哀しみがあっても愛することが出来る方が幸福 | 預言者のコラム2

預言者のコラム2

俗言ではなく、預言者の視点から哲学、
人生、宇宙、宗教、
時事問題などを語って行きます。

 

世間には家族と不和があり、大人になり家庭を持ち、中年になり、実家の親と疎遠になる人がいます。
女性に多いかも知れません。(結婚すると家を離れるから)
つまり、若い頃、親と不和になり、親から暴言を受け、距離をおくようになり、疎遠になり、親のことをどうでもよいと思うようになっている人たち。

一方で、中年になり親が年をとり、親の老後が気になってしかたない、親が心配でたまらない、という人たち。

両極端です。

こんなケースもあります。
中年で病気になって亡くなった人がいて、その人には離婚した配偶者がいた。子供もいた。
しかし、病気になって亡くなるまで彼らは面会に来なかった。亡くなった後も線香をあげにも来なかった。

その家族側は何か離婚前の家庭でその人に暴言を受けたのかもわかりません。
それでその人に全く同情心が湧かず、どうなろうとよいと思ったのかも知れません。


そこで私が思ったのは、親を心配しすぎる人は苦労性で、楽しくないだろうな。
しかし親の心配がない、というのは気が楽な一方で、愛が欠如しているのだから、それは果たして幸せなのだろうか?と。

魂という観点から天から見てみると
人間が地上に転生するのは、「あがない」のためであり、いろいろなことをその人生で償う目的があるのです。

エゴを捨てること、贅沢をしないこと、貪らないこと、性的に正しくあること
家族という単位で助け合い、わだかまりを持たないこと
周囲の人たちに善意を持ち、助け合うこと
人類愛、家族愛を構築すること

などです。

最も身近な人たち=家族というのは偶然グループになったのではなく、最も仲直り(前世の敵だから)をしなければならない人たちなわけです。

ですからその使命を果たすには、反目している相手と和解することをしなければならない、ということなのです。
高次元から見るとそれが出来る人の方が気苦労が多くても「幸せ」と映るのでしょう。