テツになる勇気。 -8ページ目

テツになる勇気。

テツってのはね、乗ってりゃいいってモンじゃない。撮ってりゃイイってもんでもない。スジって一人でニヤけていたら通報寸前w。
そう、テツってのは、語ってナンボなのよ(マジかっ

 

 

こんにちは、鉄道好きブロガーの【鉄道のぞみ】ことヤッパくんです。

今日はちょっと"大人の事情"が垣間見える、でも鉄道ファンにはたまらないアツいバトルの話をしましょう。
テーマはズバリ、「つくばエクスプレスと常磐線の関係」です!

はじめは「助け合い」だったのに

つくばエクスプレス(TX)が計画されたころ、その名前は「常磐新線」。
そう、常磐線のお手伝いをするために作られる予定だったんです。

「長年がんばってきた常磐線さん、ちょっと渋滞もあるし、僕たち若い力で助けますね!」
…みたいな、心優しい後輩ポジションだったはずなんですよ。

でも、蓋を開けてみたら。
開業した瞬間、手加減なしのガチンコ勝負開始。

TX「僕、130km/hで走っちゃいます!」
常磐線「なら俺も新型車両(E531系)で、130km/h出すわ!」

完全に宣戦布告。
助け合いどころか、駅のホームでにらみ合ってる勢いです。笑

首都圏では珍しい「鉄道バトル」

実は、首都圏ってそんなに電車同士で競い合うことって少ないんですよね。
普通は、
「こっちは都心、君は郊外をお願いね☆」
「お互いテリトリー守ろうね!」
みたいな感じで、割と平和。

でも、ごく一部、血で血を洗うバトルがありました。

  • 品川~横浜間:JR vs 京急のスピード狂バトル
    →今も「速い」「安い」「うちの方がカッコいい」で、謎の争い。

  • 押上~浅草間:私鉄泥沼抗争(歴史の彼方の話)
    →乗り入れすぎて、もはや誰が誰だかわからない。

  • 日光戦争:JR vs 東武の観光客争奪合戦
    →最終的には「一緒に日光行こうぜ!」と、肩を組み始めた奇跡。

一方、
京王と中央線?あれは平和そのもの。
小田急と東急?JRの空白地帯を埋める仲間たち。

関西なんて、大阪~三宮間で3社並走してガチンコバトルしてるのに。
(阪急神戸線、JR神戸線、阪神本線の三つ巴…)

【結論】仲良くいこうよ

鉄道同士が競い合うと、確かにサービスは良くなる。
速くなるし、車両もピカピカだし、運賃もちょっと気合入る。

でも、どちらも本当は
「人を運びたい」
「社会を支えたい」
っていう、根っこの思いは一緒なわけです。

だからこそ、バトルもほどほどに、手を取り合って、仲良く未来を走っていってほしいなぁと。
(なんなら鉄道ファンとしては、「え、また新型車両出るの!?ラッキー!」ってノリで楽しませてもらいますけどね!)


ではでは、今回はこのへんで。
次回は「押上のカオス乗り入れ戦争」について語ろうかな!

いじりがいがあるからね、押上スカイツリー業平橋・・・

お楽しみに!

【鉄道のぞみ】


 

 

2025年春──旧国鉄時代の生き残り、「キハ52」がついにいすみ鉄道から引退。 鉄道ファンにとっては、名優の引退公演を見届けるようなものだ。しかも、昭和カラーで登場した最後のスター。惜しまないわけがない。

でもこの引退、ただの“懐かし列車グッバイセレモニー”では終わらない。背後には、なかなかシビれるテーマが見え隠れしているのだ。

 

クリーム+朱色──視認性MAXの昭和テクノロジー

あのクリームと朱色のツートン、いわば当時の「高性能セーフティーカラー」だった。

鉄道が山奥を走るなら、遠くからでも「あ、来てる!」と分かる方がいい。遮断機なし、警報もナシ、草ボーボーの踏切でも目立つ色。それが朱色の意味だった。要は、昭和の安全対策ってけっこうロジカルだったのよ。

そして何より、あの色、いかにも「国鉄してる」って感じがする。無骨で、ちょっと地味。でも、頼れるやつ。

で、なんで今は使われないの?

それはね、「お金とセンスの話」になってくるんかと。

現代の鉄道会社はすべて民間企業。つまり、“カッコよく儲けないといけない”という試練を抱えている。インスタで映える車体、グッズが売れる車両デザイン、観光地とコラボしやすいラッピング……これらはすべて、生き残り戦略。

正直言って、クリームと朱色じゃポストカードも売れない。 いや、売れるかもしれないけど、ターゲットが渋すぎる。

だから、今は視認性よりも“指名される車両”が求められてる。経済性重視?もちろん。でも、どの企業もそうでしょ?

「命より経済を優先するのは悪」──ほんとにそう?

ほら、ここからが今日の本題。

「お金より命を大事にしろ!」って、言いたくなる気持ちも分かる。でもちょっと待って。お金がなきゃ、安全すら成り立たないのが現実。

検査も整備も人件費もぜんぶタダじゃない。 そもそも鉄道会社が潰れたら、安全もへったくれもない。

だからこそ、命を守るために、まずは会社が利益を出せる構造を守る。 そう考えると、ちょっと哲学的になってくるけど…… 経済を優先するって、じつは“命を守るための回り道”なのかもしれない。

決して命を軽んじてるわけじゃない。むしろ、“命を守るために先に稼がせて”って話。

最後に──旧塗装の消滅は、「自分の命は自分で守れ」という静かなメッセージ

視認性カラーが静かに姿を消す。それは、単なるデザイン変更じゃなく、時代の価値観の変化だと思う。

「誰かに守られる安全」から、「自分で考えて守る安全」へ。

……うーん、なんか急に自助論っぽくなってきた? でもまあ、それも時代ってことで。

旧塗装が去るというのは、つまりこういうことなんだろう。

──“自分の命は自分で守れ”。それが、あの色が最後に伝えた静かなメッセージ。そんなふうに、ちょっとカッコつけて受け止めてみようじゃないか。

 

 

2025年4月25日。
福知山線脱線事故から20年の節目に、尼崎では追悼の祈りが捧げられた。
あの日、107名の命が失われ、562名が重軽傷を負った。鉄道史に刻まれた痛ましい事故だ。

JR西日本の長谷川社長は「尊い命を奪ってしまった」と頭を下げた。
国交省も「安全・安心の確保に全力を挙げる」と誓った。

だけど――。
その言葉の“本質”に、私たちはもう一度立ち返る必要があるのではないか。


なぜ、日本ではルールが絶対視されるのか?

日本人は「規律を守る」「ルールに忠実」だと世界から称賛される。
だがその姿勢は、裏を返せば「自分で考えずに、他人が引いたレールの上を走る」ことではないか?

楽をしているだけとも言える。

 

この国では「赤信号、みんなで渡れば怖くない」が笑い話になる。
でも、世界ではそれは笑えない――“普通”の感覚だということにも着目したい。

みんなが居ようといまいと、進めそうなら赤信号でも進むのがグローバルスタンダードだ。

 

なぜルールを守るのか? 自分の頭で考えて、そう判断しているのか?
それとも「違反しないこと」そのものが目的になってはいないか?


事故の「原因」は、運転士ひとりに押しつけていいのか

福知山線の脱線事故、直接の原因は「速度超過」とされている。
けれども、運転士がミスをしない完璧な人間だったら事故は防げたのか?

あの日、乗務員には「時間の遅れを取り戻す」ことへの強烈なプレッシャーがあった。
遅延を許さない企業風土と、上司の目、乗客の不満――。
そうした「見えない圧力」が彼を追い詰め、カーブでの暴走につながった。

ならば問いたい。
本当に“ルール通り”だったら、命は守られたのか?
そのルール自体が「考える力」を奪ってはいなかったのか?


「安全神話」は、もうやめにしよう

新幹線は「死亡事故ゼロ」とよく言われる。だが三島事故を引合いに出すまでもなく、新幹線で事故は起き人は死んでいる。
「安全神話」なんて、まやかしであるだけでなく、その言葉自体が現場を硬直化させるだけのもはやパワハラワードではないか。

“安全”とは、ただの言葉じゃない。
人間が自律して、考え続けることでしか守れないものなんだ。

 

鉄道員は最初に安全を徹底して教わる。

安全のため最優先することは、とにかく電車を止めることだと教わる。

でも、東関東大震災のときは逆に停まったら津波に飲まれて危険だからと高台のトンネルまで走行した。

考える力というのは、こういうことではないかと思う。


これからの鉄道に求められるもの

日本の鉄道は、これまでも、そして今も、世界トップレベルの正確性と安全性を誇っている。
けれど、その実績の上にあぐらをかいて「ルールを守っていれば大丈夫」という思考停止に陥ってはいないだろうか。

これから必要なのは、「ルールに従う律儀な国民」ではなく、「ルールを考えられる個」としての自律だ。

再発防止は、形だけのマニュアルや標語ではなく、
現場のひとりひとりが「なぜ?」を持ち、問い続ける文化から生まれる。

それが出来ていたら、自らも死亡する大事故と日勤のどちらを取るか、冷静に判断できるだろう。


結びに

あの事故から20年。
JR西日本では世代交代が進み、事故を知らない社員も多くなったという。
でも、記憶を風化させてはならないのは、鉄道会社だけじゃない。
社会全体が、考え続ける義務がある。

次の20年、私たちは「ルールを守る日本人」から、「ルールを考え創る日本人」へと進化できるか?

鉄道がまた“人の命を乗せている”という当たり前の事実を、胸に刻みながら。