新約聖書にはイエスが語った「よきサマリア人」のエピソードがあります。
道に倒れている人がいてユダヤの祭司たちが通りかかるが誰も彼を助けない。しかし、異国人であるサマリア人が通りかかると彼を介抱し、助けた。この場合見捨てたユダヤ人とサマリア人ではどちらが神の意志に適っているか?
というものです。
もちろん、異国人であるサマリア人の方がこの場合、神の意志に適っているわけです。
このように、我々もあらねばならないというわけです。
ところでサマリア人というのはユダヤから見ると、劣った人種とみなされていたものですが、自分たちで自分を高尚と思うことが素晴らしいのではなく、たとえ自分が劣った存在でも、他人から見て劣った存在と見られようと、神の意志に適った生き方をすることの方が大事だと、イエスは言っているわけです。
ところで、
かつてのイスラエル王国は紀元前1000年頃興りました。
当時イスラエルは統一国家ではなく、預言者サムエルの意向と12部族の会合で王が決められ王国になったのです。
しかし3代目のソロモン以降、王国は2つに分断します。南ユダと北イスラエル王国です。
そしてこの2国~元々は一国であったのに、反目し合うのです。
傍目から見ると滑稽ですが、隣国同士、近隣、友人同士というのはとかく反目しあうようです。韓国や中国が日本を嫌ったり、中東内での絶え間ない紛争もそうです。
そして「列王記」と「歴代誌」という2つの書物がありますが、列王記はどうやら南ユダヤ目線で書かれ、歴代誌は北イスラエル目線で描かれているようなのです。
「列王記」の方はソロモン王が平和に国を治めたこと、大いなる知恵を持っていたことが描写されますが、「歴代誌」の方は~これはアダムからの聖書の総括のように書かれているが~、ソロモンの粛清が描かれているのです。
つまり、平和の人であるソロモンが、王位に就く前に、周囲の邪魔者を殺しまわったというのです。
このように南ユダは自分たちに都合の良いように、歴史を語り、北イスラエルは南ユダに対抗しているわけです。
そして「サマリア」というのは北イスラエルの首都の名です。つまり、これは南ユダから見ると敵である北イスラエルの代名詞なわけです。
なぜ北イスラエルがそんなにユダに嫌われていたのかというと、バビロン捕囚、アッシリア捕囚の前に、ユダも北イスラエルも乱れに乱れ、堕落していたからです。
特に北イスラエルは人間の生贄、赤ん坊の生贄などをしていたので、南ユダは彼らを嫌ったのです。
しかし、国の単位では嫌うべきでも、人レベルではどうか?
そこで「良きサマリア人」ですが、そのような北イスラエルの人があなたを助け、同国人であるユダがあなたを見捨てたら、人としてはどちらを愛するべきでしょうか。
今、北朝鮮は酷い国です。韓国もこぞって日本を嫌っています。中国もそう。
しかし、国という単位ではなく、人という単位だったらどうでしょう。
その中に日本人以上にあなたを助け愛してくれる人がいたら?
イエスもこう言っているのでしょう。
人種や国籍、環境、状況に関係なく、人間は善であることが肝心と。
人は転生しています。あなたの愛する人を想像してみてください。
配偶者、子供、親、友人、などなど。
もし転生して彼らが敵対する国にいたら? そしてあなたが国単位でその国を嫌い、国民を総勢敵とみなしたら、あなたの愛する彼らもひっくるめて憎むことになってしまうわけです。
今でも魂レベルであなたの愛する人々が中国、韓国などに転生しているかもしれません。あるいは中東で苦しんでいるかもしれません。
ですらか、人間はどの国も~その指導者が酷くても~お互いに憎みあうのを止めるべきなのです。
そしてもしあなたがあなたを見捨てたユダヤ人より良いサマリア人の方をよしとするなら、あなた自身がそうあるべきで、敵の国の人であっても人として憐れみの心を持ち、できれば、憎むべき人であっても彼が窮地に陥っていたら、憐れんで、できるなら助けることが神の意志に適っていることなのでしょう。
(もちろん敵にだけ適用されるのではなく、日常的に誰にでも救いの手を差し伸べるべきだ)
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