的。自分達の街にも保育園が必要だと、母親が団結するのが大事。それが行政を動かす。
近い道のりではないと考えたが、子を預けたい人は多い。
この様なことは戦後すぐ民主保育連盟が始めたという。そこに参加出来ないか訊くと、内部分裂で終わるかも、と言う秀子さん。
自分にとって最も尊敬する保育者は徳永恕(ゆき)先生だと言う秀子さん。彼女は日本初の公的保育施設「二葉幼稚園」に保母として入り、大正五年に保育園に改名させた。それは乳児保育や長時間保育を実現するため。これをきっかけに保育園は増えて行った。二葉保育園の場所が新宿区と聞き落胆の立子。
39 8/9
徳永先生は、恵まれない人達のために身を捧げている方だと言う。あなたや坊やみたいな人のためにね、と言う秀子さん。
哀れまれている──。咄嗟に反発を覚えた自分に動揺。心躍る話を、対等な立場で聞きたいせいだろうか。
徳永先生を、社会運動家の市川房枝さん、評論家の平塚らいてうさんも応援していたという。そういえばツヤさんは平塚らいてうさんが好きで、文章を朗読してくれていた。
秀子さんの母親は結婚前、二葉保育園で働いていたという。それで小さな頃から、こうした話を聞かされた。大学を出て徳永先生の下で働いたが、今の研究所から声がかかり、去ったという。でも自分の夢は、この街に保育園を作る事だと言った秀子さん。
40 8/10
「それって、いつなんですか?」思わず訊いた立子。
「ええと、十年後とか、二十年後とか」と返す秀子さん。
今すぐ作って欲しいと言う立子。なんなら青空保育でも。自分の言葉に自分で驚く。しどろもどろになる秀子さん。
そろそろ父親が帰って来るから、引き取って欲しいと言う秀子さん。仕方なく光太を背負って玄関に向かう立子。そして傘立てに手を伸ばした時、秀子さんがあっと叫んだ。父親の傘だという。
立子はその傘を秀子に差し出した。盗っ人呼ばわりされる訳には行かない。頭を下げたせいで光太が泣き出した。
誰も取りに来ないからと、魚屋さんから頂いたものだと言った。
41 8/11
傘を受け取った秀子さんはこちらの足元を見る。彼女の新しいサンダルとは対照的な、シミだらけのズック靴。
かわいそうねえ。傘はあなたに差し上げますと言って差し出す。
ドアを閉める直前、秀子さんが戻って二つの紙袋を持って来た。
佃煮のお礼を弥生さんに渡してと言う。もう一つは立子に。
シャッターが下りている「魚辰」の裏手に回り、弥生さんに声をかけた。戸が開けた。渡した紙袋を開くと、鼻に皺を寄せる弥生さん。「カビてるんじゃないの?嫌がらせ?」
立子の方も開くと、確かにあちこちに青緑色が。
嫌がらせではなく、本当にとっさに思いついたのだろう。少しの接触で、秀子さんを理解出来るようになった。
42 8/13
いつも役に立たない話ばかりして見下してるのよ、と弥生さん。
保母さんになりたいとの話を聞いても、そうは見えないと言う。
ただ、お人よしで憎めない所もあると付け足す。亡くなった奥さんとは仲が良かったと言った。そして光太に近寄りあやす。
秀子さんはすぐ保育園を作る気はなく、研究のためだけにだらだら付き合うのも不毛だが、保育園のことをもっと聞きたい。なにより、彼女がこの子の父親について聞かない事が心地よい。
あの場所で緊張感が消えた事は、ツヤさんの家を思い出させた。
多分、役に立たない話に飢えていたのかも知れない。また自分は訪れるだろう。数日後、ラジオが梅雨明けを告げた。
43 8/14
保育園見学の日、日傘を差していた秀子さん。工員らが振り返る。側から見れば、ねえやとお嬢様の組合せか。
駅に着いた時からドブ臭い。上流にある、立子たちの街のそれとは大違い。浮浪児も多い。
毎週恒例になった秀子さんとのお茶会で、区の福祉課に紹介された保育園へ見学に行こうと提案して、今日市電に乗って来た。
許可がなかなか下りなかったのは、梅雨時だと園がずっと休みだったから。親の多くが雨具を持たないため。秀子さんは怪訝がったが、自分がそうだったから、良く分かる。
平屋のトタン屋根が見えた辺りから、大きな叫び声。そう広くない室内。就学前の子供から乳児まで詰め込まれている。あちこちで掴み合いの喧嘩。お漏らしした男児が茫然と佇む。
44 8/15
一人だけ立っている色黒の大人。手足は太く長く、二本のおさげがなければ男性にも見える。背中に二人、胸に一人赤ん坊をくくりつけ、足元の子らを引き摺り前進。先のお漏らしした子にはおしっこを拭いて、下したパンツとズボンを部屋の隅に放った。
一人の保母さんを子供らが取り囲んでいるので、まるで竜巻が少しづつ移動している様だった。部屋の隅の茣蓙に並ぶ乳飲み子。
竜巻が近づき、立子と秀子はそれぞれ名乗った。
区役所から話を聞いている。江口サワだときつい方言で話す。
この人数を一人で見るのは、自分の立場だったらあり得ない。
全部で五十一人いると言う。いつもは園長の保母とお手伝いが一人いるが、今日はどちらも休みだと言った。
45 8/16
サワさんはふと光太に目をやり、大人しそうだから転がしといても大丈夫そうだと話すと、秀子さんがその言葉尻を捉えた。
それを制して、この子は自分から体が離れると泣く事があるから、と説明した立子。何か考えている様子のサワさん。
ここ、何もないのねえと言う秀子さん。確かに遊具も本もない。一冊だけある絵本は、子供の手の届かない所にあった。
この地域では、建物を作るだけで精一杯だと話すサワさん。ここも署名運動と寄付で、やっと建ったという。
先のお漏らしした男の子がパンツと訴えたため、年かさの女の子に持って来てもらったサワさん。男の子に、必要なものを言えた事を秀子さんが褒めてやるが、睨みつけて走り去った。
46 8/17
サワさんに、保母の資格はあるかと訊く秀子さん。保母が一人で保育していい児童数は、二歳以上としても三十人までだと言った。沈黙のサワさんに、区役所に報告しようかと言う秀子さん。
言い付けたいならどうぞと言うサワさん。自分が保母を始めたのは戦後すぐ。あの頃は保母の資格は必要なかった。子守は誰でも出来ると言われていたと返す。更に講釈しようとする秀子さん。
私も同じですと割って入った立子。戦後すぐ上京して縫製工場で働いたが、正直縫い物が好きかなんて考えた事はなかった。
サワさんも静かに言う。昔から兄弟の面倒やら近所の子守を任されていたから、それだけは出来ると思って地元を離れた。
47 8/18
言い終わるとサワさんは、泣いて転がって来た男の子の涙を拭いてやった。今の仕事も好きとかではなく、次の仕事までの繋ぎ。保母仲間で人手が足りないから通ってるだけだと言った。
そして、稼げる仕事があれば、何でもやると続ける。
秀子さんが最後、睨むように、あなたが保母として一番大事にしている事は?と訊いた。死人を出さない事だと返すサワさん。
帰り道で、サワさんを悪く言う秀子さん。ああいう連中ばかりだから、日本の幼児教育は遅れたまま。いかにも無教養と重ねた。
秀子さんはこのまま研究所に行くと言って市電に乗った。立子は人通りを避け、川のほとりで光太に乳をやった。
48 8/19
駅前の通りを見上げていたら、赤ん坊を背負って二人の子供の手を引いたサワさんが見える。土手を登ると引き上げてくれた。
子供を置いて来て大丈夫か訊くと、十分ぐらいなら大丈夫だと返した。貧しい家の子など誰も攫わない・・・
それより立子に伝え忘れた事があると言う。立子が着古したものを赤ん坊に被せれば、その匂いで安心すると言った。
何の本に書いてあるんですかと訊く立子。そんな知恵は、育児書で読んだことがない。読み書きなど出来ないと言ったサワさん。
学校に通ったことがないから、保母の資格など元々無理。
49 8/20
恥じる様子はなく、笑うと顔がくしゃくしゃになる。子供たちが素直に言うことを聞くのが分かった気がした。
子供を見ているうちに気付いたという。だから茣蓙の上の赤ん坊たちが大人しかったのだ。お礼を言うと踵を返すサワさん。
別れる前にあの絵本のことを聞いた。故郷でお手伝いした家の奥様に頂いたものだという。金を貯めて夜学に行きたいと言った。
保母の資格をいつかは取りたいとも。
50 8/21
その晩、立子は押入れから白いカーディガンを出した。あの人に「よく似合うね」と言われたことがある。捨てようかとも思った程だから、躊躇なくおくるみに出来る。
七時を過ぎていたが散歩に出掛けた。そして赤川邸を訪ねた。
秀子さんはすでに寝間着姿で髪にはカーラー。奥から赤川教授の、上がってもらいなさい、の声。それには及ばない。
サワさんと秀子さんとで、この街で青空保育園をやって欲しいとの願い。いやよと言う秀子さん。研究所の報告書を読み、これはという保母を選んでから。せかさないでと言った。
奮い立つ立子は、すぐにでも保育園が欲しいと返す。
51 8/22
重ねて秀子さんは、自分の理想に共鳴してくれる仲間とだけ、理想の園をやりたいと言い出す。サワさんがいいと思うのは、秀子さんと正反対だからと言う立子。「なんですって?」と秀子さん。秀子さんの理想とサワさんの力があれば、理想的な保育園になる。怯えた表情の秀子さん。必死の思いを吐き出す立子。サワさんは絶対に子どもを死なせない。それが自分にとって一番安心出来ること。それを強調すると頭を下げ、来た道を引き返した。その間光太は、カーディガンにくるまれて一度も起きなかった。
堀田さんが魚屋の弥生さんから聞いて、秀子さんと保育園を作ろうとしているの?と訊いて来たのは八月半ば。
今年は例年以上に暑く、立子の焦りは宥められている。
園が始まるのは、涼しくなってからがいい。
52 8/23
ある朝秀子さんを待ち伏せして、彼女が勤める築地の研究所まで付いて行き、そこの上司に我が地区での青空保育の実践を、署名と共に願い出た立子。弥生さんの顔の広さに頼って、十数名の署名か集まっていた。この時に秀子さんが正規の研究員ではなく、非常勤だと分かり、以来彼女はおどおどしている。
上司が認めたため、後に引けなくなった秀子さん。
あとはサワさんの引継ぎさえうまく行けば、来月にはこの街で青空保育園が始まる。サワさんへの交渉は難航したが、粘り強く対応。月四五〇〇円の給料確保と、秀子さんによる読み書きの指導。秀子さんは嫌がったが、それを聞いた父親に諭され、了承した。堀田さんと話の続きをする立子。
53 8/24
託児所作りは協力してくれなかったのにひどい、となじる堀田さん。託児所は実現に時間がかかるけど、青空保育園はすぐやれそうだから、そっちに乗ったと説明。堀田さんも山井さんと参加する様勧めた。保育園に子供を預けたら、心も身体も余裕が出来る。そして労働組合の結成も勧めた。二人以上の賛同者が居れば始められる。発起人は堀田さんで。断る堀田さん。
何故自分でやらないかと問う立子。頭はいいし、物知り。
インテリぶって嫌な女だと思われてる。話を聞いてくれない。あなただってそうだった・・・
54 8/25
大事な情報を分けてくれて有難かったと返す立子。少なくとも、全てのきっかけを作ってくれたのは、この堀田さん。
ただ、光太が生まれた頃はお乳をたくさん飲むせいで、頭が働かず、話が全部は分かっていなかったと謝る。堀田さんは、初めて立子に関心を持ったという目で見る。立子は、寮の誰かの部屋でお茶菓子を前に団らんする場を提案。頷く堀田さん。
九月第一週のその朝、立子は早起きして母乳を哺乳瓶二本分満たした。秀子さんとサワさんがバケツで冷やしてくれるという。
光太を背負って、工場から十分ほどの空き地に向かった。
朝が早い商店の子供たちがサワさんと一緒に遊んでいる。秀子さんは帳面に子供達の出席を記録している。
55 8/26
光太をよろしくお願いしますと言って、秀子さんに着替えとお乳を渡し、背中の光太を胸に抱き直した。ぎこちなく抱き取った秀子さん。すぐ光太がぐずったので、サワさんが引き取る。ホッとする秀子さん。秀子さんの給料は研究所持ちなので、サワさんの給料四五○〇円は参加者十七人で割り、一人月二百六十円の出費。予想より安くなった。
堀田さん、土井さんがそれぞれの子を連れて来た。
工場に引き返す間、何度も振り返る立子。サワさんに抱かれてこちらを見る光太。
その日、ミシン作業があまりに楽なのに驚く立子。乳が張ったが
午後には収まった。次第に頭がはっきりして、指も良く動く。隣の山井さんが、雨が降りそうだと言うまで気付かなかった。
56 8/27
窓の外ばかり見る工員に不機嫌な矢本工場長。堀田さんが立子含め、十人の工員と労働組合を立ち上げた事にもぶつぶつ。
子供を育てるとは晴れを願う事かも知れない。遠足、運動会等。
この先もずっと祈り続けるのかも知れない。
終
サワさんは朝と同様光太を胸に、もう一人を背に括りつけて立っていた。だが子供たちは、サワさん一人にまとわり付つ訳ではなく、めいめいで遊んでいる。片隅でしゃがみ込む秀子さん。近づくと、眼鏡にひびが入っているのが分かった。
57 8/28
何度も逃げ出そうとするから大変だったと言うサワさん。
「え、光太がですか?」と驚く立子に、一番でっけえ子だと秀子さんを見やる。子供に泥だんごをぶつけられ泣き出したと言う。私が間違っていた。私に保育園なんて無理だと言った秀子さん。赤ん坊一人あやせなくて保母の資格かと、ずけずけ言うサワさん。資格は、保育研究科卒なら誰でも貰えるという秀子さん。ただ、徳永先生の保育園で働いたというのは嘘。子供と遊ぶ面接で、誰も懐かず落とされた。「なんでそんな嘘を」と訊く立子に、自分の話を母親以外で楽しそうに聞いてくれたのは、あなたが初めてだったと言った。だからすごいと思われたかった。自分はどうしても子供に懐かれない。大人にも好かれないけど。
58 8/29
子供に懐かれないのに保育園をやりたい理由は、母親がずっとフレーベルの教えを実践して遊んでくれたから。
弥生さんの話を思い出す立子。秀子さんの母は元華族だったが、気取った所はなく商店街の皆から好かれていた。二葉保育園に勤めていたが、結婚で退職。赤川家の没落は、その母の死により実家との関係が悪化したため。サワさんが、初めてにしてはよくやったと言う。
秀子さんはフレーベル教育の難しさを痛感。思った半分も出来ず。葉っぱの傘を持つ女の子を見て、この子らは自然の恩物で勝手に遊んでる、何もないところで遊べるということ。それに、嫌われてたら、傘なんかさしてくれないと秀子さんに言う立子。
59 8/30
そんな慰めも通じず、ため息をついた秀子さんが立ち上がる。
立子は秀子さんとサワさんの手を取って、今日は何もかも違うと言った。いつも仕事が終わるとへとへとだったが、今は光太の顔が見られて、いいい一日だったと思える、と二人に感謝した。
そんな風に親御さんから言われたのは初めて、と当惑のサワさん。秀子さんも「はあ」と返事も力ない。
光太を背負って歩き出す。乳も張ってなくて頭はスッキリ。
魚屋に寄り、弥生さんに今日の報告をしたい。サワさんや秀子さんのことを常連に広めてもらいたい。その後銭湯に行き、食堂のラジオで「君の名は」の後に天気予報を聞こう。
「あーした、天気になあれ」との歌声に光太が笑う。そうして魚屋を目指した。