昨日から始まったアメリカ大学史、今日はアメリカにおいて、現在の形の私立大学がどのようににしてつくられていったかという話です。


最初のアメリカの大学は、全てNew Englandと呼ばれるアメリカ北東部に存在していました。その地方の名前からも伺えるように、独立前はイギリスの植民地であり、イギリス法が使用されていました。


当時、イギリスの法律では、大学を作るためには、王の許可を得なければならない、というルールがありました。大学だけではなく、全ての法人を設立するために、王の許可が必要な時代であったわけです。


大学の次元で、これは何を意味をするのかというと、大学が王の支配下に置かれるということになります。具体的には、大学は設立を認めてもらう変わりに、王室による視察を受け入れなければなりませんでした。


ところが、こういった法律があったのにもかかわらず、ハーバードや、イェールは、実際に王からの許可をもらわないまま、大学を創立してしまいました。当時、イギリス本国では、国教と異なる教義を信ずる異教徒たちへの迫害が続いており、アメリカにいる「異教徒」たちは、王によって、自分たちの教育が阻害されることを恐れていたからです。ハーバードは、王の代わりに、植民地政府からの許可を取り、それをもって自分たちの法的正当性を主張したりしました。結局、ハーバードは、最後まで王からの許可を得ないまま、アメリカの独立を迎えます。


アメリカが独立して以降は、大学と王の関係は、そのまま大学と州政府という形で引き継がれていきます。植民地時代につくられた大学は、イギリス王室との駆け引きには成功しましたが、州政府に対しては今までのようにはいきませんでした。昨日も触れましたが、州政府は大学に援助金を拠出していたわけです。それを根拠に、州政府はこれらの大学はPublicであるべきだと主張し始めました。このような、大学はPublicなのかPrivateなのか、という議論は、世紀が変わって19世紀に入っても続きます。


そして、19世紀に入ってしばらくして、一地方で起こったある事件が、アメリカの大学界を揺るがす事件へと発展していきます。そしてその結果、PublicとPrivateの議論は一気に収束していくのですが、それは次回の話ということにします。



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申し訳ありませんが、明日から3-4日ほどブログ更新できません。

来週からまたしっかりと書いていくのでよろしくお願いします。









ここしばらく、アメリカの大学における教授の話をしてきましたが、

今日は、何回かにわけて、アメリカの大学史というものを考えてみたいと思います。


アメリカの大学史は1636年のハーバード大学設立にまで遡ります。日本は大体徳川家光の時代でしょうか?アメリカはまだまだ未開の地であり、国というかたちも全くない時でした。新天地を求めて、清教徒たちがヨーロッパからやってきた時代でした。そして、アメリカについた移民たちは、まずそこに街を造ることから始めたわけです。


街をつくる上で、彼らが腐心した点、それは、いかに彼らがもともと住んでいたヨーロッパの文化・宗教をそのまま新しい地に持ち込めるかということでした。彼らは、彼らの子孫が、それまでの祖先たちが大事にしてきた価値観を、なんとか継承していけないものかと、考えたわけです。その手段として、大学がつくられました。彼らが知っている当時の大学といえば、イギリスのケンブリッジや、オックスフォード大学になります。ハーバードの創立者たちは、そういったイギリスの大学の形を忠実にアメリカに実現しようとしました。そして、ハーバードは後のアメリカ型大学のモデルとなっていきます。


1776年のアメリカ独立までに、9の大学が設立されましたが、この時代の大学設立・運営に重要な役割を果たしたのが、キリスト教の教団でした。最もキリスト教と一言にいっても、様々教義が分かれます。それぞれの教義の信奉者たちが組織をつくり、その組織が大学の運営を行っていました。教授もほとんどが聖職者たちで、またそれと同時に、聖職者たちが当時の社会の知識人であった時代でもありました。


9つあった大学のうち、College of Philadelphia(今で言うUniversity of Pennsylvania)のみは、そういった宗教的なかかわりを持っていませんでしたが、しかし、他の8つの大学、プリンストン、イェール、コロンビア等、すべて特定の宗教団体とのつながりを強く持っていました。例えば、17世紀の間にハーバードを卒業した3分の2の学生が、その後、聖職者になっています。この話が物語るように、宗教と高等教育は密接な関係を保っていたわけです。宗教の教義が、教育内容に大きく影響する、そんな時代でもありました。


ところで、これらの大学は、全て私立大学と考えられていますが、ハーバードも他の大学も、創立してからしばらく、植民地政府から財政援助を受けていました。そういう意味では、完全な私立ではなかったわけです。もっとも、当時は、私立という概念がなかった時代なので、そのたてわけ方自体にあまり意味はないかもしれません。私立という概念が確立されるようになったのは、19世紀に入ってからです。



・・・続きは明日。




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植民地時代に創立された9つの大学(時代順)


1. Harvard (1636)

2. William and Mary (1693)

3. Yale (1701)

4. College of New Jersey (1746)   現在の Princeton University

5. College of Philadelphia (1751)   現在のUniversity of Pennsylvania

6. King's College (1754)        現在の Columbia University

7. Rhode Island College (1764)   現在の Brown University

8. Dartmouth College (1769)

9. Queen's College (1771)       現在の Rutger University









今日もアメリカの大学の教授の話をします。

先日、Associate Professorになったら、テニュア(終身雇用)がもらえて、Assistant Professorはそれをもらうために必死に頑張る、というような話をしました。


それでは、テニュアを取得したらどうなるのか?やはり教授も堕落していくのではないか、という不安と不満が大学関係者の中でずっと内在していました。そして、90年代の前半、このテニュアという終身雇用制度を見直すべきだという声が全米各地で見られるようになってきました。これを、Post-tenure-reviewといいます。


Post-tenrue Reviewというのは、各大学によってその内容も随分変わりますが、一般的にはテニュアを持った教授を定期的に評価の対象にかけると言うことです。そしてその評価は給料や、極端な話解雇もありうる、といったところにこのPost-tenrue Reviewが議論を呼んでいる理由があります。


現在、この. Post-tenure-reviewがどれくらい行われているのかというと、1996年にアンケート調査が行われましたが、680の回答した大学のうち、61%(約400)の大学がPost-tenure-reviewを行っていると答えました。また州別では、2000年時点で37の州の州立大学が、何らかの形で Post-tenure-reviewを実施しており、特にアーカンサス、バージニア、カリフォルニア、サウスカロライナ州では、Post-tenure-reviewは義務となっています。また、私立大学で言えば2000年にハーバード大学で行われた研究では、48%の私立大学がPost-tenure-reviewを実施しています。


21世紀に入って以降は、それほどPost-tenure Reviewも話題に上ることは少なくなりましたが、例えば教授が解雇された場合、教授は法的措置に訴えることがしばしばのようです。


詳しくはこちら: http://www.aaup.org/Legal/info%20outlines/legposttenure.htm


先日紹介した教授の全米組織であるAmerican Association of University Professors(AAUP)は、もともと、このPost-tenure Reviewには断固反対、という立場をとっていましたが、時代の波には勝てなかったのか、1999年には、「教授を解雇するのためのPost-tenure Reviewではなく、Faculty DevelopmentのためのPost-tenure Reviewならば賛成」という立場をとるようになりました。


http://www.aaup.org/statements/Redbook/rbpostn.htm


もっとも、先ほども述べたように、各大学のタイプやミッションによってPost-tenure Reviewの内容も随分変わってきます。教授主導で行われる大学もあれば、Staffが主導で行う大学もあります。解雇もありうる大学もあれば、そうじゃない大学もあるわけです。しかし、90年代の議論を通して確立された論理は、先ほどのAAUPの発言にもあるように、罰するためのPost-tenure reviewであってはならないということです。


日本でもPost-tenure Reviewを実施しているところや、実施を考えているところが少なからずあると思います。しかしその第一歩として、まずTenureとは一体どういう意味をもつのか、という議論をする必要があると思います。はっきり言って、日本の大学のシステムは欧米のシステムの借り物なわけで、テニュアもそれに含まれます。アメリカでは様々な人たちの犠牲の上にかちとったのがテニュアなわけで、そこに至るまで長い歴史を経て来ました。だから、Post-tenure Reviewという話が出てきた時に、きれいな言い方をすれば、様々な思いがそこには込められていました。故に、日本の大学でいうテニュアとアメリカの大学で言うテニュア、同じ言葉であったとしても、その持つ意味合いは全く変わってきます。


日本とアメリカの大学は全く異なる環境にあるので、アメリカで行われていることがそのまま日本に当てはまるとは限りません。全体的に見て教授の質の低さは、アメリカとは比べ物にならないです。そういう意味から言えば、ひょっとしたら教授の権利をどうこういう議論の余地すらないかもしれません。



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ここ数日教授に関する話をしてきましたが、今日は、さらに教授の終身雇用についての話をしたいと思います。おそらく日本でも同じだと思いますが、ひょっとしたら違うかもしれないので・・・。


まず、教授にも様々なランクがあることは、大学関係者なら知っているかと思います。アメリカでは、一番上のランクが「Professor」、full-professor, とも呼ばれます。次のランクが、「Associate」、そしてその下に「Assistant」が来ます。大学によっては、その下のランクとして「lecturer」というポジションもあります。そして、ランク外に位置するのは非常勤講師としての、Adjunt Facultyです。


終身雇用のことをテニュア(Tenure)」というのですが、このテニュアがもらえるのは、2番目のランクのAssociate Professor になった時です。故に、その一つしたのランクのAssistant Professor である間は、実は終身雇用ではありません。


Ph.Dをとり終えた人が、仕事をうまく見つけて、最初に就任するのがAssistant Professorなわけですが、その時にまずそのポジションが Tenure-track か、Non-tenure Track かによって分かれてきます。Non-tenure Trackのポジションの場合は、その後の昇進はありません。


うまく、Tenure-track の Assistant professor に就任した場合、大体契約は3年から7年になります。そして契約が切れる直前に上司から、契約を更新するかどうかを言い渡されるのですが、ここが天国と地獄の分かれ目になります。もし、契約更新となったら、無事Associateに就任で、テニュア獲得です。しかし、契約更新されなかった場合、それはAssociateになれないだけでなく、今後Facultyとしての道が絶たれることを意味します。というのは、テニュア取得に失敗したというのは、今度どこへ行こうが付きまとうわけだし、まずその人が再び Assistant Professor として別の大学に採用されるなんて言うことはまずありえないわけです。


契約更新するための基準は、大学によって様々です。コミュニティカレッジの場合は、Teachingのみで判断されますが、これがいわゆる有名大学、特に研究大学になると、Assistant Professorは、さらに様々なことを要求されます。


例えば、これは僕のいたミネソタ大学のCollege of Educationの話ですが、Assistant Professorは、5年間の契約期間内に、15の論文が、その分野で権威のある雑誌に掲載されないといけないという暗黙のルールがあるそうです。そして、それにプラスTeaching、そしてアメリカの大学は教授に社会貢献ということも要求します。もっともこの社会貢献というのは、定義が曖昧であり、実際そこまで重視はされてませんが。


この15の論文掲載、理系の人から見ると大したことないかもしれませんが、教育系の論文というのは、理系と違って小刻みに論文を発表し続けるということが難しい分野です。博士論文15個分を5年間で、といった方が分かりやすいかもしれません。もっとも、共著もありだし、様々抜け道はありますが。学生が大学院で教授を選ぶ時、Assistant Professor を自分の担当教員に選ばないほうがいい、といわれるのは、Assistant Professorは、自分の実績を残すのに必死で、そのあまり、自分の学生の成果まで奪ってしまう、という話が少なからずあるからです。


ところで、アメリカの大学で契約更新をするという決定権は、学科長、や学部長が握っているわけですが、それと同時に、学生の評価、そして同僚の評価が加わります(もちろん職員はありませんが)。様々な角度から評価を受けるわけなので、Assistant Professor はそれは必死なわけです。人生かかってますから。たまに、理系以外の分野でも日本人の方で、アメリカの大学で教授をやられている方がいらっしゃいますが、本当にすごいと思います。


日本では一体どうなのでしょうか?もし知っていらっしゃる方がいるようであれば、教えていただきたいと思います。



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昨日は、アメリカの教授には定年がない、という話をしました。

これは1994年から施行されました。

今日は、この法律がどのような影響を結果大学に与えるようになったかについてのリポートです。


情報源はここ http://www.aaup.org/Issues/retirement/retrpt.htm


American Association of University Professors(以下AAUP)という大学教授たちのための組織があります。いわゆる労働組合のように給料の交渉をすることがこの組織の目的ではなく、もっと広い意味で、大学における教授の言論の自由、いわゆる学問の自由を守るために、1915年に、当時コロンビア大学の教授で、また哲学者、教育改革者としても有名なJohn Deweyなどが中心となって立ち上げた組織です。アメリカの大学の歴史を語る上で、良くも悪くも、このAAUPを抜きには語ることはできません。

ともあれ、このAAUPが、対象となった1382の大学全てにアンケートを送り、608の大学から得た回答を基にして、教授の定年が撤廃された後、これが各大学にどのように影響を与えたかについてのリポートを2000年に発表しました。

このリポートによると、興味深いことに、約8割の大学が以前と比べて70歳以上の教授は増えていない、と答えているわけです。つまり、定年があった当時と、それが撤廃された後では、ほとんどの大学はあまり影響を受けてないということになります。ただし、これを大学別に見ると、日本で言う東大・京大のようなアメリカの研究型大学では、約4割の大学が70歳以上の教授の割合が増えた、という結果を発表しています。

全体として、定年を撤廃しても教授の高年齢化がそこまで進んでいない理由として、おそらく二つの理由が考えられます。一つは、早期退職優遇制度を各大学が実施したことです。アンケートによれば約半分の大学が1995年以降、早期退職優遇制度を拡充したと回答しています。そして、もう一つの理由は、70才を超えても働き続けたいという教授は、一般的に思われている程多くなかった、ということです。

今回、僕が注目したいのは、この2番目の理由です。

おそらく、誰もが皆、定年が撤廃されたという話を聞いた時、今後70、80の教授がごろごろ増えるに違いない、と思ったはずです。しかし、実際はそうではなかった。

これは、データが果たす大きな役割の一つを示しています。つまり、データというのは、時として固定観念に縛られがちな人々の発想の転換を促す効果があるわけです。僕が一貫して、日本の大学は政策決定をする上で使えるデータベースの構築を急ぐべきだというのは、こういう理由からです。

人間誰しも、どんなに頭が柔らかいというひとでも、固定観念というものを必ず持っています。固定観念は、時として正しい場合もあります。ただ、それは人を間違った方向へ導くこともあるわけです。もちろん、全ての意思決定が正しく行える人なんてこの世には存在しません。そしてデータも時には誤った情報を伝えることもあります。ただ、確率的に考えて、人間の固定観念のほうがリスクは大きいです。データはその間違った方向へ進む可能性を、なるべく減らすという意味において、必要なわけです。

今大学間で競争が激しくなってきているとの話ですが、現在の大学の首脳陣(特に私立大学)が、直感と経験のみの縛られた固定観念のまま、大学の運営をしているところに未来はない、と僕は思います。




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昨日は、教授を雇う時の話をしましたが、今日はさらにそれに関連して、教授が辞めるときの話、つまり定年についての話をしようと思います。


結論から先に言うと、アメリカの大学には教授職の定年がありません。

これは昔からそうだったのかというと、そうではなく、1987年に連邦議会を通り、1994年1月から、全米でこの法律が施行されました。もっとも、州によっては1987年以前から教授職の定年を廃止していた州もあり、いつ定年が撤廃されたかは、各大学によって分かれます。


この定年の撤廃は、人権という立場から、年齢によっての差別は良くない、ということがその大きな理由です。つまりAffirmative Actionの一環です。実際、65を過ぎてもバリバリ働く教授もいるわけです。また、平均寿命が昔よりも格段に長くなった今、平均寿命が今よりも短かった時に決められた定年をこの時代にそのまま当てはめることはできない、という議論もあります。また、実際のところ、年金だけでは満足する生活を送ることもできない、という高齢者の悩みもあります。


大学関係者の方なら皆知っているかと思われますが、教授にはテニュアといわれる終身雇用制度があります。日本でも同じだと思いますが、アメリカでは助教授になったらそのテニュアをもらうことができるわけです。テニュアを持っている教授は、大学からよほどの理由(犯罪を犯したなど)の理由がない限り解雇されることはありません。


したがって、定年撤廃に反対する人たちの意見としては、高年齢の人たちがやめてくれないから若い教授を雇うことができないじゃないか、というわけです。教授陣の高齢化が進み、組織のバランスが崩れるというわけです。


日本の大学にはもちろんのことながら定年があります。おそらくこれを撤廃するなんてことになったら、今の時勢は特に、世論から怒涛の攻撃を受けることは火を見るより明らかです。


組織の効率性から考えると、間違いなく定年制は維持すべきです。

人権を取るか、組織の効率性をとるか-、アメリカは人権を選んだわけです。

アメリカは効率性を何よりも重視する国だという認識があるかもしれませんが、必ずしもそんなことはないうことをこの話は物語っています。


高齢者の権利を守るのか、組織の効率性をとるのか。

どっちがいいと思いますか?


今の日本は、断言できますが、間違いなく効率性をとるように思います。





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いつも読ませていただいているマイスターさんの「俺の職場は大学キャンパス」に、日本の大学教員の採用についての話がありました。そこに、恐縮ながら、僕の先日の記事も載せていただきました。どうもありがとうございました。


http://blog.livedoor.jp/shiki01/archives/50037994.html


この記事を読んだ後、日本の大学はまだこんなことを公然とやってるのかー、と正直思いました。大学改革という言葉があちこちで叫ばれていますが、こういった肝心なところは結局変わってない。外見が変わっても中身は旧態依然のままであるというわけです。


そんなわけで、今日はその比較対照として、アメリカの大学における教授の採用方法についての話を、僕が知っている限りですが、紹介したいと思います。


アメリカにはAffirmative Actionという差別を禁じる法律があります。これは人種だけでなく、年齢、性別、宗教、性的な趣向などによる差別も禁止されています。日本で言う雇用機会均等法の徹底したバージョンみたいなものです。

教授の職に応募する時、履歴書を提出しますが、そこには顔写真はもちろんのこと、年齢、生年月日、性別、国籍というものは載せません。名前と、卒業した学校、そして過去の実績のみです。もしマイスターさんが紹介されたような採用方法をアメリカで行ったとしたら、その大学は全て確実に訴えられて、人権軽視の学校というレッテルを貼られます。しかし、実際に人権を軽視しているのは事実でしょう。日本の大学の人権感覚がいかに遅れているかの一つの例にあたります。


これは僕の話ですが、自分が今の仕事の面接の際、自分が外国人であるかどうかも向こうは聞いてきませんでした(自分からいってしまいましたが)。僕のような外国人を雇う場合、就労ビザやそれに伴って弁護士等を雇わないといけないので、数十万他のアメリカ人を雇うより余計にかかります。しかし、それが理由で雇わない、というのはAffirmative Actionで禁じられています。そのビザ申請費を、給料から天引き、なんてことももちろん禁止です。そして面接では、向こうからそういう話も一切聞いてきませんでした。


もちろん、弱者の味方ようなAffirmative Action ですが、問題ももちろんあります。一つが、逆差別という問題です。実際にこれに関しての裁判も起こっています。そして、MajorityとMinorityの人々の溝も逆に深まっているという指摘もあります。


こういった差別の問題というのは、人間の心の内側の問題なので、法律で全てを解決するというのは難しいかもしれません。今回のハリケーンでも、アメリカに潜在している差別という問題が表面化してしまいました。


だからこそ僕は大学が非常に大事になってくるのだと思います。何度もいうように、大学は人間を教育するところです。しかし日本では、そこで教えるような人たちが、未だにそういった差別意識を持っている、-本人たちに自覚はないにしても-、というのは残念でもあります。大学の教授というのはいわゆる知識人であり、かつては賢人といわれる人たちの集団でした(日本の話ではないですが)。


日本の大学が、人権意識を人々に啓蒙していけるような、社会で最も開かれた、進んだ場所になることを強く願います。




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おそらく日本でも知らない人はいないと思いますが、先日史上最大級といわれるハリケーンがアメリカ南部を直撃しました。とくに、その中心的都市である、New Orleans の被害はすさまじく、実は僕は7月にそこにいたのですが、テレビで見る限りとても同じ場所とは思えないくらい変貌していました。


大学という視点でこのハリケーンの被害を見ると、これは職場で流れてきた情報なのですが、New Orleansにある、8つの州立の大学(コミュニティカレッジも含む)と、5つの私立大学は、この秋は学校閉鎖となりました。約75,000人の学生はこの秋学校へ通えないことになります。そして、州立に通う40,000人の学生のうち、36,000人の学生が住居を失いました。経済的損失で見ると、まず単純計算で今学期分60億円の学費の損失、そして、復興にかかる額は未だ未定だそうです。Chronicle of Higher Education でも、当然のことながら連日ハリケーンの被害の話が掲載されています。


このハリケーンに対して、思うことは様々あるのですが、それを書くとこのブログの趣旨から外れるので、あえて大学の視点から、ということで、Chronicleにあったひとつの記事を紹介します。


In Wake of Katrina, Colleges Face Host of Insurance and Facilities Problems, Experts Say

(カトリーナによって、各大学は保険と、施設の問題に直面、-専門家の話-)


この記事によると、各大学は今回の災害を予想(規模は予想よりはるかに大きかったが)して、保険に入っていたため、復旧費用は大丈夫なはずだったのだが、実はその保険の内容に落とし穴があったということ。それは、水害によって発生した大量のカビであり、これを取り除く費用は保険ではカバーされないということです。ほとんどの建物がこの被害にあっていて、その金額はかなりの額になるだろうということです。


今回のこの災害が物語っているのは、各大学は非常事態に備えての対策を、もう一度練り直す必要があるということです。記事で紹介された専門家は、各大学が非常時に備えて最低限しておくべきこととして3つあげています。


1、財源の確保。今回のように近くのATMや銀行全てが使用不能になった時、現金をすぐ手に入れられるようなシステムを考えておく必要がある。カードは使えなくなるからである。


2、そのお金で、とにかく非常時を切り抜けるために必要なものをすぐに揃えることができるようにする。(水、木材等)


3、衛星電話の設置。E-mailや電話がダウンした時に、すぐに連絡が取れるようにするために、大学の首脳陣5-6人がいつでも連絡を取れるような大勢を作ること。


そしてこの専門化が言うには、こういう細かいところで不都合があると、それが全体の復旧に悪影響を与えるようになる、ということだそうです。


以上、Chronicleの記事の大まかな内容です。日本も自然災害が非常に頻繁に起こるところでもあるので、今回のこのハリケーンを、対岸の火事として見るのではなく、はたして自分の大学に同じようなことが起こった時どう対処できるだろうか、ということを考えておく必要があります。



しかし、今は起こってしまった以上、今何ができるかを考えることの方が大切です。

今、自分の職場は、高等教育の立場から、どうやって被災者たちの手助けができるか、という議論を各州のSHEEOと進めています。各州それぞれは動き出したのですが、それぞれのコミュニケーションがあまり取れていません。一刻も早く適切な行動を取らないといけないのに、その辺をもどかしく感じざるをえません。


とにかく、現地の一刻も早い復旧と、被災者たちの無事を祈ります。












今日 Chronicle of Higher Education を読んでいると、日本の大学についての記事がありました。タイトルは


National Universities in Japan Rake in Profits of $1-Billion  (有料です)

(日本の国立大学1000億円の大もうけ)


記事の内容は、日本の新聞にもしばらく前に載っていましたが、独立行政法人になって以来、日本の国立大学が利益を上げまくっている、ということが取り上げているわけです。トップは大阪大学(Osaka Universityとあるから大阪大のことですよね?)の、約70億円、2位はそれを若干下回った東大。89ある国立大学のうち利益を出せなかったのは岐阜大学のみ、ということだそうです。その岐阜大学も、新しい病院を作っているから今回は黒字にはならなかったということで、国立大学がまさに時代を謳歌しているといったわけです。


しかし、これは当然といえば当然の結果で、今までこういう経営をしてこなかったほうがおかしいわけです。逆にこういった話が話題になること自体、今までいかに国立大学が文部省(文部科学省)にがちがちに管理されていたか、ということと、国立大学が放漫経営を行っていたかを物語っています。


まず、この記事を読んで勘違いをしてはいけないのは、「黒字=大学は儲けている」という図式はすぐには成り立たないということです。日本の大学の内部事情はよく分かりませんが、一般的に安定しているアメリカの大学は、収入の全てを使ってはならないという大学内のルールがあります(もちろん政府からの援助金は全て使い切らなければなりませんが)。非常事態に備えてともいえるし、基本財産を増やすためともいえます。それがいわゆる黒字なわけです。ちなみにミネソタ大学は、そういう見方をすれば年間500億円の黒字です。個人レベルに置き換えてみても、給料全てを使い切るなんて事は、なかなか勇気がいることではないでしょうか?なるべく、余剰が出るようにお金の使い方を考える、というのが一般的な感覚だと思います。


国立大学は、昔は与えられた予算をいかに使い切るかということに腐心していたわけです。だって、使い切らなかったら国に返還しなければならいわけですから。ところが、余剰金も自分のものにできるようになったとわかったため、各大学ともお金をいかにうまく使うか、ということにようやく眼を向け始めた、と僕は見ています。それがその結果今回の黒字経営に結びついたということになるわけです。じゃなければ、この現象は説明できないです。最も僕は内部の人間ではないので100%あっているという自身はありませんが(もし、違うようでしたら、教えてください。)。


ところで、この記事に関して、実は自分の職場でも話題になりました。僕の上司が「日本の大学は民営化しようとしているのか?」とちょっと驚いたような口調で僕に聞いてきました。アメリカでは、州立大学を私学化することに大してものすごく抵抗があります。というより、絶対起こりません。というのは、政府の援助がなければ大学はやっていけないというのは一般常識レベルで認識されているからです。逼迫した財政のため、援助は減ってきてはいますが、政府はすさまじい抵抗を覚悟して削減を行うわけです。


だから、日本で一番怖いのは、これで政府が調子に乗って、世論もそれに煽られて「国立大学も民営化にするべきだ」なんて議論が出てくることです。案の定、毎年1%ずつ、政府も国立大学への予算を減らしているようです。おそらく昔無駄に使い続けていただけに今のレベルではまだいいのかもしれませんが、日本の場合、今回の郵政民営化みたいにいつどこで一気に国立大学を私学化すべきだという急進的な世論が沸き起こるか知れたもんじゃありませんので、大学関係者は気をつけるべきです。とくに私立大学関係者は、気をつけるべきであって、というのは、国立大学への援助が減るということは、私立大学の援助は当然のことながらもっと減るわけです。今、国からの援助なしでやっていける私立大学が果たしていくつあるかを考えたら、当然民営化の方向性は歓迎できません。

民営化の話でよくいわれるのが、日本の大学はアメリカ化しようとしている、市場主義経済原理が日本の大学にも必要だ、という言葉ですが、何度もいいますが、アメリカの大学界は市場主義経済ではけっしてない、ということです。州立私立問わず、政府の援助・介入が非常に幅を利かせている市場であって、上記のような発言をする人はアメリカの大学を誤解しています。日本の大学はアメリカ化しているというのは間違いです。




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今日はChronicle of Higher Education の記事の紹介です。


Colleges Scramble to Plan Events to Comply With Federal Mandate for Constitution Day

(連邦法で定められたイベントのために奔走する大学)


http://chronicle.com/weekly/v52/i02/02a03401.htm (すいません。有料です)


これは、どういう記事かというと、今年一つの法案が成立しました。それは、毎年9月17日の合衆国憲法成立の日に、連邦政府から援助を受けている大学、つまり全ての大学なのですが、その日に、各大学は学生が憲法への理解を深められるようなイベントを企画をしなければならない、ということです。そして今年はその第1回目に当たるわけですが、それに向けてキャンパスは大忙しだということです。もちろん、そのイベントのために政府からは一切お金はでません。


そういうわけで、多少この件について過去の記事もあったので、よく読んで見ると、どうやらこの法案の成立の背景には一人のベテラン上院議員がいたようです。彼の名前は Robert C. Byrdといって、 West Virginia州の上院議員です。


http://byrd.senate.gov/


もう上院議員を8期も務めている大ベテランなのですが、この人はワシントンでも、憲法が大好きな人で有名のようで、常に憲法をポケットに入れて持ち歩いているということ。そんな彼曰く、


Senator Byrd said Americans need to better understand the Constitution and its importance. "We can build upon the respect and reverence we still hold for our Constitution”


「われわれは憲法とその重要性に対して理解を深めなければいけない。われわれは今まだ使われている憲法に対して敬意を払う必要がある。」(若干意訳が入りましたが、前後の脈絡を読むとこういう意味です。)



まさに大きなお世話



そんなことは、政府の管轄外なわけです。大学が何を教えようと、それは大学の自由であり、いわゆるそれが学問の自由というものです。連邦政府は大学のカリキュラムに口を出すことは禁じられており、それこそこれが憲法違反なんじゃないの?って思ってしまいます。


そもそも9月17日が憲法制定の日でさえしらなかったのですが、まさかこんな下らない法律が通っているなんてことも恥ずかしながら知りませんでした。学費がどんどん上がっていく中で、経費削減やら、学費の上昇を抑えろとか、色々大学に文句をつける中で、ちゃっかりこんな法案を通してるわけです。政府がお金を投入するならまだしも(それはそれで大問題ですが)、学校にあえて無駄金を使わせる、この政府の感覚が理解しかねます。


また、こんな上からの押し付けで、彼は憲法への理解が広まると考えているようです。よくアメリカ人は中国や、イスラム系の国々をを中央集権主義だとか、イデオロギーを国民に植え付けているとか、平気で批判してはばかりませんが、自分たちも同じことしてんじゃん、って思ってしまうのは僕だけでしょうか?


憲法のような、いわゆる人としてのあり方をといたようなものは、外からの強制なんかでは絶対に身につくわけがありません。そして国は絶対に大学のカリキュラムに口を出すべきではありません。もちろん、質を上げろとか、注文をつけたり、批判の声を上げるのはかまいませんが、法律で教える内容を強制するようになったら、高等教育関係者はそれは大学の危機であるとみなすべきです。


アメリカの大学も、こういう政府の動きに対して、身動きが取れなくなってきてしまいました。それはそもそも、莫大な奨学金資金が政府から出ているからで、連邦政府の支援なしでは、アメリカの大学は、たとえハーバードであろうと、どこの大学もやっていけないわけです。お金も出すけど、口もだす、というわけです。




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